07
「まだ確定したわけじゃないけどね」
慰めるようにフーリーが言ってくれたのは、リンが落ち込んだからか。
「あ、ちなみに僕は警部補なんだ。まだ警部じゃなくて」
肩をすくめるフーリーの顔が、つと険しくなった。長い耳がぴょこんと立つ。本当か、と鋭く通信機に聞き返していた。フーリーの仲間(警察)から連絡が回ってきたのだ。ひとしきり喋ったフーリーは、リンに向けて笑顔をくれた。
「リンくん、奴は教会付近だ! 今度こそ捕まえるよ!」
教会とは、ヴィーグエングの丘の天辺に立てられた、古びた建物のことだった。その手前でイヌ族のドロボウは目撃されたらしい。リンたちがその姿を発見したとき、奴はリンの荷物をひっくり返していた。
何かを探しているのか。ドロボウが欲しがるようなものはなにがあったか。お金、ではない。もしそうなら、リンにランタンを与えたりしない。星間列車の乗車券? そういえば、ドロボウは「列車に乗らないで欲しい」と言っていた。……ドロボウが、列車に乗りたいのだろうか。
リンの着替え一式はドロボウにとって価値はないだろう。他に何か価値のあるものはあったか。頭を巡らせると……最後に残されたのは『女王さまから預かった手紙』しかなかった。
「落ち着いて。まだ奴はこちらに気づいていない。仲間が集まるのを待つんだ。いいね」
ドロボウを包囲して捕まえる作戦だ。先ほど数人による挟み撃ちに失敗しているので、フーリーのほうも慎重なのだ。
しかし、リンは待てなかった。だって、あそこには『手紙』がある。リンに託された手紙が! フーリーが仲間と連絡を取り合っている隙に、リンはそろりそろりとドロボウへ近づいた。案の定奴は屋根の上にいて、近づくのもおっかない。フーリーは近くの建物に身を潜めたが、そこからリンが近づくには一度降りてぐるりと建物を回り、屋根まで上らなければならなかった。フーリーならばジャンプ一回なのに。
屋根へ出ると、強風と共に身体が飛んでいかないか、不安になった。マフラーを改めて巻きなおし、リンはきゅっと唇を結ぶ。ばくばくと心臓が波打った。少しずつ近づくと、ドロボウは悪態をついて、鞄の中身を確認していた。さすがに息を切らしている。逃げては隠れ、隠れては逃げを繰り返していたのだから当然だ。
しかし鬼ごっこも、これで終わりになる。もうドロボウの姿はすぐそこだ――
こくん、とリンが息を呑んだとき、足が何かに取られた。がくん、と身体が傾ぐ。「わ!?」という悲鳴にドロボウがこちらを振り向いた。
「やめるんだ、リン君!」
後方からフーリーの警告がする。だが、リンは意を決してドロボウに飛び掛った。ここで躊躇ったらまた逃してしまう。列車にも間に合わなくなる。チャンスはこれっきりだ。リンの思い切った行動にドロボウは硬直した。逃げるか受け止めるか迷ったのだ。ドロボウが避ければ、リンは屋根から転がり落ちたかもしれない。
舌打ちがした。リンの身体はドロボウとぶつかって屋根の上を滑った。意外にドロボウの体重は軽く、バランスを崩すには十分だったのだ。
「なんてことをするんだ。受け止めなかったらどうなったことか、」
盗人が文句を並べる間に、何とかリュックへリンの手が届いた。抱きかかえるようにして荷物を手繰り寄せ、
「返してください、コレがないと困るんです! うちに帰れないし、この星に一人ぼっちになっちゃう! 返してください、こっちのランタンはいらないから!」
リンが決死の思いで叫ぶと、ドロボウも怒鳴り返してきた。
「駄目だ。放せ、しつこいぞ」
ドロボウも躍起になってバッグを引っ張るが、リンの身体も一緒くただ。荷物を振り回すとリンも振り回された。
「どうしてぼくのリュックなの。何も、入ってないのに!」
