其の七
「ですから妖狐にも様々な種族があり、生まれながらに妖狐である者、年月を経て妖かしに変じる者などがあります」
「へぇ」
荷葉が山吹付きの側仕えとなって数日。
日に日に秋は深まり、鮮やかな緑に覆われていた山の色も日々冬へと向かっていく。
「人の世には大陸より伝来した神への信仰と古来よりこの国に在った神への信仰、更にそれらを習合させた信仰があり、狐と関係する神は多いです。たとえば天竺の……」
「ふんふん」
里では稲の出来についてなど、各々話しながら収穫する声が聞こえてくる。
年を経た木々に覆われた山中は麓の里よりも冷え、冬の季節が近づいてきていることを知らせる。
「そもそも神と妖かしの定義は人と妖かしでは異なり、山吹様はこの土地に住む人々に土地神と呼ばれていますが、正式にはまだ神位は得られておりません。妖狐が神となるのは空狐となってからでして……」
「おい!」
淀みなく語る荷葉の言葉を遮ったのは幼い子供の声。荷葉が視線を向けるとそこには目を据わらせた子狐、鬼灯の姿があった。
荷葉は露骨に嫌そうな表情を浮かべ、仕方なくといった様子で尋ねる。
「何ですか? 鬼灯殿」
鬼灯は毛を逆立てて怒鳴った。
「貴様! 人如きに妖かしについて語り聞かせるなどどういうつもりだ!」
荷葉と隣り合うように座していた水華は気まずそうに荷葉を見た。だが荷葉は一切怯むことなく、幼い少女の姿には似つかわしくない低い声音で反論した。
「四年もこの地に通われていらっしゃる水華姫は軽々しく口外なさる方でもありませんし、直に山吹様の妻となられるのだから問題ないでしょう」
「人如きが山吹様の妻になど誰が認めるものか! そもそも他所の地より野狐が紛れ込んでいるという噂も聞くような時期に、そのような者になど!」
「水華姫との関係は山吹様の側近であらせられる白殿も黒殿も認めてらっしゃいます! そもそも山吹様ご本人が仰っているのですから、貴方のような下の下の狐が何を申そうと何一つ変わりは致しません!」
「だっ、誰が下の下だっ」
「貴方以外に誰がいると申すのですかっ?」
「荷葉、もうその辺りで……」
水華の一応の仲裁に、荷葉は大きな目を爛々と輝かせてはっきりと言った。
「いいえ! 人化もまともにできぬような子狐にこのように言われて黙っているわけには参りません! 何といっても水華姫は年明けと共に山吹様の妻となられる御方なのですから!」
荷葉と鬼灯は初対面の悪印象もあってか仲が悪い。
鬼灯は水華とも相性が悪かったが、それ以上だ
「そんなこと、認めぬと言っている! 新参者が出しゃばるな!」「出しゃばられたくなければ、貴方がその余計なことしか申さぬ口を閉じればよろしいのです!」
巫女装束の少女と子狐はまさに一触即発といった状態でじっと睨み合った。
周囲の者たちがどうしたものかと互いに顔を見合わせていた時。
「……今日は何を肴に喧嘩している?」
その涼しげな一言が、張りつめていた空気を打ち破る。
「山吹様っ」
同時に叫んで二人は頭を下げた。
だが水華はぱっと顔を輝かせ、転がるような勢いでそちらへ向かった。
「山吹っ、お早う!」
水華は落葉を踏みしめ、幸せそうに山吹を抱きしめた。
「温かいー」
狐の姿のままの山吹の毛並みに顔をうずめて、水華は幸せそうな声を上げる。
「こらっ! 山吹様に馴れ馴れしいっ!」
鬼灯が怒声を上げるが水華は一切気にせず山吹に頬ずりした。
「今日はお狐様の姿なのね」
「先刻起きたばかりなんだ」
小さく欠伸をして山吹は答えた。
久しぶりに見た本来の姿は、やはり黄金色の豊かな毛並みの狐。
山吹は水華の腕から離れると、鬼灯と荷葉の前に立った。
「それで、何を揉めていた?」
荷葉と鬼灯は互いに牽制し合うように横目で目線を交わし合う。
先に口を開いたのは鬼灯だった。
「この者が妖かしの世のことを人に話すのです。私は妖かしと人は住み分けるべきだと考えます。ですのにこの新参者はそのような配慮など一切なく勝手に話すのです」
