10.千具良VSストーカー兄貴
その日の、ある休み時間。
「有栖、ちょっといいかな」
次の授業のため音楽室へ向かおうと廊下を歩いてた千具良を、北斗が呼び止めた。
「はい、何ですか?」
北斗は千具良を階段の裏にある倉庫の前に誘導し、時間もないので一気に切り出した。
「もう、俺も切羽詰ってるからな、簡潔に言うぞ。米斗と別れてくれないか?」
「……どうしてですか?」
「あいつは本当に何にも興味がないから、あまり長く接触していると、君のような普通の娘は、耐えられなくなると思う……。なんて言っても、無駄なんだろうな。君はあいつの、そういうところが好きなんだって?」
「はい! 平常心は世の中の全てを平穏へ導いてくれる奇跡の業です。生涯それを研究し、極限まで極め、素晴らしい未来を作る。それが、袴田流の教えなのです」
千具良は嬉しそうに目を閉じて、合掌した。それほどまでに平常心に強い憧れを抱いているのなら、米斗に惚れても不思議ではないのかもしれない。
「米斗くんは、若くして平常心を極めた素晴らしい人です。私にとっては高みの人かもしれませんが、側にいて、彼の平等的かつ無関心な話を聞いていると、とても幸せな気持ちになれるんです。それに、……個人的な理由ですけれど、今の私はどうしても平常心を獲得しなければならないのです。そんな私の無理を聞いて付き合ってもらっているのだから、米斗くんが私を嫌いになるまで、私は自分の気持ちを貫き通すつもりです」
なんて純粋無垢な娘なんだ。北斗は感動したが、米斗を相手取って感じるには、とてつもない危険思想だ。手遅れにならないうちに、正してやらなくてはいけない。それが教師としての天命だ。
「……お前たちの気持ちは分かる。だが、あいつは無関心とか平常心とか、そういった人間に理解できる程度の特質性以上に、想像できないほど特異なんだ。側にいれば、いつ危険な目に遭うか分からないよ」
「どう言うことですか?」
「何て言うかなあ。説明が難しいんだけど、……君はなぜ、あいつがあんなに平常心が強いか、その理由を考えたことはないかい?」
「ないですね。生まれつきなのかと……。でも、米斗くんは、平常心を身に付けられるかどうかには個人差があるって言っていました。先生なら、米斗くんがあれほどに平常心を貫き通せる理由を知っているのではないか、とも言っていましたが、何か確証のある理由をご存知なんですか?」
「……聞きたいと、思うかい?」
千具良は首を横に振った。
「いいえ、教えてもらえるのなら、米斗くんに教えてもらいます。先生、何だか言いたくなさそうだし」
授業開始のチャイムが鳴り始めた。千具良は軽く会釈して、慌てて廊下を駆けていった。
「……何だなかあ。あいつら、純粋なのはいいけど、頑固だよな。本当に」
北斗は呆れて、深い息を吐いた。
「でも待てよ、袴田流って言ったな。袴田ってまさか……」
聞き覚えのある苗字だ。北斗は胃の奥から湧き出てきそうな、いやーな感じに気分を悪くした。
「おい、兄貴」
「うおっ! なんだ、米斗か」
頭上の階段の手すりから、米斗が北斗を見下ろしていた。
「もう授業が始まってるぞ、早く教室に戻れ」
「大丈夫だ。次は兄貴の授業だから」
「ああ、そうだっけ?」
「……千具良がここから出てきた。何か変なこと吹き込んでたんじゃないだろうな」
「吹き込んでも、無駄だと分かったから止めた」
「ふーん。そうか」
肩を竦める北斗を見て、米斗は納得したらしく頷いた。
「ところで兄貴、ずっと聞こうと思って忘れてたんだけど」
「何だ?」
「俺って、いつからこんな性格なんだ?」
北斗は少しギクッとした。さっき千具良と話していた内容の続きを見計らったような問いかけだ。
「お前、さっきの話、聞いてたのか?」
「さっき、通りかかったばかりだ、聞いてない」
「そ、そうか……」
北斗は咳払いして気を取り直した。
「お前がいつから無関心なのかって?」
「ああ、兄貴なら何か知ってるんじゃないかと思って。生まれつきなのか?」
「いいや、生まれたときは普通の赤ん坊だったな」
「じゃあ、いつから」
「いつだろうな。自分で動き回れるようになった頃には、あまり周りのものに興味を持たなくなっていたんじゃないかな」
「そうか、やっぱり生まれつきの性質みたいな要素も、強いのかなのかな。じゃあ、そういう性質のない奴に、平常心とか身に付けさせるには、どうすればいいか知ってるか?」
「何だ、有栖に教えてやるのか?」
「うん。知りたがってるから」
「……もし、ないと言えば、あの娘はお前に愛想をつかすと思うか?」
「……そんなこと、言ってみなくちゃ分からない」
「そうか。はっきり言うと、平常心なんてもんは一朝一夕では身に付かない。まして、ある程度脳が成熟して、記憶力が劣ってきているお前らくらいの年代になると、難しいんじゃないかと思う。お前みたいに、小さい頃から平常心を鍛えてきた奴じゃない限りな。あとは、あまり良くない例だが、世の中の全てに絶望する出来事にでも直面すれば、嫌でも物事に関心がなくなると思うが、そんな酷いことは薦めるなよ。分かったな」
「分かってる。薦めない」
「話は終わりだ、さっさと教室戻れ。俺もすぐ行くから」
頷き、米斗は去っていった。
平常心を得る方法がなければ、千具良の米斗に対する素振りが変わるかもしれない。そのきっかけで、二人の仲が自然消滅してくれれば。
そんな運任せな結果を祈るしかできないなんて。無力な人間だ、と北斗は自嘲した。
「あっ、北斗だ! また米斗にふられてやがったのかー?」
「変態先生、同じ選ばれた奇人どうし、ぜひオカルト研究会で親睦を深め合いましょう!」
ちょうど側を通りかかった武藤と富田が、茶々を入れた。北斗は怒鳴る。
「やかましい、お前らと一緒にするな! さっさと教室に戻れ、教室。それと呼び捨てやめろ」