其の弐
大きな黒い瞳がじっと自分を見据えている。怯えも畏怖もなく、純然たる好奇心という色をした瞳で。
少しでも恩人である少女を驚かさないために、久方ぶりに人に化けてみれば、驚かされたのはむしろ山吹のほうだった。
(恩返しをしていても、正体を見破られたらその人の元からは去らねばならない。そう言うが……)
最初から正体を看破された場合、一体どうすればいいのか?
「お狐様?」
少女はいつの間にか、固まった山吹の前まで来ていた。
自分の胸ほどまでしかない幼い少女は、屈託のない笑顔でじっと山吹を見上げていた。
愛らしい顔立ちの少女は、よく見ると纏った装束だけでなく、手や顔、装束から覗く肌も小さな傷だらけだった。
山吹はその小さな手を取って、傷を癒す呪言を唱える。すると傷など最初からなかったように、白く幼い肌は元通りになっていた。
水華は目を見張り、手と山吹をせわしなく交互に見比べた。
「すごい……お狐様、すごい」
目をまん丸にして、水華は呟く。それからはっとしたように一歩退いて、土草の上だということもかまわずに深く頭を下げた。
「私は先日こちらの国府の介に任命された吉平惟良の二の君、吉平水華と申します。えっと、お狐様におかれましては今後とも……今後とも……えっとえっと……」
幼姫らしからず、すらすらと述べた口上が閊えた水華は視線をあちこちにやりながら言葉を探す。
「あの……ええと、ですから……」
これ以上放っておくのも気の毒な気がして、山吹は話題を変えた。
「お前は貴族の姫だろう?」
「はっ、はい!」
慌てて水華は顔を上げた。
「その姫が従者の一人もつけず、何故このような山奥に? そもそもこの地が禁足地だと知っての行いか?」
涼しく響く山吹の声に、水華の眉が垂れ下がる。
「ごめんなさい……入ってはいけないと里の噂では聞いてはいたのですけれど、お狐様にお会いしたいと思って」
「そなたの兄は我を射ようとした。そなたも同様ではないのか?」
「ちっ、違います! あのような愚兄と一緒にしないで!」
幼さ故か口調が元のものへと戻ってしまっているが、水華は気づいていない。ただまっすぐな視線が山吹を見据える。
「……ただ、里の噂ではとても美しいお狐様だと聞いたから、どんななのだろうと思って」
水華の声がどんどん小さくなっていく。
「好奇心か」 山吹の言葉に、水華は項垂れて小さくごめんなさいと謝った。
その様子は、実に幼子らしい。
「害意はないようだな?」
「害意なんてあるわけないです……」
そんなことはよく知っている。むしろ山吹は彼女に守られた側なのだから。それなのにこんな質問をするのだから、自分も大概意地が悪い。
居心地悪そうに扇をいじる彼女を見て、山吹は両手を上げて降参を示した。
「ああ、悪かった。俺が悪かった。恩人殿を苛めるような真似をして」
水華は不思議そうに顔を上げた。それと共に真っ直ぐな緑がかった漆黒の髪がさらりと揺れる。
「恩人、ですか?」
「お前の言う愚兄から狐の身の俺を守ってくれたろう?」
水華は考え込むように閉じた扇を口元にあてた。そしてハッとしたように顔を上げた。
「先ほど、兄上にこの扇を投げた時のことを仰っておられるのですか?」
「ああ、それだ」
山吹が頷くと、水華の顔が花開くように明るくなる。
「やはり! やはり貴方は先程のお狐様なのですね?」
両手を上げて喜ぶ水華を見ながら、今更そのことについて喜ぶのか、と内心山吹は呆れた。 幼子とは人の中でも特に不可解なものだ。
「……まぁ、一応俺が里で言うところの『お山のお狐様』だ」
「やはり!」
これ以上なく嬉しそうに水華は笑い、そしてしげしげと不躾なまでに山吹を見る。
「な、何だ?」
「いえ。お狐様は人の姿にもなれるのですね。狐のお姿も綺麗でしたが、人のお姿もとても綺麗です。京にいた時に麗しいと評判の公達のお顔を拝見したことがありますが、お狐様はその方よりもずっとずーっと綺麗です!」
