其の十二
山は常の如く、静かで清涼な空気で満ちていた。
水華はほっとしたように息を吐いた。
その右手はしっかりと山吹に握られている。だがその長い黒髪も、透けるような白い肌も今にも消えてしまいそうに朧げに歪んでいる。
それを見て山吹はきつく目を閉じた。
気付かせたのは自分。
死したことに気付かず、妖かしに近い者としてこの世に存在させたのも自分。
あの晩、水華が裸足でこの山までやってきた夜、山吹は彼女から生者の気配が感じられないことにぼんやりと気付いていた。その体の異様な冷たさに、死の匂いを感じた。
気付きながら、彼女に告げることが出来なかった。何も知らない、忘れている彼女に真実を告げることは出来なかった。
知らされることではない。それは自ら気付かなければならない事だ。
そう、自分に言い訳をして。
何も言わず、何も聞けず、時は過ぎていった。
常と変わらず、楽しげに過ごす彼女を見ていて尚更決意は鈍る。
誰も気づかなかった。白も黒も、荷葉も鬼灯も、他の妖かしも皆。
心のどこかで思っていたのだ。
このまま水華といたい、と。
約束の四年目まであと少しなのだ、と。
妖かしを纏め、里を収める地位にある者でありながら山吹は条理より自身を優先させた。
だが、それでも抑えたほうだと思ってしまう。
本能の恐怖からか邸へ戻ることを拒むようになった水華を、引きとめたいと思う衝動のままに、黄昏時と共に水華を邸に返すという日常までも壊しはしなかった。
出来ることなら避け得ぬ終焉の時まで、少しでも長く時を共有したかった。人でも妖かしでもなくなった彼女には、光と闇に分けられる必要もなくなっていたのだから……。
「水華姫っ!」
山に響いた甲高い声に、水華は今にも崩れそうな笑みを浮かべる。
「荷葉」
荷葉は顔中涙で汚して水華に抱きつこうとした。
だが、それは叶わなかった。
荷葉の幼い手が水華の体をすり抜ける。
その手が掴んだのは、何もない空。
「あ……」
荷葉は声を震わせ、すり抜けた両手を見た。
水華は泣き出しそうな顔で笑って、ごめんねと謝った。
その声に、荷葉の双眸から再び涙が溢れ出す。
「う、うあぁぁぁぁぁんっ」
触れられない水華の前に立って、声の限りに泣き出した。
もう山の妖かしの誰もが気づいている。
黒く厚い雲が、山に近づいていた。
……ああ、雨が来る。
ぼんやりとそんなことを思った山吹の肩にいつの間にか黒が留まり、足元には白が、少し離れた茂みには鬼灯がいた。
「山吹様……」
「大丈夫で御座いますか?」
「……黙っていて済まなかった」
山吹は誰にも視線を向けず、握り締めた水華の右手を引いた。
「水華も、済まなかった」
山吹を見上げた水華はゆっくりと首を横に振った。
「私のほうこそ、御免なさい。私が忘れていたせいで随分山吹を困らせていたんだね」
申し訳なさそうに水華は眉を下げて笑った。
胸の奥を握りつぶされたような感覚がする。その笑う様があまりに儚げで、やるせなくて、哀しかった。
何も出来ない自分が悔しくて、腹が立って、もどかしくて仕方がない。
いくら他者に恐れ崇められようと、自分はこんなにも無力なのだと思い知らされる。
厚い雲が天を覆い、日の光を遮った。
ぽつり、ぽつり。
ささやかに降り出した雨は次第に滝のように山に、里に降り注ぐ。
緑と土の匂いが雨の匂いと共に香る。
遠くの山に山煙がかかっているのが見える。
斜面に、雨によって名もなき滝が生まれる。
「……雨の日の山も、こんなに綺麗なんだね」
そう言った水華は笑っていた。
雨には濡れていない。
もう、この世の殆どのものと接することが出来なくなっている。
「こんな雨の日に山に来たのは初めて」
「……そうだったな」
急な斜面の多い山は、雨の日は滑って危険だから来るなと水華には前々から言っていた。だからこんな雨を水華と見たことはない。
だから雨の日の山の美しさを彼女と共有するのは今日が初めてだ。
通り雨だったらしい雨は、次第に勢いを衰えさせていく。
雨に濡れた紅葉や山吹の葉を見て、水華が漏らすような溜め息を吐く。
「綺麗……」
赤に染まった紅葉、黄に染まった山吹の葉は、雨に濡れたことによってその色を一層鮮やかに見せていた。
「……もっと早く、山吹とこの景色を見たかったな」
笑いながらそう言うが、それが彼女の精一杯の言葉だということが嫌と言うほどに伝わってきて、息が苦しい。
水華は柔らかな表情で白と黒を見た。
「白爺、黒。今まで良くしてくれて、有難う」
深く頭を下げると、滑らかな黒髪が肩から落ちる。
黒は一度だけ大きく頷く。
白は平伏して、しゃがれた声を出す。
「水華姫と過ごす日々は、とても楽しゅう御座いました」
水華は薄く笑い、鬼灯のいる茂みへと声を投げかけた。
「鬼灯も。有難う」
鬼灯は顔を歪ませ、俯いたまま小さく尾を下げた。
そして水華は泣きじゃくる荷葉の頭に触れられない手を添えた。
「荷葉。今まで有難う。大好きよ」
