在りし日の……
『このたび、私たちは結婚式を挙げることになりました』
今朝、庭先のポストに投函されていた手紙を取り出すと、それは結婚披露宴の招待状だった。
――知り合いが結婚か、俺も歳を取ったもんだ。
感慨深く息を吐きながら、差出人が気になった俺はその場で封筒の中身を読み――
「……!」
そこに印刷された送り主の名前に、視線が吸い込まれた。
刹那、脳裏に千差万別の感情が掠めていく。驚き、戸惑い、悲しみ、憤り――祝福には到底似つかわしくない醜悪な思いが、胸の奥に渦巻いていった。
素直に喜べないことへの自己嫌悪に眉根を寄せながらも、幾度となくその名前を確かめる。だが決して文面は変わらない。ただ厳かに、事実のみを告げている。
そこには、『岩津秀平』と記されていた。
〈在りし日の……〉
「悟、ふたりで旅に出ようぜ」
中学校からの帰路、あまりに唐突かつ奇天烈な提案を、しかし俺は鼻で笑い飛ばした。底抜けの阿呆か、こいつは。
「……なあ、秀平。ひとつ訊くんだが、おまえ、どこに行くつもりだ?」
尋ねながら、放課後の街並みを見回す。背の低い住宅地と、寂れた遊歩道――お世辞にも先進的とはいえない、よくある田舎町だ。電車やタクシーでも拾わない限り、ビルひとつすら拝めないだろう。
しかし貧乏盛りの中学生には、まず町を出るという発想がない。幼い頃に遊び尽くしたこの地元での旅を連想し、呆れて溜息が漏れた。
そんな俺の反応を予測していたのか、秀平は不敵な笑みを深める。嫌味な、けれど不思議と人好きのする表情。
「わかってねえな。こんなシケた町に用なんてねえよ。××市に行こうぜ」
「え――」
秀平の言葉に、思わず息を呑む。
××市とは最近になって急速に開発を進めた地方都市だ。そこについて、俺はそっちの方から転校してきたという同級生からの自慢話でしか知らない。
この町からは電車で片道千円近くかかるはずだ、財布事情には相当厳しい。しかし……
「――よっしゃ、行こう!」
「そうこなくっちゃ!」
俺はふたつ返事で了承した。
この退屈な町での平々凡々な毎日に、俺は辟易していた。それはきっと秀平も同じなのだろう、だから「旅に出よう」なんて言ったのだ。
後先考えるほど冷静ではいられない。俺たちは早速、旅行計画の話に移行した。頭の中は、もう旅先の夢想でいっぱいだった。
「「おおぉぉぉ」」
電車を降りれば、そこは別世界。駅構内は数多くの人が行き交い、絶えず喧騒に包まれている。改札の先から近代的な景色が覗け、意図せず感嘆の吐息が漏れる。
つい立ち止まる俺たちに刺さる迷惑そうな視線も、興奮で気にならなかった。
「来たな! 俺たち……」
両眼を見開いて俺の肩をばしばし叩く秀平も、やはり鼻息が荒い。
「ああ!」
返事もそこそこに、改札口を抜けて駆け足で××市の舗装された地面へと降り立つ。
天気は快晴。絶好の旅日和だ。
最初に目についたのは、駅と対面に聳える巨大な百貨店だった。事前に調べたところによると、あの建物には量販店の類だけでなく、ゲームセンターやら映画館やらもあるらしい。地元のスーパーとはまさに雲泥の差である。
早朝の電車に乗ったため、ここはまだ開店直後だったようだ。店内に見える人間はまばらだが、駐車場には続々と車が押し寄せていく。
負けじと俺たちも慌ただしく入口の自動ドアをくぐった。
女性店員の「いらっしゃいませ」に律儀に頭を下げ、案内板を食い入るように見つめる。
「……よし、秀平。まず服屋から攻めよう」
「いや、ゲーセンが先だろ」
「…………」
「…………」
――刹那の硬直。
しかし次の瞬間には、俺たちは既に右拳を振り上げていた。
拳が唸る風音の直後、店内にふたりの咆哮が響き渡る。
「「ジャーンケーン……ほいっ!」」
勝負は瞬時に決した。鋏と岩の正面衝突、秀平の完勝だ。
「よっしゃ! ゲーセン決定!」
「……別にいいけど」
不貞腐れたように唇を尖らす俺だが、正直に言えば勝敗なんてどうでもよかった。順序なんて関係ない。俺たちは一日中この大都会を徘徊して回るのだ。時間はたっぷりある。焦る必要なんてない。
――ここでなら、永遠にでも遊んでいられる気分だった。
結局、立ち寄ったゲーセンでも映画館でも、俺たちはほとんど遊ばなかった。
考えれば当然だ、なにせ所持金が最初からゼロなのだから。財布には、全財産と引き換えの往復切符くらいしか入っていない。
