其の参
お山のお狐様、山吹のもとを国司の娘、水華が訪れるようになってひと月ほど。
今日も水華は山吹のそばで楽しげに過ごしている。そうそう頻繁に、貴族の娘がこんな山奥まで一人で来るなど叶わないと思っていた鬼灯をはじめ他の妖かし達の予想を裏切り、水華はほぼ毎日やって来る。小雨くらいなら里人では到底触ることもかなわない高価な装束を汚しても来る。
邸の者は何も言わないのかと山吹が問いかけると、水華はにっこり笑顔で「撒いてきた」と答えた。それまで山吹は人間にさほどの興味はなかったが、いつか彼女の異母兄に付き合わされてこの山まで登ってきた従者たちを思い出してこの兄妹に仕える者達がさすがに不憫になったものだ。
そのようにひと月の間を共に過ごし知ったのだが、この水華という娘は非常に身軽だ。
小柄な体躯もあるのだろうが、重たい装束を引きずっているはずなのに素早い動きと軽い身のこなしを持ち合わせている。山吹の知識にある、『貴族の姫』とは大きくかけ離れた存在だった。
いつしか水華は山吹の中でどこまでも不可思議で、どこまでも面白い存在となっていた。
その水華は、人の形に化けた山吹の近くではしゃいでいる。彼女の視線の先には、山吹と同じ名を持つ花。黄金色に似た、黄色の花々をつけた山吹の木々。一重のものだけでなく、八重咲きのものもある山吹の花々を見て、水華はにこにこと笑う。
「山吹の花、咲いたねぇ」
「咲いたな」
山吹からすれば毎年見る光景で今更感慨など湧かないのだが、『友』である水華は随分と気に入ったらしく、ここ毎日は山吹の花を眺めて楽しげにしている。
「そんなに気に入ったのか?」
感嘆と呆れ混じりの山吹の言葉に、水華は振り返って大きく頷く。
「うん! とっても綺麗」
もう数年も時を重ねれば、彼女もまた花のような美姫となるのだろうと思わせる容貌で笑う。
山吹は人の美醜には疎いほうだったが水華の容姿が愛らしいことはわかる。一度聞いた話では、彼女の母親は京では名の知れた美姫だったらしい。水華いわく、「人の姿の時の山吹と同じくらい綺麗な方」だそうだ。
一応人の形を取るときは男に化けているのだが、彼女の母と同じくらい、というのはどう受け取ったらいいのか。側仕えの人の世に詳しい妖かしに言わせると、山吹の人の姿はいわゆる女顔らしい。年齢的にも子供と大人の間くらいのため男にも女にも見えるのだろう、と言われた。
それまで特に化けた時の容姿など気にしたことはなかったが水華の言葉以来、どうにも気になってしょうがない。いっそもっと年を重ねた姿に化けようかとも思うのだが、数えるほどしかない人に化けた際は常にこの年頃に化けたため、今更変えるのも億劫だ。
「山吹!」
気づくと水華が山吹の座る岩の傍でしゃがんでこちらを見上げていた。
「何だ?」 膝の上で着いていた頬杖を外して山吹が岩を降りると、水華は右手に細い枯れ枝を持っていた。
「見て! 私ね、真名を書けるの!」
真名……後の世に言う漢字は大陸から渡ってきた文字で、確か男が使う文字で普通女はかな文字を使う。少なくとも山吹の知識ではそういうことになっている。
だが昨今は女でも真名を読み書きし、漢詩に通じている者も多くなってきたと噂で聞いた気がする。こんな辺境の地でどのようにして真名を覚えたのか知らないが、確かに水華が持つ枝の先には大きく二つの真名が書かれている。
山吹
水華は子供らしい笑顔で山吹を見上げていた。
その姿が微笑ましく、書かれた字が子供らしく、不思議と頬が弛む。
「ちゃんと書けてる?」
「ああ。書けている」
そう言って水華の頭を撫でてやると、水華はくすぐったそうに声を上げて笑った。
その髪に彼女の好きな八重の山吹の花を一本手折ってさしてやると、頬を赤くして一層嬉しそうな声を上げた。
「ありがとう、山吹」
華やかな八重咲きの山吹の花は艶やかな水華の黒髪によく似合っていた。何か褒め言葉を、と山吹が考えていると、下方からの声に機を逸した。