両手をいっぱいに伸ばして、ずーっとの度合を示そうとする様は、いかにも子供らしい。
その様に、山吹の口元が弛む。
「俺の名前はお狐様じゃない」
「そうなのですか? お狐様とお呼びすることは不快ですか?」
「不快と言うわけではないが……」
正直、山吹は困惑していた。幾星霜の時を生きた妖狐をこれほど困惑させるのだから、この少女はある意味大物だ。
お山のお狐様と呼ばれる前から、山吹とて人の子供を見たことはある。接したこともある。だがその子供たちはこぞって生来の金毛に驚き追いかけてくるか、お狐様と呼ばれるようになってからは畏れ崇められるかのどちらかだった。
ところがこの少女、水華はそれらのどれとも違う反応で自分に接してきた。貴族の姫君ゆえの無邪気さか、生来のものなのかは知らないが。 その上、彼女は一目で自分の正体を見破った。完璧に人の形に化けた山吹を。
――お狐様? と。
それは恐らく生まれ持った才能。通常の人では叶わない、人ならぬ者を見る、或いは知ることができる力だ。
本人にはまだ、自覚はないようだが。
あの兄のほうにはそういった感じはなかった。血筋ゆえに生まれ持った力と言うわけではないのだろう。だがそうなると、彼女はこの先一人でこの力と共に生きていくのだろう。
じっと山吹を見上げてくる瞳は無垢そのもの。何の庇護もなく、平穏にこの妖かしの跋扈する世を生きることは楽なことではないだろう。
「……水華」
「はいっ!」
涼しげな少し高めの声に呼ばれ、水華は大きな声で返事をした。
「妖かしには妖かしの掟がある」
「はい」
「自らを救ってくれた者へは恩を返せというものだ」
「はい」
「お前は扇を投げつけ、あの男から俺を救ってくれた。つまりは俺の恩人だ。俺にはお前に恩を返す義務がある」
「私に、恩を?」
この少女が人としての生を過ごす間、見守る。
その稀な才能によって彼女の健やかさが奪われることがないように。
それを、彼女への恩返しとしよう。
今まで山吹が耳にしてきた『妖かしの恩返し』。それは大概、人間の男が妖かしを助けたため、妖かしは人間の美女に化け、その男のもとに嫁ぐというもの。
だが彼女はまだ子供でそして女だ。前例もなく、また決して柔軟とは言い難い自分の思考というものを山吹は理解している。柔軟でない頭で考えた恩返し、それは彼女を見守ること。お お山のお狐様として。神に近い妖かしとして。
そう、決めた。
……だが。
「では、お狐様は私のお願いを聞いてくれますか?」
型破りな姫君はどこまでも型破りだった。
山吹の言葉を最後まで聞かず、彼女は真剣に両の目を彼へと向けた。
「私はまだこの土地へ来て日が浅いのです。それに父上や兄上は風評よろしくなく、同じ年頃の話し相手や文を交わしてくれる相手などもおりません。ですから、お狐様には私の友……いえせめて、お話し相手となって頂きたいのです!」
里で崇められ、神にも近い高位の妖狐に、「友になってくれ」と言った者など前代未聞だ。いかに恩を売っていようと、自らと同等のものとなれなどと口にした日には、どのような罰が下されるとも限らない。
だが水華の顔は真剣以外の何物でもない。幼いからこその本気の言の葉。世間知らずの姫君の戯言と言ってしまえばそれまで。だが、彼女は面白い。どちらにしても山吹は叶う限りの彼女の生涯を見守る気でいた。妖かしからすれば、瞬く間の人ひとりの生涯を。ならば、友となってより近くにいたほうが好都合だろう。何より、山吹自身にとってもそのほうが楽しそうだ。
「いいだろう」
「本当ですか?」
「本当だ。俺には人を騙して遊ぶ趣味はない」
そう言うと、水華は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「光栄です」
「待て。友となったのだろう? ならばその堅苦しい言葉遣いもやめろ」
友、という単語に反応して、水華の表情が引き締まる。