「っ、っ……荷葉も、水華姫のこと、大好きでございます。ずっとずっと、大好きでございまずっ」
しゃくり上げながら顔を真っ赤にして、荷葉は必死に言葉を紡ぐ。
水華はそれに笑って応える。それから繋がれた右手に左手を添えた。
まだこうして触れることができるのが不思議であり、当たり前のことのように感じた。
「山吹、ありがとう。約束まで後少しだったのに……残念」
ふわりと笑った水華の目に涙が浮かぶ。
「……もっともっと、山吹と一緒にいたかった」
浮かんだ涙が頬を伝っていく。
「もうお別れなんて、嫌だよ……」
泣き笑い。
無理矢理笑顔を作っておきながら、その両目からは涙が止まることなく零れ落ちてゆく。
無力な自分。
水華を守れなかった、自分。
せめて。
せめてこの涙を止めてやりたい――。
「……別れじゃない」
口から零れ落ちた言葉に、水華は涙に濡れた目を見開く。
「この世の命ある者は死してまた、新たな生を受ける。輪廻転生だ。前に話したろう。覚えているか?」
「りんね……てんしょう……」
水華は少し考えてから、小さく頷いた。
「水華も例外じゃない。今生の生を終えても、またこの世に生まれ落ちる」
山吹は両手で水華の手を握り締め、強い口調で言った。
「俺はまだまだ生き続ける。お前がまた生まれてくる頃もまだ生きている。……だからまた、必ず会える」
初めて聞く山吹の強い声音に、水華は何度も目を瞬かせた。
その度に涙が零れ落ちる。
「……本当に? 本当にまた生まれたら、山吹に出会える?」
「あらゆる生死を司る神々に頭を下げて回ってやる。もう一度、会わせろって」
「でも私はちゃんと山吹のこと、覚えていられるかな?」
「死んでも俺のところまで来たお前のことだ。覚えているに決まってる」
「でも……」
不安げに言い募る水華の言葉を遮るように山吹は言った。
「それでも不安なら、俺が覚えている。そしてお前が忘れていたなら、無理矢理にでも思い出させてやる」
「本当に……本当に大丈夫かな?」
「恩人殿との約束を違えるほど、俺は落ちぶれてはいない」
きっぱりと言い切った山吹に水華の涙が止む。
「……そう、だね。山吹は凄くて偉いお狐様だものね」
「そうだ」
以前は水華の『凄い』『偉い』の定義はわからないと言ったのに、今ばかりは即答する。
水華は小さく笑って山吹を見上げた。
「山吹。次に会う時までに、他の女といたら怒るからね」
「大丈夫ですっ!」
割って入ったのは、涙で声も掠れた荷葉だった。
「水華姫と山吹様がもう一度出会われる日まで、この荷葉が責任もって山吹様を監視致しますっ!」
真っ赤な、けれど強い意志を宿した瞳で水華を見上げる。
水華はそれを見て安心したように笑った。
「うん、荷葉がいてくれたら私も安心」
「荷葉がいなくても安心だろうが」
山吹が不貞腐れたように言う。
そうだね、と水華が笑う。
常と同じ光景。
終わりのための日常。
始まりのための終わり。
その終わりの気配は、もうすぐそこまで来ていた。
「ねぇ山吹。今の終わりの労いと、次への門出のお祝いに教えて」
「何だ?」
握り合った手の感触が、少しずつ不明瞭になっていくのを感じながら山吹は答えた。
水華は真っ直ぐに、悪戯好きな子供のようにその黒い瞳を山吹へ向けた。
「山吹が私を妻にしてくれると言ったのは、私が山吹の恩人だから? それとも仕方なく?」
幼子のように率直に尋ねてくる水華は、今にも散ってしまいそうな花のように儚い存在。
それなのに彼女は山吹の知る頃から変わらず気丈で、測り知れない強さがある。
山吹は軽く息を吐いて、呆れたように言った。
「……友となることで恩は返した。そして俺は、仕方なくで妻を取ろうと思うほど酔狂ではない」
素直でない、物言い。
四年の付き合いがなかったら、真っ直ぐには伝わらないような言葉だが水華は頬を弛め、言葉の代わりに重ねられた手を強く強く握った。
それは山吹が強い妖かしであるから叶ったこと。
もう彼女は他の妖かしにすら触れることもできない。
本来なら、もっと早くからそうでなければならなかった。
「……それじゃあ、山吹」
水華は顔を上げた。
その顔は晴れやかで穏やか。
「ああ」
「また、ね?」
「ああ、また」
「大好きだよ」
「……ああ」
山吹が答えると同時、水華は微笑んだまま、風にさらわれた花弁のように掻き消えた。
呆気ない、暫時の別れ。
荷葉の泣き声が山中に響き、端々で妖かしの泣き声が上がった。
白と黒は黙って頭を下げる。
山吹は空を切る手を上げ、つい先刻まであった感触を確かめるように手を握り締め、額にあてた。
――人ひとりが生まれ変わるまでの時など、妖かしにとっては瞬く間。
暫時の別れだと知っている。
また会えると知っている。
だが、何故か目頭が熱い。
あたたかな雫が、頬を伝った。
「……待っている」
百年でも千年でも、巡る四季を幾度でも数えて。
涙のように降り注いだ雨はいつの間にか上がり、黄金色の陽と薄い青の空を覗かせていた。