「水華姫は博識じゃのう」
いつからいたのか、白蛇の妖かしが水華の文字の側にいた。
「白爺! あのね、父上の書物を見て練習したの」
水華は自慢げに白蛇に笑いかける。
この白蛇は温厚で、当初は蛇の姿に怯えていた水華もすぐに懐いた。山吹は彼を白と呼んでおり、水華はその声音と口調から白爺と呼んでいる。
「白爺の名前も練習してきたのよ」
水華は嬉々としてガリガリと枝を動かしていく。
「できた!」
山吹と白の目線の先、書かれた文字は、
自
「うぅむ……惜しいですな」
「ああ、惜しいな」
「えー! どこが違うのっ?」 水華は枝を握り締めたまま不満げな声を漏らした。
山吹は水華から枝を借り、同じように地面に文字を綴る。
「ほら。白はこう書く。水華のは線が一本多かったんだ」
「むぅ……そっか」
「ですが私の名も覚えていただけるとは嬉しいですな」
白が好々爺といった風情で笑う。姿は蛇でしかないのだが。
「ご自分のお名前は書かれぬのですか?」
「書けるよ! 私の名前だけは京にいた時から書けるの」
「へぇ。見てみたいものだな、白」
「ええ。是非とも」
二人に押され、水華は照れ臭そうにしてから山吹の手から枝を返してもらい、再び地面に向かった。
そう言えば山吹はみなかという名がどういう真名を書くのか知らない。口にしている分には不自由ない上、この山の中では文字を書く必要性もなかったので気にしたこともなかったが。 どのような字を書くのか、と頭の中でいくつかの字を組み合わせていると、「書けた!」と水華の声がした。
水華
書き慣れているのか最初に書いた文字よりも読みやすい字が二つ、そこには書かれていた。
「水の華か」
確か蓮の花のこと。
匂やかな名だ。瑞々しく、水華自身によく似合っている。
「よいお名前ですな」
「母上がつけてくださったの。私が生まれた時、丁度蓮が綺麗な頃だったから蓮の花の異称にしたと伺ったわ」
母親が大好きだという水華は嬉しそうに言う。
「蓮の花か……」
そう言えば彼女がいつも持っている扇には蓮の花が描かれている。今も彼女の左手に握りしめられている扇には、開かれると水面に咲く薄紅の蓮が描かれている。
「水華は蓮の花が好きか?」
「大好き! 母上のお邸の池には夏になると白や赤や薄紅の蓮の花がたくさん綺麗に咲くの!」
「そうか」
嬉しそうに語る水華を見て、山吹は目を細める。
「なら、蓮の咲く頃になったらいい所へ連れて行ってやる」
「いい所?」
「それはあの池でございますか?」
白が首をもたげる。
「ああ。あの池だ」
「あの池って? 蓮が咲くの?」
好奇心を隠しきれない様子で水華が尋ねてくる。
「この山の奥の奥。人は一度として立ち入ったこともないような奥深い場所には大きな池がある。そこには多くの蓮の花が咲く」
澄み切った水面一面に朝日を受けて開く蓮の花。人の美醜には疎くなった山吹ですら美しいと思える光景。
「それはまるで人の言う、極楽浄土のようでございますよ」
白の説明に、水華が不思議そうな顔をする。
「ごくらくじょうどって、何だっけ?」
「話が早い妖かしから私も聞いたばかりの事でございますが、人は生を終えるとそのような世界に行けるとか」
最近流行り始めた思想では、念仏を唱えれば死んだ後、苦しみのない安らかなる世界へ行くことができると言う。それが極楽浄土だ。
「そこでは蓮の花が咲き誇っているのだとか」
「そう言えばそんなお話を聞いたような気がする……」
水華は小さな手を口元にあてて考え込むような仕草をした。
「とにかく、そんな世のような美しい場所なのね?」
「俺は極楽浄土へは行ったことがないからわからないが、美しいのは確かだな」
「そっか。楽しみ」
水華は笑いながら舞うように山吹の花のほうへと行った。
