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其の壱

 人という生き物はわからない。

 なぜ豊作祈願を俗に言う稲荷、宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)ではなく、その眷属でもない一介の妖狐である自分にするのか、まったくわからない。

 確かに狐の中には稲荷の眷属である者もいるが、自分は違う。ただ長い時を経て、妖かしだとか精霊だとか、あるいは神と呼ばれるような存在になっただけの狐にすぎないというのに。どうせ祈願するならばより確実な神にすれば良いものだろうに。

 もっとも、そんな事は自分には関係ないことなのだが。

 お山のお狐様。

 そう呼ばれるようになって長い彼はただ、自らの領域を侵されなければそれでいい。自らの生きる時が人間によって左右されるものでもなし、崇められようが畏れられようが、彼には一切興味がなかった。

 自分はただ生きて、時の流れに身を任せ、夜になれば星と月を眺め、朝が来れば眠り、昼になれば緑深い自らの領域で過ごした。

 そうして彼は長い時を経て、常ならぬ生き物へと変じた。

 常ならぬ狐は、時を経るとともに不思議な力を持ち、知恵をつけていった。そうしていつしか最高位の狐神、空狐(くうこ)の下にあたる千年を生きた狐、天狐(てんこ)と同位の者として扱われるようになった。まだ彼は千年の時を知らないし、通常の天狐のように尾も四本ではなく、一本しかない。

 そのまだ若い妖狐の彼は、他のどの狐よりも強い力を持ち、他のどの妖かしより美しかった。

 だがどんなモノになろうとも、自分は自分でしかない。それはただの狐であった頃から変わらぬ、彼の心情。

 古くから変わらぬ月と星を眺め、陽の光を浴び、季節の移ろいを愛で、時には他の妖かしと宴に興じる。幾年月をそうして生き、そしていずれは朽ちるのだろう。世の理、妖かしの理に従い、数百年を生きた妖狐は欠けた月を眺めながらそう思う。




山吹(やまぶき)様」

 彼に仕えるまだ若い、と言うより幼い狐は、陽光と同じ色に輝く毛並みの狐に遠慮がちに声をかける。草と葉の天然の寝床に伏していた、この世で最も美しい狐と称される彼の主はゆっくりと首をもたげた。

 幼い狐は深く頭を垂れ、はっきりとした声音で告げる。

「山に人が立ち入って参りましたが、いかがなさいますか?」

 山は彼らの、正確には彼らの主である狐の地であり、人間が立ち入ることは許されない。彼が許さなかったのではなく、勝手に人がそう定めたものなのだが。だから彼、山吹は小さく欠伸をして、さして関心もなさそうに答える。