「よいのですか? お狐様相手に」
「構わない。俺はお狐様より前に、水華の友となったのだから」
水華は驚いて口をぱくぱくとさせた後、感極まった様子で地面を蹴って山吹に抱きついた。
「本当に? 本当に?」
「本当に、だ」
飛びついてきた水華の頭に手を置き、山吹はその冷たくも見える容貌を和らげた。
「では、これからも会いに来てもいい? ここでは文のやり取りなどはできないでしょう?」
「他の者に見られなければ構わない」
別に見られてもそう問題はないのだが、里人はやたら信心深い。まだこの土地に来て日の浅い水華がみだりに禁足地に足を踏み入れるのは気分がよくないだろう。一応祀られる身としては、里人のことも考えねばなるまい。
「そうだ!」
水華が突然声を上げる。
「それでお狐様は、何という名前なの?」
そう言えば、まだ名乗っていなかったか。本来妖かしは、むやみやたらに本名を名乗るものではないのだが……。
「山吹」
この世に自分を繋ぎ留め、自分を自分たらしめる唯一の名を、初めて人へと教える。
「山吹……」
その名を反芻して、水華はくるりと後ろへと軽く走った。そうして一本の高くも低くもない木を扇で指示し、山吹へと向き直った。
「この山吹の、山吹?」
その木には縁に細かい刻み目がついた緑の葉と、黄色の蕾がついている。山吹という名の、あとひと月もすれば黄色い花を咲かせ、秋には同じ色に葉を染める木だ。
「ああ。その山吹だ」
山吹が答えると、水華は山吹のもとへと戻ってきた。
「狐の時の姿と同じ色の花が咲くのよね。だから山吹は『山吹』という名前なの?」
「さぁ? 自分の名前の由来まではもう覚えてない」「覚えてないの?」
水華は目を丸くして尋ねてきた。
「長く生きてきたからな。忘れた」
軽い調子で言うと、水華は首を傾げた。
「山吹様は、お幾つなの?」
「様はいらない。俺達は友なのだろう?」
山吹がそう言うと、水華は嬉しそうにこくこくと首を縦に振ってから山吹、と言い直した。 そうして改めて彼女の質問に答える。
「幾つ、か……数百年は生きているはずだ」
「数百年!」
「だから忘れた。一番古い記憶は……」
少し上向いて思い出そうとするが、一番古い記憶、というものは一向に思い出せない。何しろこの山に住み着いて長い。人の時間の尺度でなく、基本的に長寿である妖かしにとっても長い時だ。
「忘れた。ただ、まだ千年は生きていないのは確かだな。千年を生きると天狐と呼ばれるようになるが、俺はまだその年ではないらしいから」
「山吹は、私の父上よりもずっとお年を召されていたのね」
子供の率直な感想に、山吹はせっかくの涼しげな容貌をしかめる。
「年寄り扱いされるのは嫌いだ」
「年を経た方には礼を払えと言われて育ったのだもの」
「悪かったな。年を経すぎていて」
憮然とした表情で山吹は近場の岩に腰を下ろす。そんな山吹を見て、水華は慌てて両手を振って弁明した。
「そっ、そんな悪いわけではなくてっ。山吹は人の姿の時は私より少し年上くらいだから驚いてっ!」
むせこみそうな勢いで水華は力説する。
本当に面白い子供だ。憮然とした表情はそのままに、山吹は胸の内で笑う。
「少し年上か。水華は幾つだ?」
「え? 私は十歳だよ」
道理で幼い行動が目立つはずだ。もっとも、京ならばそろそろ裳着という女児の成人の儀を終え、人前に出ることなく御簾の内にこもっていてもおかしくない頃か。
「水華は、裳着はまだなのか?」
「うん。面倒くさいもの。本当は睦月の終わり頃にって話だったのだけど、父上が県召でこちらの国司になることが決まって、母上の実家ともめているうちにうやむやになってしまったの。そのついでに忘れられてしまったみたい」
県召は毎春、睦月に行われる地方官の任命式のことだ。
なるほど。地方に飛ばされた男とその妻が残るかついて行くかでもめるという話は聞いたことがある。水華はそのとばっちりで裳着を先延ばしにされたのか。「母上と別れなければならないのは寂しいけれど、それだけは良かったって思っているの」
