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28.最後の決断

 米斗はこの時、初めて思った。


 兄貴の背中は、とても大きい。


 と言っても面積じゃなくて、その器というか、存在そのものが。


 いつも心配しながら自分の後を追いかけてきていただけの兄。その姿を振り返る時はあっても、堂々と背中を見る機会なんて、一度もなかった。どちらかと言うと自分が見られる側だと思っていたから、大して気にも留めていなかった。


 特に何も感じない無関心な生活を続ける中でも、ふと辺りを見れば北斗がいた。無意識ながらに、とても安心していたのだと、改めて感じた。急に周りが物寂しくなった気がして、なんともいえない閑散感が辺りに漂っている。


「兄貴の人生を滅茶苦茶にしたのは、俺じゃないか」


 夜中によく、父親と北斗が言い合っている時があった。親としては、もう二十代後半にさしかかった息子を心配して、早く結婚しろとか、まともな人生を送れと伝えたかったのだろうけど、北斗のそれに対する返事には、どこか引っ掛かりがあって、進もうにも前へ進めない、と言ったぎこちなさがあったように思える。それは今思えば、米斗の存在が足枷になっていたのだろう。


 何も気付けなかったことを、酷く反省する。


 しかし、今の北斗の言葉で、邪魔だった足枷は一気に断ち切れた感じがした。きっと北斗は、自分なりにけじめをつけるられたのだろう。米斗が真実を知ったことで北斗が解放されたのなら、これほどに喜ばしい話はない。


 ふと、畳に張り付けていた手に、暖かいものが覆い被さった。


 白い、小さな、細くて暖かい手。千具良の掌が、米斗の手の甲を包んでいた。


 と言っても千具良はまだ寝息を立てている。泥だらけになっていた制服は吉香によって着替えさせられ、白い浴衣を着ていた。掛け布団を蹴り飛ばし、寝返りを打ち、身体は九十度旋回して、頭が米斗の背中のすぐ後ろにきている。意外と寝相が悪いのだなと思った。


 向き直って千具良の手を握り返した。寝顔はとても気持ち良さそうで、普段の悩みや苦痛なんて微塵も感じさせなかった。


 せめて夢を見ている間だけでも、楽しい気分になれれば。一時の幸せくらい夢見たって、誰も文句は言わないだろう。


「むにゃ。身体を鍛えるにはしょうが汁でアメンボが泳いで電子レンジにアイスクリームを……」


 寝言だろうか。支離滅裂なところがなんとも千具良らしい。いったい、どんな夢を見ているのやら。


「クジラが空を飛んだらとりあえずツルを食べてバナナを地面に植えるとアナコンダがニョキニョキと……」


「ほう……なるほど」


 何がなるほどなのか分からないが、妙な説明寝言を納得しながら冷静に聞いていた。


 そのテンポある淡々とした口調が、説得力を持たせるのに一役買っているみたいだ。


「――強くなるから。誰よりも強くなって、平常心を鍛えて、誰にも迷惑かけないようにするから……一人にしないで」


「…………」


 寝言の内容が、突然反転した。確信に一番近そうな、はっきりした台詞。千具良の本音なのか。顰められた眉がピクリと動く。楽しい夢が、急に悪夢に変わってしまったのかもしれない。


「千具良……」


 一人じゃないさ。みんないるから。迷惑かけたって、強くなくたって、みんな側にいてくれる。そんなに不安がることはない、心配しなくていいんだ。


 だって、みんな千具良を守ろうと必死だ。戸呂音だって吉香だって、千具良を助けようと頑張っている。

 だから、俺も頑張ろうと思う。千具良が幸せに暮らせるように。


 心の中で語りかけ、千具良の額をそっと撫でた。


「うりゃあ、袴田流・骨砕正拳突き!」


 空いていた千具良の手が、米斗の顔面にめり込む。


「げふうっ」


 見事なストレートパンチが決まり、米斗は仰向けに倒れた。顔を抑え、痛みを堪えながらも、冷静に心に誓った。


 寝ている千具良には、決して近付いてはならない、と。


☆彡 ☆彡 ☆彡


 日の出を拝みながら、北斗はタバコに火を付けた。普段は米斗が興味を持たないようにと隠れて吸っていたが、意外と徒労であったことは前々から気付いていたので、ここ最近は人目を気にせず堂々と吸っている。身体に悪いから止める、と言う考えは持っていない。


