3.千具良の涙
誰かに呼ばれた気がして、米斗は振り返った。だが特に知った顔は辺りには見当たらず、空耳だろう、とあっさり断定した。
「どうしたの? 米斗くん」
米斗の隣で、その行動を不思議がり、可愛い仕草で首を傾ける小柄な少女がいた。
有栖千具良、十六歳。米斗と同じ高二で、米斗の隣のクラスに籍を置いている。
昨日、千具良に告白された。米斗はOKを出し、二人は付き合い始めた。いつもより早く家を出た理由も、一緒に登校する約束をしたからだ。
小動物みたいに小刻みな動きが可愛いが、控えめで大人しく、目立たないので地味な印象を持たれやすい少女だ。
それが、いくらか千具良と会話をしてみて、米斗が感じた第一印象だった。
「何でもない」
簡潔に返答し、米斗は千具良の手を握って、また歩き出す。最初は米斗の行動に戸惑っていた千具良も、だんだん気にならなくなってきたのか、表情を笑顔に戻して米斗の隣を歩く。
移動中は意外と気がつかないものだが、数十秒ごとに連発して、地面が振動していると、米斗は気付いていた。ほんの震度1、2弱、建物の中でじっとしていても気付かない人は気付かない、些細な揺れだ。
最近、やたらと群発している揺れが、近いうちに大災害を引き起こすかもしれないと、朝のニュースで言っていた。町の自治体や役場では、ちょっとした騒ぎになっているらしい。
もちろん、そんな自然運動の一環なんて、米斗にはさほど興味はなかった。
地震や台風、火山噴火などで引き起こされる『災害』と呼べるものは、人間の住んでいる土地で起こるから『災害』なのであって、誰もいない無人島や海の上で起こったって、ただの地球の営みに過ぎない。
その程度の出来事に慌ててジタバタするなんて、地球で暮らす生物として馬鹿馬鹿しい。そういった思考を持って、米斗はこの世界で生きていた。
面倒くさいし、理解もしてもらえないので、そういった考えを誰かに話したためしはないが。だから、この先も、誰にも話さないだろう。家族にも、友人にも、並んで歩いている彼女にも。
「あの、米斗くん。今日ね、早起きしてお弁当作ってきたの。よかったら、食べてくれるかな……?」
恥ずかしそうに、千具良が口を開いた。
ズシン、少し大きめの余震が、立て付けの悪い弁当屋の看板をぐらつかせた。
気にも懸けず、米斗は頷いた。
「ああ、飯代が浮くしな。食べるよ」
「本当? よかった!」
千具良が笑うと、米斗は何だか不思議な気持ちになる。まるで行きつけのペットショップで、売れ残って隠居生活を送っているウサギのミッピーに笑いかけてもらえているみたいな、何とも微笑ましい気分を感じられる。実に和やかだと、米斗は思った。
「嬉しいな、誰かに喜んでもらえるって。米斗くん、すごくいい人だし、まだ付き合い始めて一日も経ってないけど、すごく楽しくて、楽しいのに……」
千具良は笑っていた。笑っていたけど、目尻に涙が浮かんでいた。立ち止まって米斗の手を離し、頬を伝う涙を拭い始める。だが止まる気配はなく、努力も空しく手と頬だけが、冷たく濡れていく。
ハンカチを持っていない米斗は、制服のブレザーの下に着ているセーターの袖で、千具良の目尻を拭ってあげた。
「ご、ごめんなさい、何だか急に、涙が止まらなくて……」
「悩み事か?」
単調に訊ねる。千具良は返答を沈黙で返し、俯いた。
「俺には言えない悩みか」
千具良は、小さく頷いた。そして消え入る声で言った。
「今は……ごめんなさい。」
彼女に悩みを打ち明けてもらえない彼氏と言うのも、何だか空しいものだが。
まだ付き合い始めたばかりだし、米斗は気にしていなかった。たとえ付き合い始めて何年経っても同じ状態だとしても、米斗は気にしないだろう。
「いいさ。でも、話してもらえないなら、俺は何もしてやれない。千具良が泣き止むまで待って遅刻するか、泣かせたまま学校へ連れて行くか、それくらいしか」
米斗の話を聞くと、千具良は魔法の呪文でも聞いたみたいに、ぴたりと泣き止んだ。このまま泣きじゃくった状態で登校なんてしたら、一緒に歩いている米斗が白い目で見られると、瞬時に理解したのだろう。
まだ目尻は赤いが、嗚咽も止まり、冷静に振舞えるくらいに回復した。
「……ありがとう。米斗くんは、本当に平常心が強いんだね」
「そうかな。でも彼女が泣いていても、慰めの言葉ひとつ掛けられないなんて、普通の人間としては駄目なんだろうな」
「そんなことないよ! 私は羨ましいな。私もそんな、何事にも動じない心があれば、もっと素直になれたのにって、そう思うもの」
意気込んで、千具良は続けた。
「だから、私にも教えてくれないかな? どうすれば、平常心を保てる人間になれるのか。米斗くんの前では、何でも言えるようになりたいから、嘘なんて、吐きたくないから」
真剣に訴えてくる千具良の強い眼差しに、珍しく米斗は困った。