無邪気なその姿を見ていると、ここが極楽なのではないかという錯覚すらしてしまいそうになる。
妖かしの自分がそこへ行くことは出来ないだろうが、自分より遥かに早く生を終える彼女はそんな穏やかな場所で過ごしてほしい。
「鬼灯がまた拗ねるでしょうな」
苦笑交じりのその声に、山吹は白を見た。
「あの場所はいまだかつて、人が足を踏み入れたことのない地ですから」
「別にそう決めたわけではないんだけどな。ただあそこへ連れて行こうと思う者が現れなかっただけで」
溜め息交じりに山吹は岩の上で片膝を立て、その上に細い顎を乗せた。
ここしばらく、水華が訪れるまでしつこいほどに山吹の側をついてまわっていた鬼灯は自分の慕う山吹に近づく水華が大層気に入らないらしく、水華が山吹の側にいる時は滅多なことでは姿を現さない。たまに顔を合わせれば大喧嘩になる。そして水華が帰ったのを見計らって出てくる。
「まだまだあれも子供ですな」
「三十を超えた子供か」
「妖かしならばまだまだ赤子でございますよ」
呵呵と笑う白に、山吹は疲れた様に息を吐いた。 妖かしは年を重ねるごとにその力を増していく。山吹もまたそうして妖かしとしての地位を確固たるものにしてきた。故に自分の支配下にある妖かしに自分より年長の者はいない。もちろんこの白も例外ではない。
「お前は俺より若いが、俺より老けているな」
「精神的に成熟していると言ってくだされ」
「それは俺が精神的に未熟だと?」
「それは穿った見方でございます。慈悲深い『お山のお狐様』ともあろう御方が何を仰います」
最も付き合いの長い白蛇には何を言っても柳に風。笑って返される。
分が悪くなってきた山吹は眉間に一本皺を作り、舞い遊ぶ水華のほうへと行くことにした。
「水華。真名を教えてやろうか」
「本当ー?」
水華は衣を翻して山吹の側まで寄ってきた。
「山吹はとても物知りよね? お狐様だから?」
「長生きで精神的にも成熟しているからだ」
先程の会話に対抗するような物言いに白はまた笑った。白の周囲にいた妖かし達もそれを眺め、笑い合う。
だが山吹の支配下にある者総てが無条件に水華を認めたわけではない。『恩返し』があるとは言え、最初から人に対して好意的な妖かしはまずいない。長く人と密に接することによって山吹の並外れた妖狐としての力が薄れるのではと、そんな心配をする者もいた。人に妖気を奪われる妖かしなど聞いたこともないと言うのに。まぁ討伐される妖かしの話はそこかしこで聞かなくもないが。
「しかしあのように幼い姫君にそのような心配をせずとものう」
「臆病風に吹かれた連中のことなど眼中に止めるまでもなし」
さっぱりとした声が白の言葉にかかる。
その声の主はカラス。烏の濡れ羽色という色が相応しい羽色をしたカラスだ。
「昨今の若いのは情けない。自らの敵味方の区別もまともにつけられぬとは」
うんうんと一人頷くのは、この山を根城にする山吹の支配下にある妖かし。
白は小さな目を驚きに見開く。
「黒。おぬしはてっきり人と接することをよくは思っておらぬと思っていたが」
「我は人だの妖かしだの、そのような些細な事には固執せぬ。ただ楽しければそれで良し」
世の道理を述べるように、きっぱりとした口調で黒は言う。
「そして山吹様もあの幼い姫も楽しげにしている。これを止める理由などありはせぬ」
黒の視線の先には地面にしゃがんで木の枝で真名を書きながら笑う娘と硬い表情をほんの少し和らげた少年の姿。そうしていると、本当の兄弟のようだ。
「……確かに、このひと月で山吹様は少しお変わりになられた」
「表情が穏やかになられた」
「宴の席でも楽しげになった」
「我々も接しやすくなった」
白に続くように、他の妖かし達が口々に言う。「我は生まれてより四百年余り。山吹様があのように表情を崩されるところを拝見したことがないが白はどうだ?」
「私も……ないのう」
