其の四
地上に姿を現したばかりの陽の光は柔らかく、山中と早朝独特の静けさがあった。
土の匂い、緑の匂いは露に濡れて独特の湿った空気。山の中はまだ暗かったが、山吹はこの山に住んで長いため、多少の暗さは全く問題なく歩みを進める。
後ろをさくさくと歩く水華の周りには、灯り代わりの狐火が飛び交う。それでも何度か草や木の根に足を取られていたので、山吹が人型になり、その幼い手を引いてやることにした。
「ふあぁぁ」
左手の扇で口元を隠し、水華は大欠伸をしながら、右手でしっかり握った山吹の手を頼りに今まで行ったこともない山の奥深くへ足を踏み入れた。
「貴族の朝は早いと聞いていたが、水華は例外か?」
山吹の純粋な疑問に、水華は慌てて欠伸をかみ殺す。
「そ、そんなことないよ! 昨夜は楽しみでなかなか眠れなかっただけ」
元々貴族の朝は後世より異様に早い。季節によっては日の出よりも早く起きることとてある。水華も京にいた頃よりそのように過ごしてきた。故に今日とて特別早起きしたわけではない。本当に昨夜は楽しみで、なかなか寝付けなかったので寝不足なだけだ。
「着けば自然、目も覚められる。安心されよ」
山吹の肩に留まった黒が言う。
水華は手の甲で重い目をこすりながら、山吹を挟んで反対側の黒に問いかけた。
「黒も行ったこと、あるの?」
「無論ある。あの地は妖かしである身にも、美しいということを差し引いても心惹かれる場所だ」
「へぇ」
水華が興味深そうな声を上げる。山吹の左手を握ってくる小さな手の力が少し強まった。
「山吹。後どれくらいで着くの?」
「もう少しだ」
「もう少しって……具体的にはどれくらい?」
不満げに口を尖らせる水華に、山吹は少し上向いて考える。
「……狐の姿の時なら祠から里へ行くよりも早い」
「では人の姿の時は?」
「人の姿で行くのは初めてだからわからない」
率直な、迷いなき物言いに水華は感心しつつも後どれ程歩くのか少々不安になった。
そもそも貴族の女児の装束が山歩きに適しているわけもなく、幼いうちから体力をつけることなどもしてこなかった身には少々辛い道のりだった。山に入った当初よりも息は上がり、歩みも重くなる。まして山吹は自分よりずっと背が高い分、足が長いので歩幅が違う。
「水華? 疲れたか?」
重い足取りと握った幼い手のひらにかいた汗に、山吹は水華の口数が常より少ないことに気づいた。山吹の問いかけに水華は全力で首を左右に振って否定するが、その顔には疲労が滲んでいる。 人の体は脆く弱い。幼子なら尚更だ。それを思い出し、山吹は一度黒を肩から離れさせ、両腕で水華を抱え上げた。
「や、山吹っ」
水華の悲鳴にも似た声を無視して、山吹は片腕に座らせるようにして、水華を抱きかかえた。
「これで良し」
「良し、じゃないよ! 恥ずかしいから降ろしてよー!」
水華は顔を真っ赤にして訴えるが、山吹はそんな声をきれいに無視してさくさくと再び歩み始めた。水華が降りようと暴れても山吹はびくともしない。こんな細い体のどこにそんな力があるのかと疑問に思うほどだ。
「山吹、重くないの? 転んだりしない?」
「特に重さは感じないし、転ばない」
無理をして言っているようには到底聞こえない声に、水華は反抗するのを諦めた。
「……妖かしは力持ち?」
「力のある奴もいるな。俺は普通だと思う」
これで普通なのか。
「それに水華は子供で小さいから軽い」
「子供で小さいっ!」
山吹の顔の真横で、水華が衝撃を受けたような声を上げた。
何を今さら、と山吹は横目で水華を見た。
「小さいだろう?」
「うっ……それは山吹や父上に比べれば小さいけれど、私は女なんだもの! 悪い?」
