其の十
「こんなことは初めてだ!」
「そうだっ! 俺達は先祖代々この土地で暮らしてきたが、こんな不作の年なんて聞いたことがねぇっ!」
「それもこれも、お前のところの娘が禁足地に踏み入ってお狐様のお怒りを買ったからだ!」
日が昇る頃、吉平惟良の邸を取り囲んだ里人達は口々に叫んだ。
今年は作物の出来が例年より遥かに悪いらしい。飢饉という程ではないものの、雨量などを考えるとそれは異常だというのが彼らの言だ。
「黙らんかっ! ええい、百姓風情が国府の介である私の邸に立ち入るなど、身の程をわきまえよ! お前たち何をしておるっ! 早くこやつらを捕らえよっ!」
吉平惟良が顔を真っ赤にして下男達に怒鳴り散らし、国府にこの現状を伝えて来いと叫ぶ。
だが下男達は顔を見合わせるだけで動こうとしない。
それが更に惟良の怒りを煽る。
「どうしたっ! お前達も処分されたいかっ!」
怒りに肩を震わす惟良に里人の一人が進み出た。
「国府には既に里長から話を通してある。今年の不作はお山のお狐様のお怒り故。それがあんたのところの娘が禁を破ってお山へ立ち入ったせいだと国府の偉方も納得してくれた。国府の守様が直々にお言葉を下すった。俺達にあんたん所の姫さんをお狐様のお怒りを解くための贄にしろとなぁ」
「何を馬鹿なっ!」
守は惟良の役職、介の上役。国府の最高責任者だ。
惟良がこの国へ国司として赴任してきて四年。それ以来、守との友好的とは到底言い難い関係であることは周知の事実だ。守を務める者も惟良も互いに左遷同然にこの地にやられ、それぞれがいずれは京に戻り、少しでもその権威を取り戻そうとしている。
それが先日の除目で藤原家に縁ある家の子息が国府へ赴任してきた。いずれは京の内裏でより高い地位に昇るであろう者が。
その男が惟良の二の君である水華を気にかけているらしいという噂はすぐさま広まった。
未だ裳着を済ませず、御簾の内に籠ることのない水華はその姿を隠すことをしない。はしたない、と言ってもいいその振る舞いが物珍しくもあったのだろう。
光の下でその麗しく整った容貌を見た子息は、水華との関係を惟良に打診した。
惟良は惟良で、これを好機とばかりに水華を男の側室にして京に返り咲くつもりでいた。
だが男はまだ四年この地にいなくてはならない。京に帰る頃、万が一にも水華に飽きてしまっていたら水華は捨てられ、それは惟良自身も藤原家との縁を断ち切られることになるやもしれない。
惟良は今後の自分の身分の安泰のため、水華に裳着を済ませさせる、歌のやり取りを、などと言って先延ばしに先延ばしにとしてきた。
それを惟良を厭う守が放っておくわけがないことも忘れてしまえるほど、惟良は舞い上がっていた。
それら全ては水華の知り得ぬところで起きた事。
水華を権威を取り戻すための道具として扱う父。
水華を妻にと望んだ良家の子息。
そしてその水華を目障りだと思った惟良の上役。
守は今年は不作で税を納めることが厳しいとの里人達からの訴えを、これ幸いとうまく扱うことを思いついた。
惟良の姫が山へ詣でていることは、以前から知っていた。
そして里人達の山に住むという土地神への信仰心の厚さも。
それをうまく利用した。
憤る里人達に、『お山のお狐様の怒りを買った姫がいる』と言って。
そうして里人達の怒りは水華へと向けられた。
「ひぃっ……! 誰か、姫様をお守りしてっ!」
「姫様っ! お逃げください!」
侍女達が悲鳴のような声で水華を逃がそうとする。
だが、それも幾つもの乱暴な足音によってかき消された。
水華は夜着のまま、ゆっくりと顔を上げた。
そこには水華が纏う夜着よりもずっと粗末な衣を着た、怒気に顔を歪ませた里人達。
数人の男達が不気味な程に落ち着き払ってその場に座した水華を強引に立たせる。
「無礼者っ! 姫様を離しなされ!」
「このような振る舞い、許されると思うたか!」
「うるさいっ! この娘のせいでお狐様がお怒りになったんだ!」
「この女が神聖なお山を汚したから、お狐様はお怒りになって我らにまで罰を下された!」
里人達の怒声に、侍女達が小さく悲鳴を上げて身を竦ませる。
「……そなた達は下がっていなさい」
場にそぐわない、水を打つような静かな水華の声が侍女達へとかかった。
その声の主、水華は無表情に里人達を見渡した。
「貴方達の目的は私でしょう? なれば、この者達への手出しは無用」
その凪いだような瞳に里人達は一瞬気圧されるが、強引に水華を邸から引きずり出した。
そして後には無力な側仕えの者達と惟良の悲鳴が残った。
お狐様を祀る祠の前に、その年に収穫された作物を供えることが奉納祭の一環だった。
だが今年供物として捧げられたのは作物ではなかった。
日の昇った空の下、丸太に縄で幾重にも拘束された人の娘。
裸足に白い単衣のままの、吉平惟良の二の君。禁足地に何度となく足を踏み入れた、不遜な娘。
丸太の周囲には枯れ葉や藁が積まれている。その後ろには里中の者達が祠を拝んだり、土地神への許しを乞うたりしている。