山吹は表情も態度も崩さない。常に冷静で、自らの中の一線を越えることはない。
まだ今より若い妖狐であった頃からの山吹を知る両者は口調を柔らかにする。
「主が心穏やかならばこれ以上のことなし。そうは思わぬか? 白」
「思うのう。本当に」
出来るのなら、少しでも長くこの瞬間が続けばよいのに。
人の時は早い。水華の身分を思えば、このように山で妖かしと過ごす時間など残り幾ばくもないだろう。
水華は『忘れられた』と言っていた裳着もいずれは行われ、水華も邸の奥深く御簾の内にこもって人目に触れることなく人の男と結婚し、子を産む。そうして彼女が大人になれば、幼さが許す『今』は終わる。これほどに穏やかな時も、遠くない未来終わる。それこそ、時の流れの違う妖かしである山吹や白達にとっては瞬く間に……。
「こうしてまだ来ぬ先について思い馳せる間にも時は確実に過ぎていく。時を惜しんでいる間に、その惜しむ時が終わってしまっては意味がない」
白の思考を読み取ったように、黒が告げる。
「なれば時を惜しむより先、今を生き、享受するが利口。山吹様のなさるように」
バサリと羽音を立てる。
「時の移ろいは世の理。これを外れることは何者にも叶わぬ。しかしその移ろいの中で、我らは生きるしかない」
「そうじゃな……」
春、幼い姫君が妖狐と縁を結んだ。
ひと月の後、幼い姫君と妖狐は友として、季節の花を愛でる。
今、友となった二人は黒々とした豊かな土に真名を書き合う。
移ろう時を、二人は確かに生きている。
今を損なうことなく、享受している。
山吹は白や黒よりもずっと長い時を知っている。世の儚さ故の尊さも、ずっとよく知っている。
「……私達が憂うことではないということか」
「主を未熟呼ばわりした白にしては、遅い理解」
つい先程の発言を揶揄するように、黒は笑う。
「む。聞いておったのか」
「聞いておったとも。白が山吹様に「老けている」とのお言葉を賜ったあたりから」
「……盗み聞きとはまったく良い趣味じゃ」
白の妖かしは渋い顔で、黒の妖かしはしたり顔で笑った。
「山吹! カラス」
水華が落ち着かない様子で少し離れた場所を指差した。 見てみると確かにそこには山吹の支配下にある妖かしである黒がいる。
「ああ、本当だ」
あちこちを飛び回り、一度出かけると簡単には一応の寝床であるこの地には戻ってこない。 山吹も前に見かけたのは昨年のことだった気がする。
「白爺、大丈夫かな? カラスと喧嘩して、食べられちゃわないかなっ?」
本気で言っているらしい水華は、おどおどと白と山吹を見比べる。
あまりに真剣な水華に、山吹は思わず軽く噴き出した。
当然本気で心配していた水華は怒る。肩を怒らせて立ち上がり、地団駄を踏む。
「なっ、何で笑うの? 山吹は白爺が食べられちゃってもいいのっ?」
「あのカラスも妖かしだ。白より三百歳ほど若いが、この山では古参の」
「……では、白爺を食べたりしない?」
きょとんとした表情で問いかけてくる水華に、今度こそ山吹は声を上げて笑った。
見たこともない光景に白や黒、その場にいた妖かし達は驚きに言葉を失くした。
その中でただ一人、水華だけが怒っていた。
白や黒ですら知らぬ、声を上げて笑う山吹の姿をひと月の付き合いである水華が知っているはずはないのだが、今は驚きよりも怒りのほうが勝るらしい。
「また笑った! 酷いっ!」
まだ笑いの納まらない山吹の背を小さな手と扇でバシバシ叩きながら、水華は顔を真っ赤にして怒る。今にも泣き出しそうに怒る水華を横目に山吹は何とか息を整え、笑いを抑え込んだ。
「いや……悪かった。悪かった」
口では「悪い」と言うものの、その声にはまだ笑いの名残がある。水華は不服そうにしていたが、とりあえずは手と扇をどけた。
山吹は軽く息を吸い、常の涼しげな表情に戻ると黒を一瞥した。
「黒。こちらへ来い」
「………、は」
