16.もう、終わりにしよう
「あの、米斗くん」
正門をくぐろうとしたとき、背後から呼び止められた。振り返ると、白いエプロンをつけた私服姿の千具良が、ちょこんと起立していた。さらに背後の建物の中からは、子供達の騒ぐ声が聞こえてくる。
この道場は一般の生徒の他に、事情があって親と暮らせない子供や下宿人の世話もしていると、戸呂音が話していた気がする。前に大量の弁当を持ってきたときも、「みんなの残り」と言っていたが、それは家族と言うわけではなく、この下宿に住む「みんな」と言う意味だったのだろう。
何人いるのか分からないが、千具良が住人たちの中でも年長に当たるらしい。よって、家事のほとんどを一人でこなしているに違いない。
正直、大変だろうと思う。千具良だって、決して暇なわけではないのに。
「今、帰り?」
「ああ、まあ」
「師範代に会ったんだね」
「ああ、まあ。それが、どうかしたのか?」
「……私の話を、していたんじゃないかって」
千具良は俯いた。声が震えている。エプロンの裾をぎゅっと握り、少し間を置いてから、話を始めた。
「私の秘密、聞いたんだよね? 私、心がドキドキすると、辺りで地震が起こるの。だから、師範代や吉香ちゃんは、大災害が起こるかもしれないから、なんとか食い止めようとして、私に平常心を鍛えろって言ってくれているの」
戸呂音は、千具良は自身の体質について何も知らない、と話していたが、しっかりと知っているらしい。
「お前も、そんな夢みたいな話を信じているのか?」
「だって、本当だもの。誰かに言われたから、そう思ったわけじゃないよ。私自身が、一番感じるんだよ。心臓が高鳴る度に、足元が揺れる感覚。鼓動の響きが強ければ強いほど、激しい揺れが起こるって。だから、地震が起こって、被害に遭っている人たちや動物たちを見るのは、とても辛かった。何か力になれればいいと思ったけれど、何をやっても偽善みたいで……。結局、私がちゃんと、感情の制御をできるようにならなきゃ駄目なんだよね」
話題の中心にいる千具良が、そうはっきりと断言しているのなら、戸呂音の話も間違いがない、と認めるしかないのだろうか。
ここで仮に米斗が反論したとしても、地震の原因が千具良だという根拠もなければ、原因ではないという証拠も、米斗は持ち合わせていない事実に気付く。
慰め程度に意見を述べたところで、千具良のためにはならない。
この場は敢えて、千具良が地震を起こしていることを前提に、話を聞くことにした。
「私のせいなの。小さいときから、この道場で精神と体を鍛えて、ちょっとのことじゃ激しい動悸を起こさないように、訓練続けてきたのに、全然進歩がなくて、みんなに迷惑かけて。米斗くんにも、嫌な思いさせたね」
「俺は迷惑じゃないし、嫌な思いもしていない」
「米斗くん、優しいもんね。私、甘えすぎたんだ。……吉香ちゃんに、米斗くんみたいなすごい人がいるって教えてもらったから、近付いて色々教えてもらおうって、私が進んで行動したの。平常心の鍛え方とか、いつでも冷静にいられる方法を、教えてもらいたかったの。男の子と違和感なく一緒にいるためには、彼女になるのが一番簡単だと思って。だから、その……」
千具良は、震える口を、必死で動かしていた。米斗もあえて何も言わず、千具良の言葉が纏まるまで待った。
待った挙句、受け取った言葉は、残酷な部類に入るものだった。
「……全部、お芝居だったの。私が米斗くんの彼女になりたかったのは、平常心を身に付けたかったから。それだけなの。本当に、米斗くんが好きで、告白したわけじゃないの。ごめんね。最低だよね、私」