水華は幼い顔立ちに、少し寂しげな笑みを浮かべる。
「裳着が嫌なのか?」
「嫌」
山吹の問いかけに水華は即答する。驚くほどの即答ぶりだ。
「だって外にも自由に出られない、いちいち顔を隠さなければならない、そんなの面倒だもの。それに裳着を済ませていたら、私は今頃新しいお邸の奥にこもっていて、こうして山吹には会えなかったもの」
そう言って顔を上げた水華は愛らしい顔立ちに花のような笑みを浮かべた。
「私は父上がこちらで落ち着くまで京の母上のお邸にいたのだけれど、父上からの文で山吹のことは聞いていたの。とても綺麗なお狐様がお山にいて、里を守ってくれているって」
父上は信じてはいなかったみたいだけれど、と水華は苦笑しながら付け足した。
「だからね、父上より随分遅れてこの地に来たけれど、一緒に来る兄上は大嫌いだけれど、母上と別れるのはとても寂しかったけれど、私はお狐様にお会いするのだけは楽しみだった。とっても綺麗なお狐様。寂しくなるといつも考えていたの。どんなに綺麗なお狐様なんだろうって。お会いできたらお話したいなって」
子供らしい、無邪気な笑顔。
幼い飾り気のない言葉。
幼子が母親と離れることはとても寂しいことだと聞く。山吹にはその感情はわからないが、目の前の幼姫が寂しいという感情を持っていること、それを必死にひた隠しにしていることだけはわかった。
「……ここへ来たくなったら、いつでも来い。祠がある場所から来れば、いつ、どんな時でも歓迎してやる」
その言葉に水華はきょとんとした表情をしてから、遠慮がちに尋ねた。
「いいの? ここは、本当は禁足地なのでしょう?」
「『お山のお狐様』の俺の住まいだから禁足地ということになっているらしいから、その俺がいいと言ったらいいに決まっている」
淡々と告げられる言葉に、水華の顔が綻ぶ。
「うん! ありがとう!」
再び水華は山吹の縹色の狩衣に飛びついた。山吹はそれを受け止め、滅多なことでは崩さないその涼しい表情を綻ばせた。二人の間の空気が和んだその時。
唐突に、深緑の深山に甲高い声が響き渡った。
「こっこら、お前!」
山吹と水華は同時にその声のほうを見た。そこには一匹の子狐。
「狐っ」
水華が山吹に抱きついたまま、頬を上気させて叫ぶ。山吹は冷静にその見知った眷属の名を呼んだ。
「鬼灯」
それはつい先程、山に侵入者ありと報告してきた子狐だ。「山吹様! 何故このような者をいつまでもこの地に置いておられるのです! 娘も山吹様から離れよっ」
体毛を逆立てて怒鳴る鬼灯の声は、普通の人には獣の声にしか聞こえない。だが、普通の人ではない水華には……。
「狐が喋った……山吹様って。この狐もお山のお狐様?」
水華は両手でしっかと狩衣を掴んだまま、山吹を見上げる。
「馴れ馴れしく山吹様を呼び捨てにするなど……身の程を知れ! この小娘がっ!」
鬼灯の怒声に驚いた水華は身を竦める。
「鬼灯。落ち着け」
「いいえ! 恐れ多くもこの地の土地神であり、天狐と同位であらせられる山吹様へのこの娘の所業は許し難いものです! さ! 山吹様もそのような輩、すぐにでもお放し下さいませ」
「いいから落ち着け。……水華、あれは俺の従者で少し生真面目が過ぎるが悪い奴ではない」
「本当?」
じっと覗き見るように水華は鬼灯を見た。
「鬼灯。この水華が俺の恩人で、そしてその恩返しとして俺は水華と友となった」
「は?」
鬼灯は間の抜けた声を上げた。
「それからお前は頭に血が昇ってわかっていないだろうが、水華は普通の人と違って、妖かしを見聞きする力を持っている。お前の言葉もしっかと伝わっているぞ」
山吹が水華の顔を覗き込むと、遠慮がちに水華は頷いた。そして少しだけその目尻を吊り上げる。
「お狐様でもないのに、私に偉そうな口を叩かないで頂戴」
「なっ」