リンも必死だ。とにかく離されまいと食らいつく。すると、そのリンの耳元で、ぼそりと女の声がした。「入ってるよ、大切なものがね」と。それまでの男の声ではなく、少し低めの女の声に、リンがぎょっとして凍りつく。その隙を狙ってドロボウがリンを羽交い絞めにした。
「この子どもがどうなってもいいのか!? 止まれ!」
威嚇の声は、男に戻っていた。え、え? とリンは突然の出来事に目を白黒させた。単にドロボウが女の声色を真似たのか。それにしては、ぞくりと肌があわ立った。首をひねってドロボウを見上げると、イヌ族は死角から手を伸ばしたフーリーを睨みつけている。
ドロボウはリンと荷物ごとじりじりと屋根の端に立った。ギリギリの場所からさらに、リンの身体を左腕一本で屋根際へと追いやる。このままわずかに背を押すと、もしくは男がリンを手放すとどうなるか。
「……っ!?」
フーリーが動きを止めたので、ドロボウはにやりと笑う。は、は、と肩で呼吸をしているドロボウの顔色は、悪い。右肩をかばいながらリンをさらに端へと追いやる。
鞄を抱きしめ、リンはがくがくと体を震わせた。足元を見れば、めまいのするほどの高さだ。石畳が、小さく見える。捕まれた襟首と背中を支えるドロボウの、なんと心細いことか。エドとはぐれたことも怖かった。鞄を奪われたときの衝撃もすごかった。だがそんなものは今の自分に比べたら――このまま落とされたらリンの人生、潰れたトマトと同じになってしまう。
そのとき、背中越しに囁き声が伝わってきた。
「じっとしていなさい。悪いようにはしないから。本当ならあの列車にも乗って欲しくなかったけど、欲を出しちゃだめね。さあ、アレを渡しなさい。坊やに託されたアレを」
え……? とリンが身をよじろうとすると、頭部を押さえ付けられた。振り返ることは許されない。だが聞こえた囁きは、女性の声だった。頭が混乱しそうだ。このドロボウは、女性なのだろうか。体格はアニエスより小柄だが、小さい男のヒトだっているし――
「下がれ。この子どもの命が惜しければ下がるんだ」
フーリーへは男の声でドロボウは対応している。
「卑怯な。少年を放せ!」
怒鳴るフーリーへ、据わった目のドロボウがにやりと笑った。さらにリンを押し出したのだ。ひっと上ずった声をリンが出した。
「卑怯もくそもあるか。ほら、銃をこっちによこせ。市街でぶっ放すってのか? え? 祭りをぶち壊す気かよ!」
鬼気迫るドロボウの剣幕にフーリーは逡巡し、懐から銃を足元に置き、転がした。それを、リンをつれたドロボウがじりじりと寄って、蹴落とす。かん、かん、と音を立てて落下した。何だ、という声と悲鳴が下から聞こえてくる。眼下を歩いていた住民に騒ぎをかぎつけられたのだ。
「上着も脱げ。早くしろ!」
言う間に今度はじりじりとドロボウが後ろへ下がった。逃げるつもりだ。フーリーは悔しげながらも従う。
極度に追い詰められた者ほど何をやらかすかわからない。リンがこの三階の高さを落ちたらひとたまりもない。狭い裏通りに野次馬が集まってきて、何かを口々に叫んでいた。ドロボウが口を裂いた。これで下手なことはできまい、という笑みだった。
するとぐるぐる動いていたフーリーの視線が、ある一点で止まった。ぐあっと目を見開き何かを叫ぼうとして、必死に自制している。ドロボウが思わずその視線を追いかけたときだった。
「ちょっと待って! あいつに当たったらどうする――」
聞き覚えのある声。そして、轟音。ドロボウの右太ももを何かが掠めた。
「きゃあ!」
ドロボウの身体が揺れたと同時に、リンも投げ出された。フーリーが、気色ばんで屋根を疾走する。ドロボウが慌てふためき手を伸ばす。空中でリンは腕を振り回した。落ちる。アニエス、ローラおばあちゃん、テッサ、ニコラ……エイダ! ごめんなさい!