噛みつくように言ってくる水華が理解できず、山吹は眉を寄せる。
「別に悪いと言った覚えはないんだが」
「……言われた覚えもないけど」
俯きがちに、聞きとるのがやっとの小さな声で水華は言う。
なら一体何を怒っていると言うのか。そう口にしかけてやめた。水華の怒りは時として山吹の理解を越えた所にあり、それは時として黒や白のほうが理解できたりもする。今もまた山吹の少し上空で羽ばたいている黒の苦笑するような視線が降ってくる。
こういう時、黒も白も主が「教えろ」と言っても聞かない。ただ示し合わせたように笑い合うだけで。
水華はすっかり拗ねてしまったのか、山吹の腕の中で終始無言だった。
どうしたものかと考えているうち、少し先に森が開けている証である明るい場所が見えてきた。
「水華。もうすぐそこだ」
そう言うと、ようやく水華は顔を上げた。
「……明るいよ?」
辺りは木に覆われて薄暗いので疑問に思うのも無理はない。
「あの場所は森が開けているから日が射すんだ」 日の射す地へと一歩足を踏み入れると清涼な水と、仄かな甘い香りがした。
深く呼吸をして、今年もまたこの場所へ来たのだと実感する。
山吹はしゃがんで水華を地面に降ろしてやると、一年ぶりに見るその光景に頬を弛めた。水華も降ろされたそのまま、そこに立ち尽くして口を開けている。
木々に囲まれた開けた地に、澄んだ水で満ちた大きな池。
鏡のような水面に映るのは、池一面の蓮。
薄紅の蓮の花。
開き始めたばかりの蓮の花。
それに混じった、明日には開くかという薄紅の蕾。
深みのある緑の大きな葉には、時折雫が陽光を受けて珠のように煌めき、水面から真っ直ぐに伸びた茎の先の花からは、風にとってごくささやかな甘い香りが運ばれてくる。
縁が波打つ器状の葉。
蕾に混じって開き始める薄紅の蓮の花。
花弁の中心には仏の坐す物のような形をした黄色。
一面に広がる、蓮。
「……綺麗」
溜め息のような水華の声が、山吹の胸の内を代弁する。
常なら子供らしく喜びはしゃぐ水華は、穏やかな表情で蓮を眺めていた。そしてまた漏らす。
「綺麗。とても。……この世ではないみたい」
そう言って山吹を見上げた水華は柔らかな笑みを浮かべていた。
山吹は不覚にも、彼女が人だということも幼子だということも忘れ、まるで天女のようだ、と思った。
「有難う、山吹。連れて来てくれて」
蓮の花の名を持つ姫は嬉しそうに笑った。
見慣れた笑顔に現実に意識を引き戻され、山吹は今しがたの思考を振り払い、一拍置いてから水華の頭に手を置いた。
「気に入ったなら何よりだ」
水華の笑みはこちらまで笑いたくなるほど明るい。彼女は少し頬を赤くして俯いてから、それから勢いよく顔を上げた。
「あの、蓮! 今までもとても大好きだったけれど、今まで以上に好きになったよ! こんなに綺麗な蓮を見るのは初めてで、山吹がいて、山吹が笑うと綺麗で! だからだから……っ!」
途中で自分でも何を言っているのかわからなくなってきたのだろう。今にも倒れるんじゃないかというほど真剣に顔を真っ赤にして、泣きそうな顔をして。
「おい、落ち着け」
「水華姫。深呼吸を。はい、私に合わせて」
ふいに下から聞こえてきた声に下を向くと、そこには白がいた。「白爺! あのね、蓮! 蓮が山吹みたいに綺麗ですごくて……っ!」
水華は袖から腕の先まで覗くのもかまわず、落ち着きなけない様子で両手ですごいすごいと連呼した。
「いいから落ち着け」
「そうです。ゆっくり息をお吸いになってー吐いてー」
白に言われたとおり、水華は深呼吸を二度三度繰り返し、ようやく落ち着いたようだった。
「ふぅ……」