「私とて分別は持ち合わせております! ですが水華姫は特別でしょう? 山吹様の妻となられるのならば、むしろ妖かしの世についても知っておられたほうがよろしいこともあるはず!」
そうして二人はまた火花を散らし合った。
山吹は息を吐き、ちらりと背後の水華を一瞥した。
水華は困ったような顔をして荷葉と鬼灯を見ていた。
「……どちらの言い分にも一理ある。妖かしと人と住み分けるべきだと言う鬼灯の意見には俺も賛成だ。だが見境なく妖かしについて話して回るわけではなく、水華の立場を考えて話す荷葉のことを責めることはできない」
鬼灯は一切表情を崩さない山吹に不満げな声を上げた。
「……山吹様は甘すぎます」
「済まないな。これが俺だ」
さらりと言い、山吹は荷葉を見た。
「お前の言う通り水華は『特別』だ。他の者には余計な公言はするなよ」
「当然でございます」「ならばいい」
長い黒髪を揺らし、荷葉は深く頭を下げた。
一件落着と見たのか、山吹は隠すことなく大きく欠伸をした。
「山吹、眠い?」
水華の問いかけに山吹は答えない。眠たげに尾を垂らしただけだ。
その様子から水華の言葉が真実だと悟った鬼灯と荷葉は、慌てて地面に頭をつけた。
「申し訳ございませんっ! お休みのところをお邪魔してしまい……」
「失礼致しました……あの、これからは出来る限り大きな音を立てないように注意致します」
「別に平気だ。もう午も近いしな」
そう言いながらも山吹はもう一度欠伸をして、次の瞬間には水華も見慣れた人の姿になっていた。
「お早う、山吹」
「それはさっきも聞いた」
冷静に返してくる山吹に、水華はにこにこと笑顔で答える。
「だって山吹、人に化けたということは完全に目が覚めたということでしょう? 眠い時は狐の姿のままだもの。だからちゃんと目が覚めたのなら改めて挨拶しようと思って」
水華の言う通り、山吹は眠い時には人の形はとらない。狐の姿のまま水華と昼寝をしたり、他の妖かし達と戯れる気配を感じながら眠ったりする。
大概水華が家路につく頃には目を覚ましているため、共有する時間のほとんどを人の姿をした山吹と過ごしてきたがごく稀に前日の酒宴が長引いた時などは狐の姿の眠たげな姿の彼と過ごしていた。
「……よく見ているな」
呆れ半分、感心半分に山吹が呟くと、水華はにっこりと花開くように笑った。
「だって山吹のことだもの」
紅葉と実りの季節の終わりは近い。
すぐに厳しい寒さと、小さな暖の優しさを身を以て知る季節がくる。
そうして梅の花が綻び、甘く香り始める頃には水華との約束を果たしていることだろう。
それまでこうして日々は過ぎていくのだろう。
子狐たちの喧嘩に収集をつけ、月と星を愛で、人世の姫と共に季節の移ろいを眺め、時を共有して。
きっと――。
静かな、静かすぎるほどの夜だった。
山吹はまだ日が昇るには遠い刻限に目を覚ました。
山中の夜は昼間よりも冷え、冷たい夜露が顔に触れて唐突に意識が覚醒させられた。
今日という夜は酒宴もなく、山の妖かし達は既に皆寝入っているか、遊びに出かけている。
しんと静まり返った寝床である岩屋の内でもう一度目を閉じるが、まるで眠くない。山吹はゆっくりと顔をもたげ、久々の静かな一人の時間を過ごそうと岩屋を出た。
辺りには灯り一つなく、暗闇に支配されている。
だが長年この地に住んでいる身には今更灯りなど問題はなかった。どこにどの木が生えているのか、岩があるのか、全て体が記憶している。
何より暗闇は本来妖かしの領域だ。
昨今は日中に活動することが多く、夜眠るということが当然になっていたが、以前は山吹も夜闇と共に起きだしていた時期があった。
夜露に濡れた濃厚な緑の香を懐かしく思いながら山吹は歩き出した。
空気が冷たい。
まだ冬には少しばかり早いというのに、今宵はよく冷える。
静まり返った森を歩きながら山吹は人の地と妖かしの地の境界でもある、この山の祠付近に何かの気配を感じた。
里の人間ならば間違っても禁足地とされるこの山へは立ち入らない。ましてこの暗闇の中なら尚更だ。
では他所の妖かしか?