だが、がしっと何かがリンの腰を掴んで止めてくれた。屋根から半分以上乗り出した少年の身体を支えたのは、二つの腕だ。フーリーとドロボウの。その行動に驚いたのはフーリーだった。
「なぜ」
助けたんだ、というフーリーの言葉は男とも女ともつかない声にかき消された。
「捕えろ!」
フーリーは迫る足音を大きな耳で拾い、力いっぱいリンをもぎ取った。人質を失ったドロボウが醜く顔をゆがめる。そしてその懐に手を突っ込んだとき、
「そこまでだ! エルザ・スコーピオ!」
凛とした声は、場の空気を切り裂いて響いた。
かつっとヒールを鳴らし、髪の毛を風に乗せて女が近づいてくる。タイトスカートからむき出しの足が、慎重に歩を進めた。手の中にある銃を、女――アベルはまっすぐドロボウにポイントしている。
その傍らに立ったエドが、仏頂面をしていた。先ほど聞こえた抗議の声は、エドのものだったのだ。ちらり、とエドがアベルを仰ぐ。アベルは緊張した面持ちのまま、小さくあごを引いた。エドがリンの元へ走ると、リンはぺったり尻餅ついて、かたかた、と身体を震わせていた。フーリーから庇うように抱き寄せて、
「大丈夫、ケガはない?」
歯の根のかみ合わぬリンを、エドが覗き込んだ。リンは固まった顔をなんとか笑顔にしようとして、失敗する。落とされかけたのに放さなかったバッグを抱きしめ、何度も何度もうなずいた。安堵感に全身の力が抜けそうだ。
そこへ本日何度目かの咆哮がとどろいた。
「貴様あ! ここで会ったが百年目、大人しくお縄につけえ!」
フーリーが吠えてアベルに迫る。素手でつかみかかろうと飛び掛ったのだ。リンが小さく悲鳴をあげ、目を見開いた。エドはあちゃあ、と言うように片手を顔面に当てた。アベルは冷静にフーリーの腕を軽くいなし、捻り上げる。そして、激昂した。
「このっ痴れ者が! あいつをちゃんと見ろ! それでも警察かっ!」
麗しい女の顔から出る気迫がすさまじい。ギリギリとフーリーの腕を捻り上げながら、女は首に巻いてあるチョーカーをむしり取った。それは風に乗って飛ばされていく。
「エルザ・スコーピオ。ようやっと追い詰めたぞ」
アベルの口から出てきた声は完全に男のものだった。
どん、とフーリーを突き飛ばし、逃げようとした泥棒へアベルは歩いていく。銃を構えた沈着な顔には、うっすらと笑みを浮かんでいた。
「アベルさんって……」
リンが尋ねると、ネコ族の少年は目を泳がせた。その引きつった顔は「なにも訊くな」と語っている。ぺたんと座ったままことの成り行きを見守るリンを、エドが背中に庇った。吐く息が白くなって流れる。ピンと張り詰めた空気は、対峙するドロボウとアベルが放っていた。夕焼けの赤い光が、屋根の上に集まった彼らを照らし出す。
「エルザ・スコーピオ……?」
フーリーが脱臼されかかった腕を押さえてつぶやいた。ドロボウの粗野な顔に、広い肩幅、声は男のものだ。確かに身長は少々低いが、女には到底見えない。なによりエルザはヒト族ではなかったか。牙などないし、しっぽも生えていないはずだ。
だが怪盗だと言われてみれば、あの逃げっぷりにも納得がいった。リンへ耳打ちしたあの女の声も、ドロボウが「エルザ・スコーピオ」という女性なら考えられる。
ドロボウへ刺すような視線を向けたアベルが、男にしかできない太い笑みを作った。
「子どもを人質にとるとは落ちたもんだ。仲間を奪われ、義賊を名乗るのも飽いたか。っは、惨めだな」
ドロボウは足を押さえてアベルを仰ぐと、唇を歪ませた。ドロボウの撃たれた箇所から血がうっすらと滲み出す。それを押さえながら、
「その顔、アベル・ヨークか……!?」
アベルが笑みのまま自らの頭に手を当てると、髪をむしりとった。いや、脱ぎ捨てた。フーリーとリンは目をむく。背中まであった艶やかな黒髪が、かつら?
偽の黒髪の下から現れたのは、眩いほどの金髪だ。顔を触れればぺりっと何かがめくれあがる。右目の下を鼻梁まで走る傷があらわになった。どよめきが空間を支配する。傷を隠す特殊メイクだったのか。
刈り込まれた金髪に傷、濃い化粧を落とせばアベルは男に見えた。中性的な容姿だが、雰囲気が柔らかさを裏切っている。タイトスカートにハイヒール姿だったけど。
その場の視線を一身に集めた彼は、にやりと笑った。
「変装はあんた直伝だ。多少無理があったけど、見事に化けたもんだろ。昨日美術館で俺が撃った肩の傷は、痛むかい、センセイ」
「及第点をあげていいわ。思い切ったことをしたものねぇ……。あれはお前だったの。美術館のセキュリティが変わっていたのは。無能な地元警察にしちゃよくやったもんだと思っていたけど」
背後で「むの……っ!?」とフーリーが怒鳴りかけたのを、リンとエドが押さえつける。リンは戸惑いながらも、ドロボウの口調が変化したことに気づいた。では、やはり追いかけていたドロボウが怪盗フルムーンなのか。アベルが実は男だったように?
「ちょっと手を加えさせてもらっただけさ。おかげであんたと勘違いされた。厄介ごとを押し付けられて勘弁して欲しいね。ついでに言うなら、お仲間を逮捕したのは地元の警察で、俺たちじゃない。さあ、観念してもらおうか」