其の九
朝、目覚めて一番に山を望むことが日課になったのは四年前のこと。
長く黒い髪を日に日に冷たくなっていく風に撫ぜられながら、今日も自らが信じるたった一人の神へ祈る。
豊穣の神、或いは土地神と崇められる彼に祈るには、少々見当違いな願いを祈る。
本当は知っているから。
この願いを叶えられるのは神じゃない。
彼と自分しかいないということを――。
「お早う。何だか険悪?」
水華は山へ着くなり白に近寄って尋ねた。すると白はどこか困ったような表情を浮かべる。
「ええ、昨夜少々山吹様と荷葉殿との間に口論がございまして……」
荷葉は水華の姿を認めるなり、走り寄ってきて無言でその衣にしがみついた。
その様は「拗ねた子供」というのがぴったりだ。
「山吹は?」
荷葉の背を撫でながら尋ねると、黒が現れ答えた。
「つい先程起きられた。直にお越しになるだろう」
「あ、黒もお早う」
「お早う。荷葉、お前もいつまでそのように姫に貼りついている。迷惑であろう」
だが荷葉はぶんぶんと衣を握り締めた手を離さずに首を横に振るばかりだ。
水華は黒と白を見た。
「山吹もこんな感じなの?」
「いえ、山吹様は通常通りかと」
「流石に子供との口論を翌日まで持ち越される方ではない」
黒がそう言ってしばらく、山吹が姿を現した。
涼しげに整ったその姿が目に入るなり、水華は頬を紅潮させて顔を綻ばせる。
「山吹! お早う」
明るい声を上げ軽く手を振ろうとした瞬間、衣を掴んでいた手が放された。
水華が荷葉を見ると、荷葉は俯きながら後ろ手に手を組んでいた。
山吹のもとへ行ってもいい、という意味なのだろうか?
水華は少し迷ってから荷葉の頭を撫で、山吹のもとへと小走りに向かった。
「お早う」
「ああ、お早う」
鉄面皮がほんの少し和らぐのを見て、水華は更に笑みを深める。
その笑みには一点の曇りもない。
それを見て、山吹は僅かに安堵した。今日も彼女は変わらない。
そんな山吹の心情など全く知らず、水華は音量を落として山吹に囁いた。
「山吹、荷葉のこと怒ってる?」
水華は微かに視線を少し離れた場所で不貞腐れた顔をしている荷葉に向けた。
まだ昨夜のことを引きずっているのか、と山吹は小さく息を吐く。
「俺は最初から怒っていない」
口にこそしないが、昨夜の荷葉の言はもっともだとすら思う。
山吹がもう少し若く、もう少し責を負わずにすむ立場だったなら何も考えずにあの晩、水華がやってきた晩に彼女を邸へ帰そうとはしなかったかもしれない。
四年。
妖かしとして生きる身には短い時間だ。
だが水華がこの山へ来るようになってからの四年はそれまで過ごした時とは違った。
人の時の流れと同じように感じるのか、密度の濃い時だったように思う。
毎日劇的な出来事があったわけではない。だがいつ思い出しても温かな気持ちになる、そんな小さな宝のような日々を送ってきた。
そしてその日々には必ず水華がいた。
「山吹?」
水華はためらいがちにその名を呼んだ。
山吹は軽く首を左右に振った。
「……意見の食い違いがあっただけだ。気にするな」
山吹は水華の頭に手を置いて、近くに控えた妖かしに咽が渇いたから水を持ってくるよう告げた。
「水華は?」
「私も欲しい」
水華が嬉しそうに言うと、小さな妖かしは頭を下げて小走りに下がっていった。
「山の湧水は麓よりも美味しいのよね」
「そうか?」
「うん。冷たいし、美味しいの」
山吹の記憶にある、十歳の子供の頃の笑顔そのままに水華は言った。
それからくるりと回り、荷葉へと向きなおった。
「荷葉! 荷葉も一緒に飲もう? 私、邸から柿をたくさん持ってきちゃったんだ」
荷葉は戸惑うように山吹と水華の顔を見比べていたものの首を縦に振り、水華の側までやってきた。そしてまた、まるで隠れるようにして水華の衣にしがみついた。
水華はその背を撫でながら、持ってきたという包みを山吹に渡した。
山吹が包みを開けると食べ頃らしくよく熟れた柿の実に、干した杏などが出てきた。
水華はこうして時折、邸から食物を持ち出してきては山吹や他の妖かしにも分け与えるので、他の妖かし達もひそかにそれを楽しみにしている
「美味しい?」
水華の膝に座って黙々と柿を食べていた荷葉は、こくりと頷いた。
「そう。よかった。邸の庭でなったものだけれど、今年はなかなかの出来栄えだったから持って来てみたの」
言いながら水華は荷葉の頭を撫でる。そうして自分も干し杏をかじった。
美味しそうに口元を弛ませる水華を見て、荷葉は複雑そうに顔を歪めた。まだ邸で水華がよくない目に遭っているのではと気にしているのだろう。
だが水華はそのような素振りは微塵も見せない。
それがまだ幼い荷葉を余計に困惑させるのだろう。
やはり全ては杞憂であるのかもしれない。だが他者の前で弱音を吐くことを厭う水華は、果たして辛い思いをしていたとしてもそれを表に出すだろうか、と。
山吹も干し杏をかじりながら、そう思った。
「……山吹様」
隣を見ると、水華の膝の上から荷葉が両手で柿を一つ差し出していた。
「とても美味しいです……ですから、山吹様に差し上げます」