呆けていたため少し反応は遅れたものの、バサリと翼を広げ、黒は山吹の前まで飛んだ。そして差し出された右腕に留まる。
山吹は右腕に留まった黒を水華の目線に合わせるよう、少ししゃがんだ。
幼い黒目がちの瞳と、黒一色の妖かしの瞳がかち合う。
「お初にお目にかかる。我はご覧の通り、烏の妖かし。山吹様に賜った名は黒と申す」
「は、初めまして。私は吉平水華と申します」
言葉こそは丁寧だが、黒を見る水華の瞳は好奇心に満ち満ちていた。烏が珍しいというよりは、喋る烏が珍しいのだろう。
「貴方は山吹に名付けてもらったの?」
「うむ。このように黒一色の出で立ちをしていたため、黒と名付けて頂いた」
水華は腕の先にある、山吹の整った顔を見上げた。
「もしかして、白爺の名前も山吹がつけたの?」
「そうだ」
「では蛙の妖かしならば、緑と名付けるの?」 暗に安直だと言っていなくもない水華に、今度は黒が小さな体を震わせ笑う。
「……黒」
山吹の冷たい声と視線に、黒ははっとしたように居住まいを正し、山吹の腕から地面に降り立つ。
「……失礼をした」
山吹の視線から逃れるように黒は水華を見上げた。
「随分前、蛙の妖かしに小黄という者がいた」
「小黄? 緑じゃないの?」
「小さな黄と書いて小黄だった」
水華は黒を見下ろして、口元に手をあてた。
「……それって黄色の蛙だったの?」
「いや。本人がいつかは自分の体が緑から変色すると信じていたが、奴の体は常に緑だった」
「何でそんな面白い思い込みをしてたの? 小黄の蛙さんは」
「秋になると葉が緑から黄金色のように変わるように、自分も色が変わると信じたらしい」
「ああ、山吹みたいに?」
水華の上げた声に、山吹が眉を顰めた。
「俺は別に変色しないが」
「山吹じゃなくて、あちらの山吹。木のほう」
言って水華は先程まで共に眺めていた黄金色の花の咲く木々を指差す。確かにあの木につく葉は秋になると黄金色に色づく。
「しかり。奴は山吹様と同じ名を持つ木に憧れていた。思考が単純だったこともあり、自分もいつかは山吹様と同じ名の木のように色が変わると思ったらしい。普通の蛙だったらば冬の頃には茶に変わったろうが、奴は妖かしだったため常に緑だった」
妖かしの中には非常に思考が単純なものもいる。知恵を得た者や人からすれば笑い話になるようなことを、本気で考えたりもするのだ。
山吹の中にその小黄という名の蛙の妖かしの記憶があった。秋が来れば自らも緑の体躯が染まる、と信じていた小さな蛙の妖かしの姿が。黄色に憧れた小さな妖かしに、山吹は小さな黄という名をつけた。確かに単純な名かもしれないと今になれば山吹も思う。深く考えもせず、小さく黄色に憧れる者だから小黄とは。
他者に心配りの出来るほうでないことは自覚しているが、今思い出すとほんの少し、胸が痛むような感覚があった。変わることなどないと知りながらその名をつけたのはとても残酷なことだったのではないかと。そう思うと、胸に引っかかるような痛みを覚えた。きっとこれを、後悔と言うのだろう。
「その小さな黄色の蛙さんは今は?」
「既に亡き者。今より二百年ほども昔の話ゆえ」
「……蛙さんは、最期まで自分が黄色に変わるって信じていたの?」「口ではそうは申していたが途中で気付いたのだろう。よくうらやましげに、山吹の木を見ていた」
「そう……」
水華の声が小さくなる。
山吹の脳裏に在りし日の蛙の姿が浮かぶ。山吹の木を眺め、その後水面に自分の姿を映し、鮮やかな黄色に染まる日を夢見ていたあの蛙の姿が。
「蛙さんは、最期まで小黄と名乗っていたの?」
水華の問いの意図を、黒はうまく読み取れず軽く首を傾げながら答えた。
「山吹様に頂いた名。主であるというだけでなく、奴にとっては憧れでもある御方から直に頂いた名を、手放すなどあり得ぬ」
「では、蛙さんは最期まで山吹が好きだったのね」
水華は笑って山吹を見上げた。