ついに堰を切って、千具良は涙を流し始めた。ずっと、米斗を騙している罪悪感に、苛まれて過ごして来たのだろうか。以前、道端で急に泣き出した理由が、今となっては理解できる気がする。
北斗が前に忠告してきた言葉も、思い出されてきた。千具良にからかわれて、騙されているだけなのだと。
千具良の吐いた嘘は、お遊び感覚での軽いものでは、決してない。自身の特異な体質に苦しみながら、悩んだ末の苦肉の策だったのだろう。
責めるつもりはない。だが、結果としては騙されていた事実に変わりはない。
「全部知られちゃったから、米斗くんとはもう一緒にはいられない。だからもう、終わりにしよう?」
意を決し、千具良は震える声を張り上げた。千具良は、米斗の見せる反応が分からずに怯えている風だったが、当の米斗は普段とそれほど変わらず、無表情を貫いていた。
「……まだ、平常心は身に付いていないんだろう? まだ可能性は残ってるんだ、なのに、もう止めるのか?」
淡々と訊ねると、千具良は頷いた。
なら、仕方がない。千具良が決めたことだ、米斗にどうこう言える権利はない。
「そうか。なら、別れよう。じゃあな」
簡潔に話を終了させ、米斗は正門をくぐって道場を去った。背中に、何か言いたそうな千具良の視線を感じたが、もうそれ以上細かい話をする気は、米斗にはなかった。
第三者から見れば薄情だと言われそうだが、千具良の意思を汲むなら、これが一番最良だと米斗は思っている。
以前、北斗にも言った。
「千具良は、俺に付き合ってくれって言った、俺はそれを了承した。だから千具良が俺と別れるって言うまで、俺はあいつの彼氏を続けるんだ。余計な理屈は必要ない」
別れてくれと言われたから、別れた。それだけのことだ。
いつも通りの気持ちでいたつもりだったが、どことなく全身がざわついて、落ち着かない。
空を見上げると、星空の中を流れ星が一つ、落ちていった。
消えるまでに願い事を三回言うと、叶うというらしいが、願いを考える気も起らなかった。
米斗はいつもより無意識に早足で、帰宅の途についた。
☆彡 ☆彡 ☆彡
「こら米斗! こんな夜遅くまで、どこをほっつき歩いていたんだ。そんな不良に育てた覚えはないぞ!」
米斗が帰宅してくると、北斗は玄関に飛んで行って説教を繰り出した。
まだ時刻は、七時を回ったところだ。別に普通の高校生にしてみれば遅くもなんともないが、部活もしていない、普段は五時くらいには必ず家にいる米斗にとっては、珍しい帰宅時間だった。
少し前に帰宅して、米斗が帰っていないと気付くや否や、北斗はとてつもない不安に駆られて狂乱し、今にも家を飛び出しそうになっていたところだ。
「こんな時間まで、どこに行っていたんだ? ちゃんと言え」
「……千具良の家」
「何!? まっ、まだ早いぞ、夜這いなんて!」
「そんなんじゃない。別れてきた」
「何っ?」
北斗は耳を疑った。何度か聞きなおそうとしたが、米斗はその後、一度も口を利かなかった。その結果、聞き間違えたのではないと確信すると、北斗は安心したり怪しい踊りを踊ったりと、お祭り騒ぎで囃し立てた。
「そうかそうか! うんうん、それがいいよ。これでやっと、俺も安心できるし、お前も、元の調子に戻れるだろう」
一人ではしゃいでいる北斗を無視して、米斗は廊下を横切り、階段を登っていった。その横顔を見て、北斗は、はたと動きを止める。
生まれて初めて見る、鋭い眼光。表情もいつもの無表情と変わらなさそうだが、普段から誰よりも注意深く米斗を見てきた北斗には、違いが何となく分かる。
とても強張った顔に、怒りを露にしている。近寄りがたい、不穏な空気をじわじわと醸し出していた。
「米斗……?」
弟の変貌に、北斗は少し動揺するが、すでに部屋に閉じこもってしまった米斗の側に、それ以上踏み込む隙も度胸もなかった。