鬼灯は狐特有の大きな口を開いて、言葉を失う。
「私は私の認めた相手以外にへりくだるほど卑屈じゃないの。貴方なんて山吹がいなかったらただの喋る狐じゃないの」
べーっと赤い舌を出して水華は悪態をついた。
実に子供らしい行動だ、と思いながら山吹はその様子を静観する。
その一方で鬼灯は小さな体をわなわなと震わせていた。
「た、ただのしゃべる狐……この小童がっ!」
鬼灯は毛を逆立て、水華へと牙をむく。
「何よ! 貴方こそ子狐なのでしょ? 何で私が小童扱いされなければならないのよ!」
狩衣から手を離して、両手を腰につけて水華は堂々たる態度で反論する。
静かな神聖なる森は今や、一人と一匹の生み出す険悪な雰囲気に呑まれていた。子供同士のケンカと言えば可愛らしさもあるものの、静かで穏やかな妖かしにとって心安らかに過ごせる地でこの空気はいただけない。静寂と平穏を尊ぶ身としては、こういった空気は嫌い……というより面倒だ。山吹は一歩も譲らない一人と一匹を見て、溜め息を吐いた。 一触即発の状態にあった二人の間にパンパンと乾いた音が割って入る。一人と一匹はその音の主、手を叩いた山吹を見た。
「やめろ。お前たち」
「ですが山吹様!」
「私は悪くないもん!」
呆れた声音の山吹に、尚も子供らは不満を漏らす。一体いつから自分は乳母になったのかと思いながら、山吹はそれぞれを見た。
「鬼灯もいい加減三十を超えたんだ。もう少し落ち着け。相手は十かそこらだぞ」
「ですが、いかに恩を受けたといえど、山吹様がこのような人間如きと友になど……他の妖かしにも示しがつきませぬ!」
頑固な従者に山吹は再度呆れと疲れの溜め息を吐く。
「妻になって子を産むこととてそう変わらないだろうに。……鬼灯の他に、不満のある奴はいるか?」
山吹は木立に向かって、決して大きくはないが凛と通る声を向けた。返ってくるのは言葉ではなく、そよそよと穏やかな梢の音。
山吹は視線を鬼灯へと戻した。
「……他の奴らは特に不満はないそうだ」
鬼灯は不服そうに俯いた。
水華だけがその場の状況を飲み込めず山吹と鬼灯、それに周囲の木々をきょろきょろと見回している。
「ねぇねぇ山吹。他にもお狐様、たくさんいるの?」
水華が好奇心に充ち溢れた表情で山吹の狩衣の裾を引く。
「こら! 山吹様に馴れ馴れしい!」
声を荒げる鬼灯に水華は一瞥くれてから、今度はわざとらしく勢いよく彼から顔を逸らした。
「こっ、この小娘が…!!」
「ふんっ」
「お前達……うるさい」
山吹のやや高めの声が、ほんの少し低く重いものとなる。見ようによっては冷たくも見える整った容貌はより一層冷え冷えとして見え、怒りを宿していることは一目瞭然だった。
怒っていると同時に察した初対面にして犬猿の仲となった水華と鬼灯は口をつぐんだ。
「ご、ごめんなさい」
「……申し訳ございません」
子供達は揃って山吹を窺い見る。その山吹はじとりと子供達を見てから、もういいと言うように元の涼しげな表情に戻った。それを確認し、水華と鬼灯は同時に安堵の息を吐いた。
「この地には狐に限らず、多くの妖かしがいる」
唐突に山吹が言った。
水華は何のことだ、という顔をしたが、それは先ほど彼に他ならぬ自分が投げかけた疑問だと気付いたのか黙って続きを待った。「この地と言っても他所から妖かしが流れてくることもあるし、別の妖かしの領域との境界も曖昧だが、里から見える範囲の山は俺の領域だと思ってかまわない」
「山吹の領域……」
「山吹様はこの辺り一帯を統べる土地神でもあられる。つまりはこの山だけでなく、この地に在る妖かしは山吹様の支配下にあるということだ」
鬼灯が誇らしげに胸を逸らす。その言葉に水華は素直に感嘆の声を上げた。
「山吹って偉いんだぁ」
「当然だ! 山吹様はそこらの妖かしなどとは格が違う!」
「何で貴方が偉そうなのよ」
小さく毒づいた水華の声など聞こえないように、鬼灯は狐色のふさふさとした尾をぴんと立てている。