 吐き出した煙が空に溶ける。朝ぼらけが、こんなにも綺麗に見えるなんて、初めてかもしれない。きっと、この場所の地理条件が良いからなのだろう。緑が多くて、空気が澄んでいる。密集住宅街よりも肌寒さを感じるが、今の時期は、それくらいが丁度いい。


 新鮮な空気の中、薄明るい世界に一人で立ち尽くし、北斗は徒然と考えていた。


 さて、これから何をしよう。


 米斗の喜怒哀楽がいまいち欠如しているのと同じように、北斗には自分自身のための行動力、というものが欠落している。ずっと米斗から目を離さぬよう、米斗を生活の中心に置いてきた後遺症だ。どちらにしても原因は明らかに北斗なのだが、今更、己を責めたところで、何も変わらない。


「あいつだって、一歩踏み出したんだ。俺も負けてらんねぇな」


 真面目に仕事に没頭して、頭を真っ白にしてみるのもいい。それとも転職、引っ越しでもして、新しい町で気楽に過ごすか。


 親父が言っていたな。早く嫁さんもらえって。もうこんな歳になってしまってから言うのもなんだが、恋をしてみるのもいいかもしれない。相手がいれば、の話だが。


「あら、北斗さん。お目覚めになられましたか?」


 後ろから落ち着いた澄んだ高い声。振り返れば予想通り、この裏庭の主である戸呂音が立っていた。


「吉香さんが誤って轢いてしまったそうで。その節は申し訳ありませんでした」


「あ、いや……」


 戸呂音がゆっくり丁寧に頭を下げる。その優雅で滑らかな身体の動きが、何だか清楚で上品で、彼女に対して染み込んでいた先入観が根底から覆えりそうだった。


 よく考えてみれば、数年ぶりに再開してから、特に彼女によって身の危険に晒される出来事は起こっていない。あの異常体質者二人のインパクトにかき消されてしまっているだけかもしれないが。


 そう、何もしなければ、ただこうやって笑って目の前に立っていれば、器量の良い美しい女性だ。時の流れは、きっと彼女を完全とは言わなくても、人並みにまで更正させたに違いない。北斗は今初めて、戸呂音を一人の女として意識していた。


「どうかなさいました? お顔が赤いですわ」


 戸呂音が首を傾げる仕草をすると、側面の白い首筋が黒い髪の隙間から覗く。何だか気恥ずかしく、北斗は目を逸らす。火照った顔に涼しい朝の風が当たるが、その熱は、いっこうに冷める気配がない。


 戸呂音の身体が、そっと自分の背中に触れてきたからだ。


「……あなたと一緒にいると、学生時代を思い出します。お互い、歳をとりましたわね」


 背中から聞こえてくる戸呂音の声。とろみを帯びた愛おしいその音域は、甘える猫の鳴き声にも似ていたし、夏にさざめく風鈴みたいな静観と愁哀に満ちているようにも聞こえた。


「わたくし、最近暇を持て余しておりますの。もうこんな歳ですし、これから先もこの調子かと思うと、とても不安で不安で……。北斗さん、わたくしの部屋へいらっしゃいませんか? 寝床も、一つ用意してあります。よろしかったら……」


 何と積極的な。舐めやかな美声が耳を貫き、北斗の心臓は口から出そうなくらい高鳴っていた。自分が米斗じゃなくてよかった。こんなに動揺しまくっていたら、巨大隕石落下で地球が滅んでいただろう。


「わたくしを、満足させていただけますか……?」


 来た、とどめの一発。ここで断れば男が廃る。というより一世一代のチャンスを取り逃がしてしまうやもしれん。さっき決めたばかりだろう、新しい一歩を踏み出すと。頑張れ俺、負けるな俺! 全国のお婿さん養成学校の生徒が俺の味方だ。


「おっ、俺なんかでよければ……!」


 意を決し、北斗は振り返って戸呂音の手を握った。包むように握り締めた彼女の手は白く細い。不意を付かれたように、戸呂音はきょとんと北斗を見上げていた。そして数秒後、にっこりと微笑む。


 対照的に、北斗の顔から血の気が引いた。目の前の、北斗がしっかり握っている戸呂音の手。その中から縦一直線に突き出ているのは、よく磨かれた朝日に光る銀色のメス。


「そんなお返事が聞けるなんて、思っても見ませんでしたわ。昔はあんなに嫌がられていたのに、時の流れが、あなたを更正させたのですね。さあ、参りましょう! わたくしの実験室へ」


 変わってない、こいつは何にも変わっとらん!


