2.平常心な弟とストーカーな兄
四月初期の朝は、まだ肌寒い。三寒四温でたとえると、二温あたりの暖かさだろう。桜が蕾を膨らませはじめ、あと二、三日後の満開を待ちながら心躍らせている、そんな季節だ。
時刻は七時五十分。登校の支度を済ませた落合米斗は玄関に腰を下ろし、黙々と靴紐を結んでいた。
別に急いでいるわけでも、のんびりしているわけでもない。ただ坦々と、整ったペースで機械的に動いているだけだ。傍から見れば、その姿は味気なさすぎて逆に不自然に映るかもしれないが、米斗にとっては至って普通の日課だった。
「ほひ、ほへほ、ほふふぃふほは?」
背後から、どこの国の言語にも属さない謎の声が聞こえてくる。振り返ると、スーツ姿の、男の姿があった。ネクタイを締めながら、食パンを口に突っ込んでいる。
米斗を少し大人っぽくした感じの顔立ち。長身ではないが、バランスの取れた肥満でも、もやし体型でも筋肉質でもない、普通の体型の若い男。
米斗の兄、落合 北斗だった。
「『おい、米斗、もう行くのか?』って?」
「うん」
血の繋がった兄の発する、解読不可能な言語を、米斗はものの見事に翻訳してみせる。北斗は頷いた。
「珍しいな、いつもより十分も早いぞ」
素早く食パンを食堂に通し、北斗は驚いている。マイペースな米斗は、いつも八時きっかりに家を出る。突然登校時間を早めるなんて、北斗にはとても不思議な行動に思えたのだろう。
「どういった風の吹き回しだ? ひょっとして、宿題を持って帰り忘れて、焦ってるのか」
教科書にも無関心な米斗は、テスト期間以外は常に置き勉をする。他の生徒にもいえる話だが、特に必要のない教科書やノートは、机の中や下駄箱に置きっぱなしになっているのが今や常識だ。
そんな訳で米斗の右肩に背負われているリュックには、大きさの割りにせいぜい筆記用具と財布くらいしか入っていない。社会見学に行く小学生のほうが、もう少しましな荷物を入れているだろう。何をしに学校へ行っているんだかと、北斗はよく呆れている。
だから、その日に出された課題などを間違って置いて帰ってしまうと、次の日に学校へ行くまで手をつけられない。北斗は米斗が珍しく急いでいる理由を、宿題忘れだと推理したわけだ。
「まあ、そう思うならそれでいいけど。兄貴はいつもどおり出ればいいさ。じゃあ、行ってきます」
靴紐を結び終え、米斗は普段と同じ足取りで、ゆっくり家を後にした。
☆彡 ☆彡 ☆彡
「……何か、怪しいな」
玄関に取り残された北斗は、弟の閉めたドアを見つめ、呆然と呟いた。
北斗は直感的に異常を感じ取り、目を鋭く光らせた。
落合北斗は二十六歳、米斗の通う彩玄第二高等学校で講師として勤務している。担当科目は生物。
朝は決まって、米斗と一緒に登校する。それが一年前、米斗が高校に入学し、北斗が赴任した日からの日課となっていた。
一部では、歳の離れた弟を心配するあまり高校まで追いかけてきたブラコン野郎だとか、半径千メートル以内にいないと気が狂ってしまう変態兄弟、なんて噂も立てられている。人の噂に無関心な米斗は、さほど気にはしていないが、至って真っ当な北斗は、かなりショックを受けたりもした。
それでも、あの何事も平常心をモットーとした弟を心配で気懸りに思う気持ちは真実だ。そんなゴーイングマイウェイな米斗が、それを乱すような行動をとるなんて、どう考えても怪しい。
ただ単に気分転換なのか、反抗期で兄と登校するのが嫌になったのか。
その程度の理由なら、まだいいが。何か平常心を乱してしまうほどの危険な事件に巻き込まれているのでは、という可能性も、なきにしも非ずだ。
深く考えれば考えるほど臆病風に吹かれ、米斗が気がかりで何も手に付かなくなる。何にしても、事実を知るまでは安心して仕事も手に付かない。
だから北斗は、こっそりと米斗を尾行しはじめた。
いつも通り、寄り道も脇見もせず、米斗は黙々と通学路を前進する。その十数メートル後ろを、北斗が歩く。
ガシャーン!