まだほんのりと赤い頬で息を吐き、眼前に広がる蓮の花と同じ、薄紅の蓮が描かれた扇を扇いだ。そうしていたかと思うと、水華はパタンと音をたてて扇を閉じ、まっすぐに山吹を見上げた。
その顔に先刻までの様子は微塵も見られない。
実際の年齢よりも大人びた真剣な眼差し。
「山吹」
まだ幼さを残した声音がその名前を呼ぶ。
肩までの尼削ぎの黒髪が薫風に揺られる。
「何だ?」
何か大切なことを言おうとしているのであろう彼女を促すと、水華は白い小さな手で山吹の縹色の狩衣の裾を握ってきた。
昇り始めた陽の光に照らされて、きらきらと輝く意志の強い大きな瞳だけは逸らさずに。そして小さな赤い唇を開いた。
「私を、山吹の妻にして」
水気と香気を含んだ風が蓮の花を、葉を揺らす。
初夏の薫風は山吹と水華を優しく撫ぜた。
「またこちらにおられたか」
山吹は本来の姿、金毛の狐のまま黒の声に顔だけを向けた。
「そろそろ水華姫がお越しになるのでは?」
「ああ、そうだな」
ゆっくりと山吹は枯れた蓮に背を向け、起き上がった。
季節はあれから三度、巡った。
蓮は花托を土色に染め、その種は水に帰った。
山吹の葉は山吹色に染まり、里では金色の稲穂の豊作に里人達が歓喜した。
真白い雪が降り積もり、その合間に紅や白の梅が咲いた。
そしてまた、山吹が花開いた。 それから蓮の花の季節が巡ってくる。
それを三度繰り返した。
「三年など瞬く間と思っておりましたが、人の時間ではそうではないようで」
山吹の少し上を飛ぶ黒の声が降ってくる。
「人の生涯は俺達に比べると格段に短い。その分、俺たちが感じるよりも一時が長いんだろう」
そう言った山吹にとっても、この四年は少し長く、そして切ないほどに短くも感じたが。
「水華姫もすっかり大きくなった」
「あれくらいの子供がいつまでも小さいままだったら大変だろう」
山吹は溜め息がちに言った。
「もっとも、中身は三年前と変わらぬようだが」
三年前の初夏、この場所で一面の蓮を前にして水華は言った。
私を山吹の妻にして、と。
思わぬ言葉に不覚にも山吹は言葉に詰まった。白と黒ですら、水華の真剣さに押され何も言えなかった。
その張りつめた静寂を破ったのは、水華ではない幼い甲高い声だった。
「冗談を抜かせーっ!」
その大音声に、その場にいた者は揃って声の主のほうへと視線を向けた。
そこにいたのは子狐。
「鬼灯」
山吹が思わずその名を呼ぶと、鬼灯は湿った土を踏みしめ水華の前まで歩いてきた。
そして大きな口を開き、白い鋭利な歯を見せてまくし立てた。
「貴様っ! 山吹様と一介の人風情が友と言うだけでも許し難いものだと言うのに、更には妻にしてくれだと? ほざくのも大概にせよっ!」
「おい、鬼灯」
いつからいたのだと問いたいが、それよりも今は水華の発言が怒髪天を衝いてしまったらしい鬼灯を宥めるのが先だ。
水華は顔を真っ赤にして、鬼灯を睨みつけていた。
「何よっ! 鬼灯には関係ないでしょっ」
「あるっ! 私は山吹様の臣下だ! 変な虫がつかぬようするのも我が務め!」
「私は虫じゃないもん!」
いつの間にやら水華もすっかり年相応の子供の表情で鬼灯と睨みあっていた。
だがすぐに水華はその不毛な睨みあいをやめ、山吹を見上げた。
「駄目っ? 私では、山吹の妻にはなれない?」
まっすぐに見上げてくる水華に何から言ったらいいのか言葉に詰まり、言葉で説明するよりも、と山吹は人の形でいることをやめ、狐の姿に戻った。
陽光に煌めく金毛に水華は軽く見惚れて黙った。 山吹は今や自分より高い目線にある水華を見上げた。
「水華。俺は妖かしだ」
「知っているよ」
「この狐の姿が俺の本性だ」
「それも知っている」
「……お前は人で、貴族の姫だ」