 悪魔と地獄の契約を果たしてしまった北斗は、全てを無に帰そうと、一目散に逃げ出した。しかし悪魔の手から逃れられる筈もなく。生気漲る嬉しそうな戸呂音によって首根っこを掴まれ、喉元にメスの切っ先を突きつけられ、成す術もなく常闇の牢獄へ引き摺られて行った。


☆彡 ☆彡 ☆彡


 戸呂音専用の地下研究室。


 大きく、かつ精密な機械が壁を覆い、蛇の群れを彷彿とさせるカラフルなコードが、どこというわけでもなく、地面を這う。電灯に紛れて明滅する赤や青の光。静かな空間を違和感なく駆け抜けるモーターの回転する音。


 さほど広くはない。その空間の片隅で、世にも恐ろしい実験は着実に進行していた。


「さあ、北斗さん。覚悟の程はよろしいですかしら?」


「んー、んんん――!!」


 手術用の硬いベッドに横たわり、涙目になりながら、北斗は必死の抵抗を繰り返す。しかし悲しいかな、北斗の身体は強固なベルトでベッドに固定され、口にはガムテープがぴっちりと張り付けられている。その上に馬乗りになり、戸呂音はうっとりした半覚醒気味な眼差しでメスを握り締める。はっきり言って、北斗に逃げる術はない。


「さあ、どこから開きましょう。やっぱり基本は内臓かしら。それとも思い切って頭に行きましょうか。そうだわ、生物の先生である北斗さんの意見も聞こうかしら。ねえ、北斗さんはカエルの解剖をなさるときは、どこからパックリいかれます?」


「んーんー、んー!」


 人と両生類を一緒にするな。必死に訴えるが、この状態では無意味だった。それ以前に意思の疎通が成されていないので、仮に北斗がまともに口をきけたとしても、北斗の言葉は彼女に届かないだろう。


「しつれーしまーす。戸呂音さん、いる?」


 来訪者などあろうはずもなさそうなこの場所に、幸運なことに誰かがやって来た。今しか助かるチャンスはないと、北斗は頭を上げた。


 入り口に立っていたのは米斗だった。相変わらず、いつも通りの無表情で、じっとこちらを見ていた。


「……お邪魔しました」


 目の前で繰り広げられる光景を目の当たりにして思うところがあったのか、米斗はそのまま後ずさって部屋を出ようとした。


「んんん――! ん――!!」


「何だよ兄貴。そんなに恥ずかしがらなくたって、誰にも言わないから」


 北斗は慌てて呼び止める。米斗は足を止め、いつもながらに兄の翻訳不可能な謎の言語を普通に解読し、普通に会話をするように言葉を返してきた。だが、引き留めた意図が正しく伝わっていない。


「んんーんー!」


「助けろって? 何で」


「んーんーんーんんーんー!」


「でもさ、俺いま、それどころじゃないし」


「ん――!」


「…………」


 奇妙にも成り立っている謎の会話に、戸呂音は困惑していた。


 気が抜けたのか、北斗の上から降りて乱れた着物を直してくれた。北斗は、とりあえず一時的に寿命が延びたことに喜んで、涙を流した。


「まあ北斗さんの実験は後回しにしても良いとして、……米斗さん、ここへやって来たということは、決心が固まったと解釈してよろしいですか?」


 真剣な眼差しに戻った戸呂音の問いに、米斗は大きく頷く。茅の外の北斗には、何の話だか分からない。


「北斗さん、解剖のことで頭がいっぱいになっていましたので、お伝えできていませんでしたが、米斗さんの許可を得て、この冷凍睡眠装置を使うことになりました」


 戸呂音は、ことの経緯を北斗に説明してきた。


 全て聞き終わり、北斗はぶんぶんと首を否定的に振り乱す。


 そんなもの、ダメに決まっている! 何を考えているんだお前は、そんなことをして何の解決になる?