「土地神様って、その土地を守る神様のことよね?」
「人の定義ではそういうものらしいな」
山吹はあまり興味もなく、ひらひらと舞う紋白蝶を眺めながら答えた。
「では私の兄上は罰せられる? 当たらなかったけれど、山吹に矢を射かけたことは真実だもの」
水華の幼い声に緊張という色が滲む。山吹が横目で見ると、水華は複雑そうな表情で両手を握りしめていた。
「……罰してほしいか?」
淡白な声に水華は弾かれたように顔を上げる。
「そういうわけじゃないけれど……あんな大嫌いで愚かで傲慢な兄でも、罰せられたら少し嫌かなって……」
「なら罰さない」
水華の言葉にかかるほどの即答。
「結局のところは水華に助けられたわけだしな。実害はなかった」
山吹は薄く形いい唇を弛める。それだけで涼しげな容貌が春のように温かなものになる。
水華の目が見開かれ、頬が紅潮する。それを見て山吹はまた唇を引き結び、屈んで水華に目線を合わせた。
「どうした? 顔が赤い」
「え、あ、え……大丈夫! 違うの、その……何でもないから大丈夫っ!」
「そうか?」
山吹の問いかけに、水華は勢いよくぶんぶんと首を縦に振った。
その間もまだ頬は赤い。形のいい眉を歪ませて困惑する山吹の横で鬼灯が不機嫌を隠すことなく水華を見ていたのを、当の山吹はまったく気づくことはなかった。
「そう言えば、そろそろ日暮れも近い。もう帰ったほうがいい」
山吹に言われるまま水華が高い木々の隙間を見上げると、空は薄らと赤みがかっていた。この山自体が木々に覆われていて薄暗いから気付かなかったが、水華が最初に足を踏み入れてから随分と時間が経っていたらしい。
「本当だ……うーまだ帰りたくない」 年相応の表情で愚図る水華に鬼灯は帰れ帰れと悪態をつき、山吹はそんな鬼灯をたしなめ、水華の目の前に白い指先まで整った右手を出す。
「なぁに?」
水華が山吹を見上げると、差し出された手のひらから小さな火の玉がひとつ、ふたつと生まれる。
「わっ!」
火の玉はふわりふわりと水華のまわりを舞う。
「火の玉! あ、山吹の火の玉なら狐火?」
「まぁ呼び名は何でもいい。それがお前の邸まで送る」
「狐火……父上あたりが見たら卒倒しそう……」
「それは水華だから見えるんだ。普通の人には見えない。水華の力が父親譲りでなかったら父親には見えないはずだ」
「へぇ」
そして水華が山吹の説明を聞きながら狐火に触れようとすると、狐火は逃げるように空を舞う。
「狐火って怖いものだと思っていたけど、可愛いね」
愚図っていた顔もどこへやら。水華は満面の笑みで山吹を見上げた。
「普通は人を脅かすのに使ったりするから、この世の概ねの人は恐ろしいものだと思っているだろうな。それよりほら、祠までなら見送ってやる」
いつの間にか山吹は人の姿から、あの稲穂のような体毛の狐の姿に戻っていた。
「わ、お狐様!」
「山の中ではこちらのほうが便利だ」
驚く水華を置いて山吹はすたすたと前を歩き出す。水華と鬼灯も慌ててそれに続く。
「山吹だよね?」
「そうだ」
わかっているのに何故わざわざ確認するのか山吹には理解できなかったが、一人納得して装束を汚しながら歩く水華は上機嫌で、理解出来ないということよりそちらのほうが微笑ましく、水華ではないがほんの少し別れが惜しい気もした。
「明日も来るね」
「ああ」
「来るな、来るな」
「来るもん!」
鬼灯にいーっと歯を見せて、再び二者は睨み合う。山吹はもう仲裁を諦め、ただ傍観に徹することにした。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って水華は狐火を護衛に祠と山を後にする。小さな腕をいっぱいに伸ばして、大きく振りながら。
水華は何度も何度も振り返り、そのたびに手を振った。やがてその姿が見えなくなった頃、山吹は知らぬうち、小さく呟いた。
――面白い子供だ、と。