「確かに私は人だけれど、貴族は関係ないじゃない」
少し泣きそうな声で、水華は訴えた。
その頭を撫でてやろうとしてから自分が狐の姿であることを思い出し、山吹は目を伏せ、先を続けた。
「お前もいずれは裳着を済ませ、父の認めた男と結婚し子を産む。そして俺よりずっと早くにこの世での生を終える」
「……父上なんて関係ないっ!」
必死になって叫ぶ水華を遮るように、山吹は努めて冷静に言った。
「妖かしは、人を幸せにすることは出来ない」
恩ある男に嫁ぎ、子を産んで、その生活をどれほど愛おしく思っても、いずれは離れねばならぬ時がくる。
そんな前例を、いくつも知っている。
「そんなことわからないじゃないっ!」
両の瞳いっぱいに涙を溜めて水華は叫んだ。
「私の幸せは私のものなの。私が幸せだと思ったら、誰が何と言おうと私は幸せなの。私は……山吹といる時が一番幸せなのっ……」
ぽろぽろと零れ落ちた涙が土に吸い込まれていく。
「他のどんな人も妖かしでも嫌。私は、山吹の妻になりたい……」
幼い必死の声に鬼灯も最早何も言わなかった。白も黒も無責任になぐさめたりなどはしない。
「……我が身は千歳に近い時を識る天狐」
水華が涙であふれ返る瞳を向けてきた。
「お前の身が朽ちても我が身は生き続け、我が妻となれば人世に帰ることあたわず。それでも、それを望むか?」
水華は一切の迷いなく、大きく頷く。
幼子だから。
そう言ってしまえばそれまでの勢いだ。
けれどそんな勢いすらも嬉しくも思う。
人でない身を望み、それを一番だと言う者の存在が。
だが勢いだからこそ、今それを受け入れてはいけないとわかった。
「なれば……」
常より低い、人ならぬ声が告げる。
「水華の父の国司としての任期が明ける四年後……水華が十四になった年の終わり、新たな年の始まりにも同じ言葉を言えたのならばその時はその言葉、受け入れよう」 水華は大きな黒い瞳を見開いた。
「四年後も山吹の妻になりたいって言ったら、山吹は私を妻にしてくれるの? 約束してくれる?」
「約束する」
その言葉に涙でぬれた顔を綻ばせ、水華は山吹に抱きついてきた。
鬼灯が横で何かをわめき、白と黒が顔を見合わせ笑い合っていた。
その日から三年と少しの時が流れた。約束の日はもう幾つかの月を過ごせば訪れる。
「山吹様。水華姫がいらっしゃいましたよ」
「今、兎の妖かしと遊んでおられます」
「山吹の木の辺りにおられます」
「わかった」
道すがら彼女の報告を受け、先へと足を進める山吹の姿が狐のものから人のそれへと変貌する。水華と出会った当初から寸分変わらぬ姿形へ。
春になると黄金色の山吹の花が咲き誇るそこに、彼女はいた。
長く真っ直ぐに伸びた黒髪をひとつに括り、顔を隠す薄布のついた市女笠を被り、旅装のように動きやすい短めの緋袴に草履を履いて。
その傍らにはまだまだ妖かしになりたての真白い兎の妖かし。妖かし達は山吹に気づき、慌てて低頭した。
それに気づくなり軽装姿の娘は振り向きざまに笠を脱ぎ棄て、その顔に満面の笑みを浮かべた。
「山吹!」
その顔立ちは四年前より確かに大人になっており、当時の面影を残しながらも十分に美姫と言って申し分ない容貌に成長させた。
黒目がちな瞳。
長い睫毛。
雪のように白い肌。
紅を引いた、ぽってりとした唇。
まっすぐな緑なす長い黒髪。
歌を詠ませれば一流の名器のような声音。
これならば人の求婚者にも事欠かないだろうにと山吹は時折思うのだが、彼女はあれから四年近く経った今も頑として裳着を拒否し、この山を訪れる。
「山吹、お早う」
彼女は四年前と同じように山吹のもとへ小走りにやってきて楽しげに笑う。そして四年前以来、習慣となりつつある言葉を告げる。