「捨て置け」

 幼い狐は主の言葉に目を見張る。

「で、ですがよろしいのですか?」

「よい。別に俺がこの山に入るなと言ったわけでもないし。山を荒らされなければそれでいい。人は面倒だから関わりたくない」

 淡々としているのに玲瓏たる響きを持った声に幼い狐は一瞬聞き惚れ、それ以上の言葉を忘れるが、慌てて次の言葉を告げた。

「ですが、山に入った者の一人は弓矢を持っていました」

「狩りにでも行くようだったと?」

「……はい」

 小さくなって幼い狐が答えると、山吹は億劫そうに立ち上がって、黒い鼻を空に向けた。

「里の者じゃない匂いがする……まぁそれもそうか。里の者だったら『禁足地』に足を踏み入れたりしない」

「里の者たちとは出で立ちがまるで違いました。私なぞ見たこともないような着物で……」

「ならば国司あたりが暇を潰しにでも来たのだろう」

「国司?」

 小さく首をかしげる臣下に、山吹はどこまでも淡々と説明する。

「国府……役所に仕える人間のことだ。この山も含めて、この辺り一帯は人からすれば人の領地で、その領地に住む者を管理したりするのが役目だ」

「この山もですか!」

 憤慨したように幼い狐は声を上げる。けれど対する山吹の態度は冷え冷えとしたもの。

「人には人の、俺達には俺達妖かしの法がある。それらは一致するとは限らない」

「……人は身勝手です」

 ぽつりとこぼれたその言葉を拾って、山吹は言う。

「もしもお前が人だったら、同じ言葉を妖かしに向けて言うのかもしれない」

 幼い狐は目を丸くする。山吹はゆっくりと説くように言った。

「森羅万象すべてにおける正道などこの世にはない、ということだ」

 種族、身分、立ち位置が変わるだけで、正しいことなど簡単に変わってしまうのだから。

 山吹は小さく息を吐き、随分と昔に人によって造られた自らのための祠のほうへと足を進めた。

「山吹様? どちらへ……」

「様子だけ見てくる。山が荒らされるようなことがあってはさすがに『俺が』気分が悪いから」

 言うなり、黄金色の毛並みは風のように緑の奥へと消えゆく。

 幼い狐はついて行くべきかどうか少し迷ったものの、行くだけ自分は邪魔だと判断し、その場に残った。




「まったく。我が父ながら、不甲斐ないことだ!」

 肩を怒らせ、従者たちに罵詈雑言を浴びせながら獣道を歩くのは若い男。その、この田舎と言っていい地に似つかわしくない身なりから男が貴族であることを全身で語っている。男は先日まで、仮にも京、平安京で前途有望な……少なくとも自身はそう信じていた貴族だった。

 それが先日、従五位の位であった父が何を血迷ったか、自分より身分が高く、かの藤原家とも繋がりのある上級貴族といさかいを起こした。それにより、父は左遷同然に花の京に(やしき)を構える貴族から(すけ)という官職と共に左遷された。更にはそのとばっちりで、その父の跡取りである男もこの地まで飛ばされたというわけだ。

 介というのは国府の最高責任者、(かみ)に次ぐ地位。だが、父の場合はただの名目だけの地位であることを彼はよく知っていた。通常は数年で京へ戻れるが、父をはじめ、彼ももう二度と、あの華々しい京へ戻れることはないであろうことも。

 それにより平素より穏やかとは言い難い彼は恥も外聞もなく周囲に当たり散らしていた。通い先の女、いずれは妻にと思っていた女には追い返され、貴族という地位をかろうじて持ちながらも自分はこんな辺境の地で朽ちていくしかない。その事実は自尊心ばかり高い彼にとって許し難いものだった。そうして呷るように酒を飲み、血の穢れなど気にも留めず、男は放蕩の限りを尽くすようになった。父のたった一度の愚か極まりない失態によって一瞬で瓦解してしまった彼の今までのささやかな栄光を引きずりながら。

「くそっ。何故あんな男が俺の父親なのだ!」

 男は苛々と当たらぬ矢を兎めがけて射った。

 だが、それは幼いかん高い声により、もとより的になど当たるわけもない矢をさらにとんでもない方向に飛ばす。

「駄目っ!」

 男だけでなく、数人の従者たちもキンと耳に響き渡る声に目を見張った。従者の一人がその声の主を見て、悲鳴に近い声を上げた。

「ひ、姫様ぁっ」

 従者の視線の先には十歳ほどの幼い少女。緑なすまっすぐな黒髪を肩より少し下で切り揃え、(あこめ)を纏った、どこからどう見ても貴族の姫である少女、男の腹違いの妹だった。

 しかし今はその事実よりも何故このようば場所にその姫がいるかということのほうが従者たちにとっては一大事だった。

「みっ、水華(みなか)姫! なぜこのようなところに……一体いつから」

「兄上たちが新たな邸を出てからずっと。これから私もこの国に住むのだから、この辺りの信仰を集めるお山のお狐様にご挨拶に伺おうと思って」

 にっこりと少女、男の唯一の妹は大きな黒い瞳を細め、愛らしい限りの笑みを零す。しかし、そのせっかくの貴族の子女の装束は草と泥とで汚れきっていた。

「だ、駄目です。さ、今すぐお邸に戻られましょう。皆が心配しておりますよ」

「嫌。私もお山のお狐様にお会いするまでは帰らない」

 ぷいっと水華はそっぽを向いた。

 強情な彼女らしい仕草に、従者たちはすっかり困り果てた。前には出来の悪い放蕩息子。後ろには強情で口達者な幼い姫君。どうしたものかと従者たちは顔を見合わせる。このままでは確実に邸の主、男と水華の父親から叱責を受けることは確実だが、この強情姫を説得するのは容易なことではないことを、経験上彼らは知っていた。