どちらにしても自分に害なす者ならば容赦はしない。山吹は祠のほうへと足を向けた。だが、途中でその足が止まる。
落葉を踏みしめる音。
その匂い。
荒い呼吸。
何故? と思いながら、山吹は三つ四つと狐火を灯す。
狐火に辺りは照らされ、祠から山へ立ち入った者の姿をも明るく照らす。
明りに朧げな影が浮かび、やがてその姿を露わにする。
「水華」
山吹の声に応えるように、肩で息をしていたその人物は顔を上げた。
その顔は蒼白で、細い体は震えていた。
「山吹……」
長い黒髪は乱れ、夜着である白い単衣は泥にまみれている。
単衣から覗く素足は何も履いておらず、土と小枝による切り傷で見るからに痛々しかった。
山吹は大きく目を見張った。
「お前、何をしている?」
狐の姿のまま山吹は水華に近寄った。
水華は安堵したのか、そのままその場に座り込んでしまった。
「……水華、何があった?」
この時間も、水華の出で立ちも、全てがこの事態の異様さを語る。
この四年、彼女がこんな刻限に山を訪れたことは一度としてなかったし、こんな出で立ちで現れたことも一度としてなかった。
座り込んだまま、水華は強張っていた表情を弛めた。「あ、えっと。怖い夢、見たの。でも山吹に会えたら大丈夫だったんだって思えて……」
水華は気が抜けたような笑みで言うが、うまく言葉になっていない。
「山吹にもう会えないかもって思って、怖くて、会いたくて、走ってきた」
そう言って笑う姿はどこか痛々しい。
山吹は黙って人の形を取り、冷え切った彼女の手を取った。
「……冷たいな」
眉根を寄せて呟くと、水華は困ったように笑った。
「山の中って冷えるから」
山吹は空いたほうの手で落葉を一枚拾い、それを衣へと変じさせた。
「こんなものでもないよりはいいだろう。被っていろ」
ばさりと音をたてて水華の頭に被せると、水華はそれにくるまるようにしながら山吹の手を支えにして立ちあがった。
「……有難う」
水華の頬が弛んだ。
山吹はそれには答えず、彼女の冷え切った手を握り締めた。そのか細い手が折れてしまいそうなくらい、強く。
それから水華は落ち着いたのか、邸へ戻ると言って山吹に祠まで見送られていった。
その日、陽が真上に昇る頃、水華は常と何ら変わらぬ様子で山を訪れた。流れるように梳かれた黒髪に貴族らしい衣を纏って。
そうしていつも通りに過ごし、夜の出来事などなかったかのように水華は振る舞ったため山吹も詮索することはしなかった。
ただ常と変わらぬように接した。
彼女が言葉にしたくないのならばそれがいいのだろうと白や黒、荷葉にも何も言わず、全てなかったこととして過ごした。
それが正しいことなのか、そうでないのかはわからなかったが、少なくとも水華に直接尋ねることは彼女の望まないことだということだけは確かだった。
だから、今は何も聞かずにいよう――。