「妻にして」
「その日が来たらな」
山吹のその即答振りにも、水華は今更めげたりはしない。 何しろこの四年間、これをほぼ毎日繰り返してきたのだ。最初に求婚された日の翌日の挨拶が「お早う。妻にして」だった。
そうして一瞬固まった後に返したのが、今と同じ言葉。
当初こそ泣き出しそうになっていた水華だが、今では「お早う」の付属品と化していた。
「いいもん。もうじき約束の日だもん」
頬を膨らませた後、また水華は扇で顔を隠すことなく笑顔になった。
四年で水華は背も伸びた。今や人型の山吹と外見年齢はほとんど変わらず、以前は山吹の胸ほどまでしかなかった背丈も山吹の口元近くまで伸びた。
本来ならとうに裳着を済ませ、子を産んでいてもおかしくはないと言うのに、何故か彼女はこんな山の中で妖かしと戯れている。
「常々思っていたんだが、お前は何と言ってほぼ毎日、この山まで来ているんだ?父や家人は?」
「ああ、それなら簡単」
水華は天上の花のような、神々しくも愛らしい笑みを浮かべて言った。
「『父上様。私は父上様のような賢き良き御方がこのような辺境の地から一刻も早く京に戻れますよう少しでも何かしたいのです。ですが所詮私は無力な女の身……神仏に父上様がいかに良き御仁であるかを申し上げ、聞き入れて頂くしか至らぬ私如きでは思いつきませぬ』」
そして水華は大げさにしなを作って袖元で目元を覆う。
「『熊野詣とはまいりませぬが、この地の土地神として祀られております狐神は豊穣の神であると同時、繁栄の神であると申します。なれば私は、毎日狐神様の元に通って父上様の繁栄をお願い申しあげて参ります。どうかどうか、私に出来ることなどそのようなことしかございませんが、父上様のために、お山へ行くことをお許し下さいませ……っ! どうかっ!』」
涙目で手を組んだ水華の名演技とも言えなくもない演技に、集まっていた妖かし達から拍手が湧き起る。水華は照れたように笑い山吹を見て両手を腰にあてた。
「とまぁ、こんな感じで。父上って私に甘いのよね」
そう呟いた水華の顔は表面こそ美しいが、本性は人を喰らうという羅刹女のようだ。
山吹は軽く息を吐き、岩に座ると側仕えの妖かしが持ってきた木の実を口にした。
「俺はいつから繁栄の神になったんだ?」
「豊穣も繁栄も似たようなものじゃない。それに大事なのは信心だわ。たとえその辺の石ころでも、神の御使いと思えば神の御使いになるのよ」
ころころと鈴を転がすような声で笑い、水華は山吹の隣に腰を降ろした。
「……お前の父が哀れだ」
「哀れなのは私の母上よ」
山吹の言葉に噛みつくように水華は反論した。
「あちこちに通い先を作り、正妻である母上の元へ通うことはほとんどなく、離縁寸前の三年に一度顔を出すか出さないか。それだけで母上は父上と離縁することが出来なかったのだから」「それはまぁ……嫌な話だな」
「とても嫌な話よ!」
水華は拳を握り締めて力説する。
「その上、己の才を過大評価している。ろくでもないわ」
木の葉の上に置かれた木の実をひとつ頬張って、水華は呟いた。
「だからね、私は結婚なんてしないと決めていたの。物心ついた頃からずっと。母上のように泣くのは嫌だったから……きっと山吹に出会わなければ、今もそう思っていたと思う」
「……そこで妖かしに走るのがお前の可笑しなところだな」
山吹の失笑に、水華は心外そうに唇を尖らせる。
「駄目な父上と阿呆の兄上を見て育ったのよ。私の殿方を見る目は確か! 山吹以外の妻になるなんて考えられないわ」
ねぇ? と水華は足元にじゃれつく妖かしの頭を撫でた。
「ところで来月はいよいよ里の奉納祭ね。山吹のためのお祭り」