 せめてこの場で最も権限のある水華の兄が何か言ってくれれば……と淡い期待を寄せるが、彼は妹のことなどには全く気にも留めない。次の獲物めがけて弓を構えていた。

友則(とものり)様……」

 助けを求めるようにその名を呼ぶが、男は一向に構う気配を見せず、茂みの奥の獣の気配に集中していた。そして一瞬、茂みの向こうで獣のものらしい金色に近い毛並みを垣間見ると、友則は舌舐めずりでもしそうな笑みを浮かべ、今にも矢を放とうとした。

 だが。

「だから駄目だと申しているのですっ!」

 背後からの衝撃に、思い切り手元が狂う。

 矢はそのまま友則の手を離れ、地面に落ちる。

 水華は足を踏みならし、兄の背中めがけて放った愛用の扇を拾い上げ、胸を張り、大きな黒い瞳で兄を睨み据えた。

「里で噂になっておりました。お山の動物はお狐様の従者だと! その動物を傷つけようなんて、兄上は何を考えておられます!」

 七つも年下の妹からの言葉に、友則は舌打ちする。

「お前は誇り高き京の貴族である俺に、狐如きに礼を払えと申すのか?」

「如きではございません。里で聞いた話によると、この近辺の豊作はこの山の稲穂のごとき輝きの毛並みの狐を祀り始めてからとのこと。人が飢えずに暮らすにその狐殿が一役買っているのならば、敬意を払うは当然のことにございましょう」

 この二人は常にこの調子だ。

 位の高い貴族の娘であった正妻の娘である水華と、側室の子である友則との間には、生まれた時から埋めようもない深い確執があった。さらに母譲りの美貌を持った水華ばかりを父が明らかに贔屓しているということもあり、友則は水華のことを疎んじていた。

 その上、水華は年齢の割に口が達者で聡明な娘だ。

 感情ばかりが先に立ち、学に疎い友則にとっては全くもって忌々しい限りの存在でしかない。

 睨み合っていた二人だったが、友則は無言で踵を返し、元来た道を下って行った。

「戻るぞ!」

「ですが水華姫が……」

「放っておけ! 一人でもここまで来たのだ。勝手に一人でも帰ってくるだろう。それとも俺の命に逆らうのか?」

「で、ですが……」

 女一人、それもまだ幼い姫君を一人で山の中に取り残していけるはずがない。従者の一人が目で自分が残る、と他の従者たちに仕えたところで友則が冷めた視線を寄こした。

「あの餓鬼なら、とっくに奥へと進んでいったぞ」

「なっ!」

 従者たちが慌てて周囲を見渡すと、確かに水華の姿はどこにもなかった。

「た、大変だ。この山は深い上に、物の怪が出ると……」

「ふん。あのうるさい餓鬼がいなくなるのなら丁度いい。物の怪様様だ」



 そんな従者や友則の声など聞くまでもなく、水華は袴をさらにボロボロにして奥深くへと進んでいた。

 一瞬確かに見たのだ。

(太陽のように、稲穂のように輝く毛並みの狐!)