俯きがちな様子からすると、まだ昨夜の山吹の態度に納得がいったわけではないようだがこれも一応彼女なりの和解の申し出なのだろう。
山吹は片手でその柿の実を受け取った。
「有難う」
荷葉は少しだけ顔を上げ、山吹を見た。
すぐにまた俯いてしまったが、小さく「はい」と言って。
それを見ていた水華はにこにこと山吹を見ていた。口にこそ出さないものの、「よかったね」と今にも言い出しそうな笑みを浮かべて。
山吹は何だかきまり悪く、瓶子からそのまま水を口に含んだ。
その様子を見て、水華が白と黒と顔を見合わせ笑い合う気配を感じながら。
そんな平穏な一日も終わりが近づく頃。案の定、今日も水華は帰るのを渋った。それを山吹に一蹴され、本当に渋々という形で帰路につこうと祠の向こうへと足を踏み出した水華は突然振り返った。
「そう言えば山吹。山吹を祀る奉納祭、今年は少し遅れるみたい」
「そうなのか?」
里で行われる奉納祭は毎年だいたい同じ時期に行われる。
山吹がこの山に来て以来、確かほとんど変わったことはなかったと記憶している。
「少し噂で聞いたくらいだから詳しいことはわからないけれど、何かわかったらまた言うね」
そう言って水華は笑った。
「それじゃあまた明日ね、山吹」
「ああ、明日」
狐火を従えながら、水華は何度も何度も振り返りながら邸への道を辿っていく。
山吹はその姿が見えなくなるまで、そこにいた。
茜色の空に、影を落とす雲。
涼やかに奏でられる虫の音。
冷たくなりゆく秋風。
どこか寂しい秋の空気を感じながら。
お山のお狐様と呼ばれるようになってどれほどの時が経ったのか、正確にはわからない。だが里人たちが、お山のお狐様のおかげで不作知らずと喜んでいるのは知っている。
だが当の『お山のお狐様』は特にこれといって手を下したりはしていない。作物の出来の良し悪しも、天候も、里人達の様子もただ見守るだけ。
全ては人の行い。
そして運。
だから豊作だったのならば奉納祭とは『お狐様』へと感謝するのではなく、苦労を厭わず働いた人々が自らを褒め、翌年もまた頑張ろうと鼓舞し合う無礼講のようなものでいい。ただ自分が『お山のお狐様』として存在することで少しでも人の助けになるのなら、それはそれで悪くないと思う。
人の世にどれだけ介入するかは妖かしそれぞれの判断に委ねられている。
山吹はその中でほとんど人には接しない。
人が妖かしの力に頼りすぎては、自らの力で努力することを忘れてしまうと思うからだ。それ故、山吹が里のことで直接手を下すのは、里へ侵入してきて悪事を働く妖かし、過ぎた行いをし、罪を犯す者に対してなどだ。
それすらも土地神として妖かしの間で名をはせた山吹の支配下に立ち入る妖かしも減った昨今では久しくないことだが。
その日は夜明け前から、空気張りつめていた。
高く澄み渡った空には雲ひとつない。
秋らしい柔らかな陽光が射している。
それなのに何故、こんなにも空気が震え、淀んでいるのか。
「……里で何かあったのか?」
空気は直に人の感情を伝えてくる。
山吹は里を見下ろせる場所に向かった。森の開けたその場所からは、辺り一帯の里が一望できる。
今日は水華も来ていない。
今までも毎日水華は来ていたわけではないのに、今日に限っては妙に胸がざわつく。
山から見える里では、奉納祭の賑わいとはまるで違った声が微かに聞こえてきた。更に向こうの国府は奇妙な静けさ。それは異様と言ってもいい。
山吹は里を見据えたまま、上空に控えた黒に命じた。
「……黒。里を見てこい」
「承知致した」
力強い羽音と共に、黒は空へと飛びゆく。
「山吹様……」
荷葉が不安げに白と共に立っていた。
震える荷葉の隣で白が低く告げた。
「今朝方から国府と里で、妙な騒ぎが起きているようです」
「妙な?」
山吹の声に白は頷く。そして荷葉へと視線を向けた。
荷葉は不安げな面持ちで、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「声が……聞こえてきます」
荷葉の瞳が不思議な色に揺れた。
「山のお狐様がお怒り……不作の原因は、介の娘……御供物に……」
ぽつりぽつりと、遠くから聞こえる言葉をそのまま口にのせる。
伝わってくる言葉と感情に支配され、今の荷葉には自身の意識がない。それ故、どのような言葉もそのままの言葉として伝えられる。
山吹の表情が強張る。
「……吉平惟良の二の君を……お狐様に捧げ……お狐様のお怒りをお鎮め……お山に立ち入る不遜な姫を捧げよ……。吉平惟良……邪魔……あの姫がいては……奴なぞが京へ戻るやも……腹立たしい……始末、しなければ……」
それは誰の言葉なのか、言葉を紡ぐ荷葉にもそれを聞く山吹にも白にもわからない。
だがそこまで聞いた山吹は狐の姿のまま走り出した。
「山吹様っ!」
白の声も背に聞きながらまっすぐに里へと、この痛む空気の中心へと走った。
――それじゃあまた明日ね、山吹。
――ああ、明日。
つい昨日、そんな言葉を交わした蓮の花の名の娘を思いながら、がむしゃらに。