それでも、俺と秀平は全力で××市の旅を満喫した。
すべての光景が新鮮だったのもあるが、なにより堪能できた理由は、秀平と一緒だったからに違いない。
俺と秀平は親友だ。面と向かって言葉にしたことはないが、少なくとも俺はそう思っているし、きっと秀平もそうだ。
ともに馬鹿騒ぎをして、最高に楽しい。ならばそれだけで竹馬の友。
男同士の友情なんて、そんなものだ。
俺たちは、きっとずっと友達でいるんだろう。いつでも隣合わせで阿呆らしい毎日を過ごしていくんだろう。
――そんな日々が、一生続くんだろう。
「じゃあ、また学校でな」
帰りの電車に揺られる時間はやたら短く感じた。夕空に藍が差す時分に、それぞれの帰路に就く。お互いに門限があったから、深夜まで遊び果てるなんて真似はできない。
自分の口から出た別れの台詞には、名残惜しさと虚無感が混在している気がした。
そして、秀平は動かなかった。
額に汗を浮かべて、妙に潤んだ瞳で、一定の距離を保ってじっと俺を見据える。
「悟、俺……」
唾液を呑み下す音が、やけに強く響いた。
秀平は驚くほど透明で真摯な眼差しを湛えて、そっと口を開いた。
「おまえと、恋愛したいかもしれない」
脈絡も突拍子もない、意味不明な言葉。
――とち狂っちまったのかよ。
失笑しようとして、しかし喉がカラカラで声は掠れた。
無言を貫く――いや、言葉が出ないんだ。
わけがわからないのに、秀平の告白に心のどこかで喜ぶ自分がいて、そのことに驚愕した。
おい、なんでだよ。おかしいだろ。胸中で叫ぶ。
俺たちは男同士で、親友で、だから恋愛対象になんて、絶対……
頭の中を激情が飛び交い、率直な気持ちへの否定を必死に探して、やがて――
「おい、冗談に決まってるだろ。なにマジな顔してんだよ」
屈託ない秀平の笑顔に、俺は我に返った。
そして奴の表情を見て、急になにもかもが理解できた気がした。
冗談に決まってる、なんて言いながら、秀平は本気だったんじゃないか。照れ隠しにこうやって偽りの笑顔を見せ、ゲラゲラと笑っているんじゃないか。
さっきの一途な眼差しを想起する。適当な言葉を並べ立てるような双眸じゃなかった。やっぱり秀平は、心根から告白したんだ。
そして俺も、胸中では満更でもないと感じていた。
でも、だからこそ。
「……別に、マジになっちゃいねえよ」
視線を逸らして俺は誤魔化した。
それでいいんだ。
友達としての“好き”を、無理に昇華させる必要なんてない。
俺たちは紛れもない親友で、
今の告白は、間違いなくこの関係を壊すから。
だから、俺は一生誤魔化し続けるんだろう。
――自分の気持ちを。
瞬間、落ちかけた夕陽が家々の間隙からふたりを照らす。
その眩しさに視界が霞んで、秀平の顔は見えなかった。
★
ポケットの中で携帯が震えた。
感傷的な気分に水を差され、俺は眉根を寄せて待受画面を開く。
「お」
しかし送り主の名前を見て、すぐに相好は緩んだ。
アドレス帳に登録している数少ない異性――現在の恋人からだった。
彼女からの連絡に、俺も秀平も、各々別の道に進んだのだと実感する。
今ならわかる。かつての秀平の告白や、俺の高鳴る鼓動、全部が若気の至りだったんだろう。
永遠の友達、無二の親友……そんな神聖視していた友情を、心のどこかが意味を取り違えた。
男同士だったから駄目だったんじゃない。あの気持ちは友情だ。恋慕などでは断じてない。
「だから……」
だから、大丈夫だ。
片手の招待状を、燦然と輝く太陽に透かす。
――俺は、秀平と結ばれる女性に嫉妬していたのかもしれない。
それが、さっきの胸中に沈殿していた腐れた感情の正体。
醜い感傷は全部捨てろ。取っ払え。
秀平の新たな門出だ、祝福してやらなくちゃ親友の名が廃る。
そう、そして心の底から、言うんだ。
俺とは別の世界で幸せを掴んだ、あいつに。
「結婚、おめでとう」
その呟きは、誰にも聞かれることなく、空気中に霧散した。
読んでいただきありがとうございます!
思春期の男子にとって『親友』という言葉は、尋常でなく重い響きであるという印象があります。それこそ恋愛関係を遥かに凌駕した絆が、そこにはあるのではないでしょうか。
拙作では、その感情を恋心と勘違いした(あるいは、本当に恋心を抱いていた)男子二人組を書きましたが、そんなに強く思い合える友人がいるのって、実はとても素敵なことですよね。