 あの愚兄が射ようとしたのは、確かに噂に聞いた『お狐様』の特徴をもっていた。もっとも、一瞬水華と目が合ったと同時にすぐに走り去ってしまったが

「おーきーつーねーさーまーっ!」

 木々の奥へと、水華は力いっぱい叫ぶ。

 だが、何の反応もない。

 従者たちは山の入り口付近に置いてきたし、お目当てのお狐様も姿を現してはくれない。

 日の光も射さないような薄暗い森の中、幼い黒目がちの瞳に涙があふれてくる。それでも幼い姫は何とか小さな両手を握りしめ、その涙がこぼれおちないように我慢した。

「おーきーつーねーさーまーっ! いるのでしょー! 出てきてよーっ!」

 その後にグスグスと子供のしゃくり上げる声だけが山に響いた。

 半ばヤケを起こしたようなその叫び声は当然、『お狐様』にも聞こえていた。

 そのお狐様、山吹はと言えば、深く深く溜め息を吐いた。

「あれもそうなるんだろうか……」

「話に聞いたところでは微妙なところではありますが、一応我らの『掟』でございますし」

 山吹の周囲に集った妖かし達はためらいながらも口々に言う。

「面倒だ。誰だ、その掟とやらを最初に言い出した奴は」

 対する山吹はどこまでも面倒くさそうに、苛立ちを隠すことすらない。

「そ、それはわかりかねますが、しばらく前にも信太の森の狐が掟に従い、人の男のもとへ嫁いだと」

「しかし産んだ子供に自らの正体を看破され、信太に戻ったと聞いたぞ」

「ですがそれまでの間は確かに『掟』に従ったそうでございますが」

 妖かし達の会話はそこで途切れた。周囲の妖かし達の視線は、主である山吹へと向けられている。

 山吹は大きく溜め息を吐いた。

「わかった。俺とて『掟』に逆らい面倒を起こすつもりはない」

 言うだけ言って、山吹は森中に響き渡る鳴き声のほうへと歩き出した。

 それを周囲の者たちは見守り、安堵の溜め息を吐いた。

 妖かし、物の怪、鬼……呼び方は様々なれど、彼らには共通の『掟』がある。

 それが、


『人から恩を受けたならば必ず返すべし』

 

 だ。

 先ほどの山吹を射ろうとした矢から、あの幼い娘は山吹を守ってくれたととれなくもない。つまり、彼女から恩を受けてしまった形になる。そうなってしまった以上、山吹には彼女に恩を返す義務が生じる。山の妖かし達を束ねる者が『掟』を破っては下の者に示しがつかない、とつい先刻まで延々と説かれてきたのだ。

 山吹自身、恩を受けてそのままでいるのは義理を欠くことだとは思う。そう思うのだが、人は面倒だ。

 妙に畏まられたり、出来もしないことを祈願されたりなど面倒極まりない。出来るのならば関わりなど持ちたくない。

 そもそも人と妖かしとは住み分けねばならないというのに、何がどうなってこんな『掟』が生まれたのか甚だ疑問だ。

 草木を踏みしめる獣のものであった足は、いつの間にか貴族の男の履く浅履(あさぐつ)となり、四肢は五本の指先をもつ、人のそれとなっていた。

 一歩踏み出すごとに、その姿は人のものへと変じてゆく。

 黄金色の狐は、いつしか薄い藍色……縹色(はなだいろ)狩衣(かりぎぬ)を纏う、京の麗しの貴族そのものの姿となっていた。

 外見だけで見るならば、十五、六歳ほど。ただ元服の証である冠を被らずに、長い髪を高い位置で狩衣と同じ色の結い紐でくくっていた。そしてその顔立ちは、宮中でも稀な、涼しげな容貌の美童。

 これが山吹が人に変じた時の姿。

 総じて妖かしが人に変じた時は整った容姿となるものだが、山吹のそれは特に群を抜いていた。

 ただし、山吹が人の形に変じることは至極稀で、その姿を見る者はほとんどないが。



 水華は近場の岩に腰を下ろし、兄に投げつけた後に拾った扇を開いたり閉じたりしていた。愛用の扇には、薄紅(うすくれない)の蓮の花が描かれている。

 父が左遷された際、別れた母に贈られたものだ。頭に血が昇って思わずあんな阿呆の兄などに投げつけてしまったが、本当はとても大切なものなのだ。

 優しく美しい母上。

 大好きで憧れの女性だった。けれど母の実家は跡取りとして水華の弟だけを引き取り、水華は左遷された父と共に母と離れて暮らすことになった。母は直前まで水華も自らの手元で育てる、と言ったが、祖父母がそれを認めなかった。