腕一本動かせない水華は、感情のこもらない瞳を足下へと向けていた。不気味な姫は拘束する時ですら無抵抗だった。
やがて壮年の男が祠の前へと歩み出て、両手両膝をついた。
「お狐様の地を汚したこの娘は、御供物としてお狐様へ捧げます。ですからどうか! どうかお怒りをお収め下さい!」
他の里人達もそれに倣って頭を下げる。
お怒りをお解き下さい……という声が、嗚咽交じりに聞こえてくる。
やがて祠の前へ進み出た男が立ち上がり、後ろへ控えた里人達に目配せする。
それを受けた里人達は手に持った炎の燃え盛る松明を、水華の足元の枯れ葉や藁へと近づける。
これだけの枯れ葉に一度火が点けば、そう時間を置かずに水華は焼け死ぬ。
それが里人達の言う御供物。
ぱちぱちと火が爆ぜる。
水華はその音を、人形のように身じろぎ一つせずに聞いていた。これから起こることなど興味がない、そう言わんばかりに。
そして水華がゆっくりと目を閉じかけた時。
「待て」
決して大きな声を上げたわけではないのに、その声は怒気に呑まれた中によく響いた。
松明を持った男達を始め、その場にいた誰もがその声のほうへと振り返った。
そこには縹色の狩衣を纏った十五、六歳程の少年がいつからか立っていた。
整った涼しげな容貌に、不思議な威圧感。
「な、何だ。小僧……」
屈強な男が何とかそれだけを言うが、少年の目が向けられた瞬間、身を竦ませる。
この少年は人ではない。その場にいる誰もが直感した。
その雰囲気が、姿が、空気が。
人とは違う者だと知らせる。
全く別格の存在。
そのうちに老人の一人がひれ伏した。
「お狐様っ……!」
その声はざわめきを呼び、「お狐様」「お狐様」と繰り返しながら里人達は恐れ戦き平伏していく。
水華はゆっくりと顔を上げ、少年の名を口にした。
「……山吹」
山吹はそれには応えず、朗々と響く声で告げた。
「怒りを収めよと言ったが、誰が何に怒りを覚えていると言った?」
その声は空気を震わせる。
「誰が贄を捧げよなどと言った?」
里人達は皆震え、顔を上げることすら出来ない。
山吹の声には不思議な威圧感があった。
「……俺が怒りを覚えているとすれば一つ。この状況だ」
ぽっと音がして、山吹の周りに幾つもの煌々とした狐火が浮かび上がる。
それは水華も今まで見たこともないほどに数多くの強い炎。
狐火は強く燃え、空を夕暮れ時より濃い赤に見せた。
里人達の悲鳴が上がる。
「不作は誰の責にもあらず。これまでの豊作は奇跡のようなものだった。それもひとえにそなたたちの努力が実ったから。……今年はどこの国でも天候が悪く、飢饉に襲われた国も少なくないと聞く。この国はまだ良いほうだ」
「で、ですがこの娘はお狐様の地へとみだりに……」
恐る恐る言葉を発した男を、山吹は冷たく睨めつける。
「この者は俺の命を救った恩人だ。真にそなたらが俺を敬うのであれば、恨むのはお門違いだ」
そう言い放って山吹はゆっくりと里人達の間をすり抜け、水華の前まで歩いて行った。
山吹は水華を見上げ、そして抑揚のない小さな声で呟いた。
「……そもそも、この娘ではそなたらの言う供物にはなり得ない」
「え?」
里人達が疑問を投げかける間もなく、狐火がより一層強く燃え盛った。
再び里人達の悲鳴が上がる。
「……国府の者共に伝えよ。そなたらが所業、全て伝わっている。山の狐の怒りを買うは誰ぞ? と」
一瞬振り返った山吹の瞳は冷たく一切の表情なく、見た者全てを委縮させた。
誰もが凍りつき、指の先すら動かせない。
「わかったらば、早々にこの場から立ち去れ。これ以上山の狐の不興を買いたい者のみこの場に残るがいい」
凛としたよく響く、人ならざる者の声。
里人達は悲鳴を上げ、一人残らず逃げるようにその場を走り去った。
真の『お狐様の怒り』を前にして残ったのは、囚われた水華一人となった。
狐火がゆらゆらと揺れ、水華の周りを蝶のように舞う。
「山吹……」
どこか虚ろな目をした水華を見上げ、山吹は彼女を縛りつける縄に触れた。縄は音も立てずに千切れ、彼女を解放した。
そのまま座り込んでしまった水華を両腕で幼子にするように抱き上げ、山吹は目を閉じる。 単衣の上からも、その身の冷たさが伝わってくる。
「……莫迦が」
絞り出すような声に、水華はゆっくりと乾いた唇を開いた。
「莫迦、かなぁ?」
「莫迦だ」
水華は山吹の顔を覗こうとするが、伏せられ髪に隠された表情は窺えない。
「三国一の大莫迦だ」
「……酷いなぁ」
微かに水華が笑う。
それでも山吹は顔を伏せている。
水華はそれとじっと見つめ、しばらくして狩衣を握りしめた。
「ああ……そっか。私、莫迦かぁ」
そう言って水華は笑う。
柔らかに。
花のように。
その柔らかな頬を、一筋の涙が伝った。
「本当、莫迦だねぇ……私」
もう山吹は何も言わなかった。
水華は縹色の狩衣を握り締め、声を上げずに泣いた。
何度となく、謝りながら。