9.ストーカー兄貴の忠告
あれから、数週間の時間が経った。四月も終わりに近付き、初夏の陽気さえ感じさせる。
米斗はいつものように七時五十分きっかりに家を出るべく、身支度を整えていた。玄関で靴紐を結んでいると、背後から何者かが近付いてきた。
「ほひ、ふぁふぁはふふほふひはっへふほは?」
相も変わらず、翻訳不能な言語を放ってくる。振り返ると、食パンに齧りつきながらネクタイを締めている兄、北斗の姿が。
「『おい、まだ有栖と付き合ってるのか?』って?」
「そうだ」
血の繋がった兄弟の発する解読不可能な言語をものの見事に翻訳してみせる。食パンを飲み下し、北斗は頷いた。
「もういい加減、止めとけ。あの娘と一緒にいたって、不幸にしちまうだけだ」
「何で、そんなにはっきりと断定されなくちゃいけないんだよ」
「だってお前、物事に対して無関心だし。絶対、一緒にいてもつまんないって思われてるって! ふられて捨てられる前に、さっさとこっちから縁を切っちまった方が楽だぞ」
二人の関係を知った数週間前から、北斗はずっとこの調子だ。やたらと米斗たちの仲を裂こうと、首を突っ込んでくる。
その理由が、本当に弟を心配してなのか、学校へ行くたびに生徒に浴びせられる第一声が「失恋変態教師」とか「弟と半径千メートル離れてしまったために気が狂ってしまったイカレ男」であることにショックを受けているからなのかは、定かではない。
「千具良は、俺の無関心さが好きだって言ってくれてるんだよ」
「それなんだよなあ。あの娘は、そんな変わった嗜好の娘じゃないと思うんだけどな。お前、絶対騙されてるんだよ、女子の間で流行ってるんじゃないのか? この娘がこの男を落とせたらン万円とか」
「それでもいいよ、別に。千具良は俺に付き合ってくれって言った、俺はそれを了承した。だから千具良が俺と別れるって言うまで、俺はあいつの彼氏を続けるんだ。余計な理屈は必要ない」
「何て純粋一途で、悩みのない奴なんだ。弟ながら感動していいのか、呆れるべきなのか」
北斗は大袈裟に頭を抱えて煩悶していたが、米斗は何も反応せずに無視した。
「もう出るのか、米斗。彼女さんと待ち合わせか」
北斗の後ろから顔を出したのは、二人の父親、落合 昌斗だ。すっかり侘しくなってしまった頭のてっぺんに、無駄と分かっていてもやめられない育毛剤を、必死で塗りつけている。頭皮はニスを塗ったみたいにテカテカだ。
「親父も、何とか言ってやってくれよ! こいつには恋愛なんて無理だって」
「米斗、彼女さんは何て名前だ?」
「有栖千具良」
「おい親父!」
北斗の話は、とことん無視。父親は米斗に笑いかける。
「千具良さんか。また家にでも連れてきなさい。男ばっかりで辛気臭い家だがね」
「……うん、また。じゃあ行ってきます」
米斗は家を後にした。
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閉められた玄関を見つめながら、北斗は憤りを隠せない。
「北斗。米斗はちゃんと、自分の道を進んでいるんだよ。お前にはいつもあの子の世話を任せっきりだったから、言えた義理ではないが、もう放っておいてもいいんじゃないだろうか?」
父親のかけた優しい言葉を、北斗は跳ね返した。
「親父は分かっていないんだ、あいつは異質なんだよ。普通の人間と同じようになんて、暮らせるものか! 何かとんでもない事態が起こってしまう前に、止めなくちゃいけない。だから俺はこうやって……」
「お前は心配し過ぎだ。お前が米斗を世話し始めてから、一度でも米斗が大きな問題を起こしたか? 米斗は立派になった。お前の教育の賜物だ。だからいい加減、お前も自分自身の幸せについて、真面目に考えたらどうだ」
「俺の心配なんて、必要ないんだよ。とにかく、あいつの日常が平穏であることが、何よりも大切なんだ。俺の人生なんて、二の次でいい」