 必死で訴えた。それを全て聞き届けた米斗は、何の迷いもなく兄に言い放つ。


「兄貴、これは俺が自分で決めたことだ。ここに入っていれば、この先、俺の心臓が激しく動くことはない。そうすれば、少なくとも隕石が降ってきて地球が滅ぶ、って危険は、なくなるわけだ。運がよければ、この体質を直す方法が、いつか見つかるかもしれないし」


「んーん、んー!!」


 北斗は良しとしない。別に頭ごなしに否定しようと言うわけではなく、ちゃんと理由があってのことだ。それを米斗にちゃんと説明して引き留めようと頑張るのだが、自分が頭から引っ張り出してくる言葉が、外に出ると「んーんー」と意味のない音声に変換されると、どうにも自分で言っていて気が抜けると言うか、結局何を言っているのか、本当に自分の思っていることを言えているのかも分からなくなる。


 米斗は理解しているのだろうが、自分自身が理解できていないのは、やっぱりダメだろう。だんだん嫌気がさしてきたので、米斗に言って口のガムテープを外してもらうことにした。


 米斗は、それはもう勢いよくガムテープを引っ張り剥がした。まだまだ健在の強力な粘着力が北斗の皮膚を思いっきり引っ張り、痛みが走る。更に目から涙がこぼれる。口の周りは、熱を帯びてジンジンしていた。


「いギャー! こっ、米斗、もっと、そっと剥がせ、そっと!」


「何だよ、せっかく取ってやったのに」


 米斗は不機嫌そうに、ガムテープを丸めて捨てる。痛みも引いてきたので、北斗は気を取り直して話を続ける。


「で、何を言っていたかな。そうだ、心臓を止めることで、世界崩壊を未然に防ごうってんなら、まさかお前だけじゃなく有栖も……?」


「その点からは、米斗さんから条件が出ました」


 戸呂音が口を挟む。北斗が何を言っているのかやっと分かるようになったので、普通に話しに割り込めるようになったらしい。


「米斗さんは、自分がこの中に入ることの条件として、自分ひとりだけが入ること、そして彼女――千具良さんには、このことは黙っておくこと。ここ一連の出来事を全て、ですね。彼が隕石誘引体質であることも含めて。それを呑むことで、今回の乗船を了承していただきました」


「……一人で、全部背負うつもりか?」


 北斗は弟のとんでもない決意に、胸が締め付けられた。米斗は一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、頷いた。


「そんな考えで、彼女が満足するとは思えんぞ。もちろん、俺だって納得できない。だが、お前のことだから、そうするのが一番いいと思える理由や根拠があるんだろう? ちゃんと、お前の考えを言ってみろ」


「……全部、なかったことにできないかと思ったんだ。もとは、俺と千具良が付き合い始めて、あいつの体質を知ってしまったから、余計に話がややこしくなったんだから。俺自身も、知らなきゃ良かったことまで知ってしまったし。だから、もう一度千具良の前から俺の存在が消えれば、何もかも元に戻るかもしれない。少なくとも、俺と一緒にいる時ほど地震の危険に世界が晒されることはなくなる」


 俯く米斗の声は、少し震えていた。


「あとは、――俺なりに償いをしたいんだ。兄貴や、親父に迷惑かけたこと、母さんを、死なせたこと。千具良を傷つけたし、関わった全ての人に、謝らなきゃならない。でもそれは多すぎて無理だから、こうやって俺なりにけじめをつけることで謝罪になると思うし、これ以上みんなを苦しめずに済む。それが理由だ。兄貴だってそうじゃないのか? 母さんを死なせてしまった償いとして、俺の無関心さを鍛えてきたんじゃないのか? もう誰も、危険な目に遭わないように」


「……っ」


 言い返そうとした言葉が急に咽もとで消滅し、北斗の口だけが、微かに動いた。


「兄貴の償いは済んだよ。だから、次は俺の番だ。俺にも、何かやらせてくれ。っていっても、大したことはできないけれど……」


 カシャリ、背後で何か硬いものを踏み潰すような音が聞こえた。全員が、音源に向き直る。そこに立っている人影に、表情を固まらせた。


 少し哀しそうな、でもどちらかと言うと無表情に近い、感情の読み取れない複雑な表情をした小柄な少女。白い浴衣の上から黒い半被を羽織っている。


「……私が入ります」


 少女――千具良は真っ直ぐ、前進してきた。目の前に立ち尽くす、大切な者たちには目もくれず、ずかずかと目の前の機械の塊、冷凍睡眠装置付き宇宙船の丸い扉を開いて中に入ろうとした。

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