「よかったね。小黄の蛙さん」
「何がだ?」
たった今、若き日の自分の安直さ、浅薄さを後悔をしていたところだと言うのに。
だが水華は尚も笑う。
「だって大好きな人からもらった名前だもの。幸せだよ。黄色に変わることはできなくても、名前があったのなら小黄の蛙さんは幸せだったね」
子供らしい、まっすぐな眼差しと言葉に言葉を失う。
この胸の内の感情を、どう言葉にしていいのかわからない。
痛みと後悔を温かく包まれたようなこの感覚を、何と表現したらいいのかわからない。
「山吹?」
幼い手が、凍てついたように固まった山吹の頬に伸びてくる。
「どうしたの?」
「……ああ。何でもない」
心配そうに瞳を曇らせる水華の頭を撫でると、水華は頬を赤くして笑った。
「よかった。山吹、笑った」
「笑っ……?」
水華の言葉に、無意識に口元に触れた。
「笑っておりますよ。山吹様」
「うむ。笑っておられる」
確かめるよりも先に、白と黒がそれぞれに深く頷いた。
「笑ってるよ」
更にもう一度、水華にも言われる。
「笑ってる」
くすぐったそうに水華は笑う。
それを見て山吹は口元にあてた手を外し、軽く息を吐く。
「笑っているのはお前だろうが」
「山吹が笑っていると嬉しいんだもの。ねー?」
水華は白と黒のほうを見て同意を求めた。
白はうむうむと何度も頷き、黒も大きく首を縦に振った。 そう素直な視線と意見を同時に三つも送られると、どうにもむず痒いようで居心地が悪く山吹は三者から顔を背けた。
それを見た水華達の「照れてるー」と笑い合う声が聞こえてくる。
「照れていない」
くるりと水華達に戻した顔はいつもの涼しげな整った無表情。否、少し不機嫌。けれどその顔はほんの少し赤い。本人がそのことに気づいているのかは知れないが、水華達は互いに目線を交わし軽く笑い合った。
その笑みの元である山吹の狩衣の周りに三個の狐火が浮かび上がり、影の濃い森を柔らかく明るく照らす。
「ほら。もうそろそろ帰れ」
「えー! まだ日没まで時間はあるよ」
不満たっぷりに水華は両こぶしを握って振り回す。
「あまり家人に心配をかけるな。水華姫」
姫、と山吹が水華の身分を強調するのは大抵我がままをたしなめられる時だ。そうされると水華は反発しながらも逆らえなくなることを知っているから。
生まれた時から仮にも貴族の姫としてその立場も義務も叩きこまれたため、反発心旺盛な水華も家人など自分に仕える者達を巻き込んでまで我を通すということはしない。これはどちらかと言えば、愚行多き父と兄が反面教師となっているためかも知れない。
立場が逆転したように、今度は水華が顔を赤く染めた。ただし、水華の場合は純然たる幼い怒りで。
「っ意地悪」
「では意地悪な狐に苛められたくなかったら早々に帰れ」
その口調はどこか楽しげ。
もう既に苛めているだろう、と白と黒を始め周囲の妖かし達は思うも口には出さない。黙って事の成行きを見守る。
水華は今にも怒りで泣き出しそうに赤い唇をぎゅっと真一文字に結び、山吹を見上げた。
「帰っても、明日またすぐ来るもん!」
「そうしたらまたすぐ帰れ」
「また明後日も来るもん!」
それ以上山吹に言われぬうちに水華はその場を駆け出した。その後を三つの狐火が追っていく。
その姿が見えなくなる直前、水華は山吹に振り返って大きく声を張り上げた。
「絶対明日も明後日もその次も来るんだからっ!」
そうして再び駆け出した。
姿が見えなくなるまでその姿を見送ってから、山吹は人型から狐の姿へと戻る。
「寝る」
「は……もうですか? 今宵は月を見ながらの酒宴を催すのでは?」
その上寝るにはまだ早い刻限だ。「寝る。月が昇ったら起こせ」
笑いを堪えるような声音を残し、山吹は寝床へと帰っていく。
妖かし達は黙ってその姿を見送った。そして今までに見たこともなかった主を酒の肴に月が昇るよりも一足早く、酒宴に興じた。