「父さんには、米斗よりお前のほうが異質に見えるよ。お前は弟を見守る使命があるから、自分のことは何もできなくていいと、思い込んでいるだけじゃないのか。いつまでもそんな体たらくじゃ、天国の母さんが安心できないぞ」
その言葉を聞いて、北斗は胸の奥に鈍痛を覚えた。それは図星だったからか、それとも、父親にそんな風に思われていたことにショックを受けたからなのか。
両方かもしれないし、どちらでもないのかもしれない。北斗には原因を特定できなかった。
とにかく、胸が締め付けられた。それだけが真実だ。
「そんなつもりは……」
「そう、そんな筈はない。お前には、お前にしか歩めない人生があるんだ。米斗のことは気にせずに、真面目に働いて、いい嫁さんを見つけて、幸せになってこの家を守ってくれれば、それでいい。それ以上のことを、父さんは望んではいないよ。おっと、もう出勤時間だ。お前も遅刻せんように行けよ」
父親はマイペースに家を出た。残された北斗は玄関に立ち尽くし、しばらく動けなかった。
「思い込み、か……」
そう思われても仕方のない行動は、とってきたのかもしれない。だが、「天国の母さんが安心できる」という観点から見れば、自分のしている努力は無駄でも間違いでもない。そう思えるのだった。
「悪いけど、もう少し俺は粘るよ」
北斗の目が決意に輝いた。
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いつもの通学路。交差点を右折したその向こうで、いつものように千具良が待っていた。米斗が近づくと、それに気付いて笑顔で手を振ってくる。
今日は千具良の隣に、先客がいた。同じ学校の女子生徒だ。整った美しい顔つきで、黒い髪は長く、要所要所で邪魔にならないようにまっすぐ水平に切りそろえてある。なんだか不思議な雰囲気を醸し出す少女だった。
「おはよう、米斗くん。あのね、この子、私の友達の吉香ちゃんって言うの。米斗くんを、私に紹介してくれたのも、この子なんだ」
「紹介?」
米斗は首を傾けた。もともと他の生徒には関心がない米斗だ、あのやかましいクラスメイト以外とは、たいした付き合いもないし、ましてや女子で、そこまで米斗について詳しい奴はいないはずだ。
女子生徒は控えめな微笑を見せ、手を差し出してきた。
「三組の真島吉香よ。初めまして」
米斗はその手をとり、握手を交わした。
「初めまして……ってことは、やっぱり、一度も会ったことないよな?」
「ええ。でも、あなたの評判は嫌でも耳に入ってくるからね。学校一、いえ、世界一の無関心男。すさまじい平常心の持ち主だって。千具良がもっと平常心を鍛えて強い心を持ちたいってずっと言っていたから、あなたはどう? って薦めてあげたの。それだけ」
「ああ、成る程」
納得して米斗は頷いた。別にこの少女に腹黒めいたものは感じられない。一瞬、北斗が今朝言った話を思い出したが、それもただの兄の妄想だろうと、容易に受け流せた。
「いざ薦めてみたものの、私はあなたについて何も知らないし、この子の話を聞いているだけじゃ具体的な印象が浮かんでこないから、ぜひ一度会って話してみたいなって思ったの」
「ふーん。で、会ってみて、印象は掴めたのか?」
「ええ、千具良の言っていた特徴そのまんまって感じで、安心したわ。でも、いまいちその平常心が千具良には反映されていないみたいね」
「そりゃ……個人差があるだろう」
色々な出来事があってすっかり忘れていたが、千具良に平常心の鍛え方を聞かれて、その根本的な原因の追究を、すっかり忘れていた。次に北斗と顔を付き合わせたときには有無を言わさず、力ずくでも聞き出さなくては。
「頑張ってね。あなたの努力次第で、この世界の命運は大きく変わるかもしれないわ」
「世界……?」
ずいぶんと、でかい口を叩いて、吉香は颯爽と去っていった。
「何だ、いったい」
「吉香ちゃん、ちょっと変わってるから。私たちも早く学校行こう、遅刻しちゃうよ!」
千具良に急かされて、米斗はそれもそうだ、と学校へ向けて歩き出した。