「俺は特に何もしてないんだが」
里では毎年、実りの季節に収穫祭という名の土地神として崇められる山吹を祀る祭りが行われる。それが行われるのは毎年稲穂が黄金色に輝く頃。
「山吹を祀るようになってから、里では飢饉とは無縁になったと聞いたわ」
「そうだったか?」
「真実かどうかはともかく、里の人はそう信じていてそれを拠り所にしているのだからいいじゃない」
黒髪をさらりと揺らして水華は笑う。
「神仏でもたとえ妖かしでも。信じることによって人の心は安寧を得る。だから信じるのだと教えてくれたのは山吹でしょう?」
それは随分前に戯れに話した言葉。まさか覚えているとは思ってもおらず、軽く目を見張った。
「よく覚えていたな」
「覚えてるよ。山吹の教えてくれたことだもの」
出会ったばかりの頃と変わらぬ無邪気な笑みで、水華は舞うようにくるりと回った。
「百鬼夜行の難を避ける呪言に、実際にそうやって難を避けた人のお話。輪廻転生のお話。山吹を偉いお狐様にしてくれた神様のお話。薬になる植物のお話。私が行ったこともない国でのお話。山吹が教えてくれたことは全部覚えてる」
水華という娘はひねた性格なのかと思えば、こういう素直さもある。
思わず手を伸ばして、触れたくなる。
彼女よりずっと長い時を生きた。
彼女よりずっと多くのものを見てきた。
けれど、焦げ付くようなこの感情は知らない。
その名前は識っていても、知りはしなかった。
知識として得るだけでなく、持ち得るあらゆる感覚を以て初めて「知った」ことになるということはわかっていたのに。
「山吹? どうしたの?」 急に黙り込んだ山吹の顔を心配そうに水華が覗き込む。
「あ、ああ。少し考え事をしていただけだ。何でもない」
「そう?」
水華はそれ以上は詮索せず、近くの妖かしを抱き上げて色づいた山吹の葉を間近で見せてやった。
水華は聡い。
何かを知ろうとする意識は強くとも、土足で他者の胸の内にまで上がり込むことは決してしない。
それが例え妖かし相手であろうと、そうして接してくれる。
求婚されてしばらくは、それは父親から縁談らしいものを持ちかけられていた事に対する反発心からのものだと思っていた。或いはこの山も妖かしも好きだと言い、いつも帰ることを渋る彼女なりに考えた、ずっとこの山にいる方法だと思った。
少なくとも、本気で水華が自分に恋情を寄せているなど考えようともしなかった。
毎日毎日飽きることなく山に通いつめ、自分が口にした些細な言葉も覚えている彼女を見るまでは。
色とりどりの葉や木の実を拾って妖かしと遊ぶ水華に山吹は少し大きく声をかけた。
「水華」
呼びかけると、水華の括った髪が尾のように弧を描いて振り返った。
「何?」
水華は常のように笑顔を向けてくる。
山吹は軽く息を吐き、水華を見た。
「済まなかった」
「……どうかしたの?」
不思議そうに水華は首を傾げる。
「いいんだ。自己満足の言葉だ」
「ふぅん?」
尚も水華は不思議そうにしていたが、それ以上は立ち入ってこない。代わりに色とりどりの木の実を妖かしと共に持ってきて、山吹の座っていた岩に置いた。
「山吹にあげる。綺麗でしょう?」
「水華姫と拾いました。ですから山吹様に贈り物です」
「綺麗な葉も落ちておりました。これも差し上げます」
まだ幼い妖かし達も水華に続いて控え目に笑う。それが微笑ましくて意識せずにほんの少し笑い、山吹はその好意を受け取った。
「……ああ、有難う」
水華達は山吹の様子を見て、手を叩き合って喜んだ。
木で作られた古ぼけた、けれど手入れの行き届いた小さな祠と鳥居。
ここが入口か。
彼の狐の領域への。
言葉なく祠に手を触れた。
それは数百年ぶりの来訪者。