突然、米斗の目の前に、横からビール瓶が飛んできて粉々に割れた。北斗は驚いて体を震わせ、挙動不審に辺りを見渡し、鞄を胸に抱いて警戒する。
「待ちな、この泥棒ネコ!」
「にゃあ!」
続いて瓶の飛んできた方向から、魚を咥えた猫が飛び出してきた。その猫を追いかける裸足のおばさんが、箒を振り回しながら米斗の前を駆け抜けてゆく。ビール瓶の破片を踏んづけて、血塗れになっても屁の河童の執着心だ。
米斗は一度立ち止まって、去っていく一匹と一人の姿を見つめていたが、嵐が去ると何もなかった様子で歩き出した。まったく動揺している様子もない。
米斗にかかれば、突然のハプニングも自然の流れの一部でしかないらしい。
我が弟ながら、素晴らしいまでの平常心。些細な出来事で心臓をバクバク鳴らせている北斗は、自分自身の小心さが馬鹿らしく思えてくる。北斗は米斗に感動と尊敬を覚えた。
一連の様子から見ても、どうやら米斗が無関心な体質を乱されているわけではなさそうだ。ひとまず、北斗は安堵の息を漏らした。
通学路である狭い交差点を右折し、ひたすら進む。このまま行けば、あと十分ほどで学校に着く。
心配は杞憂に終わったらしい。北斗は胸を撫で下ろす。
それも束の間、米斗が足を止め、立ち止まった。
息を呑んだ北斗は、素早く側にあった飲食店の看板の後ろに隠れた。陰からこっそり覗くと、こちらに背を向けた米斗がその場で立ち止まっていた。
遠くてよく分からないが、誰かと話をしている。
相手は誰だ? 麻薬の売人か、怪しい霊媒師か。
まるで犯行現場を抑えるべく張り込みをする刑事みたいな気分で、北斗は緊張感に浸る。その姿を見て不振そうに、ひそひそと影話を繰り広げる主婦たちが近くを通っても、お構いなしだ。
米斗が歩き出した。進展あり、と北斗は意気込む。良く見ると、米斗のとなりに、ちょこんと小さい人物が一緒に歩いていた。
彩玄高校の制服を着た、小柄な女子生徒。背格好は小柄で、肩上で揃えられた黒い癖っ毛が、外に跳ねている。背中に学校指定の小型カバンを背負い、片手に大きな紙袋を提げていた。
北斗は訝しげに二人の背中を見据える。比較的地味な雰囲気を醸し出すその少女が、一体どこの馬の骨娘なのか、この距離で断定は難しかった。
米斗と何やら、楽しそうに話をしながら歩いている。ちゃっかり手なんか繋いじゃって、どこからどう見ても仲の良い恋人同士だ。北斗は少し妬けた。
「ちくしょー、米斗め。彼女いない歴二十六年の兄を差し置いて、女の子と並んで歩くなんて……」
米斗が幼かった頃から、自由な時間は全て削って弟を見守り続けてきた北斗に、彼女を作っている時間の余裕は、なかった。こう言ってしまうと、まるで米斗のせいだと言っているみたいに聞こえるので、表には出さずに控えているが。
別に、米斗に頼まれて追いかけ回しているわけではないのだから、大人の平常心を働かせて乗り切る。
しかしながら、米斗の性格からして、あまり彼女に表立って感情や態度を見せる真似はしないだろう。どう言った経緯で二人は今の関係になったのか。さらに、あの少女は反応の薄い米斗と一緒にいて、楽しいのだろうか。色々な疑問が浮かんでくる。
少女が北斗に横顔を見せた。楽しそうに笑っている。
目をくわっと開き、北斗はその姿を必死で凝視した。幸い、少女は北斗が授業を担当しているクラスの生徒だった。普段から目立たない娘だが、顔も名前も一応、把握している。
「三組の、有栖千具良だな。でもクラス違うし、どこで知り合ったんだ?」
北斗が腕を組んで考えていると、誰かが後ろから、ポンと肩を叩いてきた。
「何だよ、今急がしい……」
集中を乱され、北斗は文句タラタラに振り返った。眼前には、いかにも不審そうな目を向けてくる、早朝パトロール中の警官がいた。
「ちょいと、署まで来てもらえるかな?」
年季の入った、口髭がダンディーな厳つい警官だった。鋭い目で睨みつけられ、北斗は一瞬、動きを止める。だが、北斗自身の置かれている状況に気付き、脂汗を流し出し慌て始めた。
「えっ、あのっ? ええ――!? ちょい待ち、誤解です、違うんですって、誰か助けて! 米斗ー!!」
叫びも空しく、北斗は腕を掴まれて、最寄の派出所へ連行された。