 おそらくは今生の別れになったであろう日、母は他にも扇や衣、珍しい形の香炉や薫物などたくさんのものを贈ってくれた。

 (ふみ)のやり取りはできる。けれど遠く離れた京の地とでは、そう頻繁にはいかないことはわかっている。

「母上……」

 呟きとともに、再び溢れてきた涙を汚れてしまった衣でごしごしと拭う。

 この時代、貴族の結婚とは、夫が妻の家を訪ねてくるのが普通。共に暮らすことなどほとんどない。それ故、水華も母と共に母の実家で暮らしてきた。貞淑な姫とは程遠い行動力と雄々しさ溢れ、乳母や側仕えの者たちを泣かせ続けてきた自分が祖父母に疎まれているのは何となく感じ取っていたが、実際に弟だけを手元に置き、自分はためらいなく父と遠くへやられた時はさすがに悲しくなった。

 ほとんど顔を合わすことがなかった父。

 折り合いの悪い異母兄。

 同じ国司の娘でも、父の境遇を知っているためか、水華など相手にしてくれない同世代の少女たち。

 ここはとても寂しい。

 けれどそれを認めるのは嫌だった。寂しい、だなんてあの馬鹿兄に知られた日には、鼻で笑われ小馬鹿にされるに決まっている。

 その時、草を踏みしめる音がし、反射的に身構えた。この山にはお狐様の眷属も住んでいるが、獰猛な獣も住んでいる、そんな噂も耳にしていた。

 水華は扇を強く握りしめ、顔中の涙を乱暴に拭うと腰を下ろしていた岩から飛び降りた。

草を踏みしめる音は次第に近づいてくる。

 もしかすると、禁足地に勝手に足を踏み入れたことで妖かしの不興を買ったのかもしれない。

 水華の心音はどんどん速くなってく。手が震え、扇を持つことすらままならない。

 このまま逃げる?

 ……無理。

 こんなに重い衣装を着て、獣や妖かしから逃げ切れるわけがない。

 せめて命乞いをする?

 ……でも私はそこまでして、生きたいのだろうか?

 ふいにそんな疑問が湧き上がる。

 是が非でも生きたいと思う理由が今の自分にはあっただろうか。 急に強張っていた体から力が抜けていった。水華の中で、何かが吹っ切れた。

 どうせ死ぬならせめて冥土の土産に妖かしの姿を拝んでやろう。

 今の自分の生きる理由、逃げ出さない理由。

 それは、近づいてくる妖かしをこの目でしかと見ること。

 腹をくくって、そうしてまっすぐに足音のするほうを見据えた。足音は確実にこちらに向かってくる。草木を踏みしめる音と共に。

 よくよく耳を澄ませば、近づいてくる草木を踏みしめる音は、獣の音とは少し違った気がした。

 パキンと小気味よい音をたてる枝の音などは、獣ではなく人の重みによるもののよう。その均一でゆったりとした足音は、深い森の中でも俊敏に動く獣のものとは違う。

(獣でも、妖かしでもない?)

 水華がそう疑問に思った時、木々の合間に縹色を見た。

 この森に入って初めて見る色。

 そう思った時、御簾のような木々の合間から縹色が現れた。

 その色は貴族たちの平常着、狩衣の色だった。

 獣か妖かしか、と思っていた水華は目を見張る。

 縹色の狩衣に、高い位置で同じ色の結い紐で一つに髪をくくっている。その姿は京で幾度となく見た元服前の貴族の子息のものと変わらない。

 けれどその線の細さ、凛とした瞳と口元。涼しげな容貌は、今まで水華が出会った誰よりも美しい人。

「貴方は……」

 誰?

 そう聞こうとした。したけれど、その前に言葉が先に口から零れおちた。

「お狐様?」

 その凛とした瞳は先刻目が合った黄金色の狐と同じものだと思うより先、そう口にしていた。


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