二番目の男
眩しい青空には、雲一つない。
世界を照らす日光は、柔らかく暖かで。
穏やかな風が、何処からか新緑の香りを運んできた。
――今日、私は結婚する。
「――汝は、この男を夫とし、良い時も悪い時も、富める時も貧しい時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛し慈しみ貞操を守ることをここに誓いますか?」
神父さまの厳かな声が、静かな教会に響く。その後ろできらきら光るステンドガラスは、綺麗だけど眩しくて。目を細めながら、ゆっくり視線を上げた。すっぴんに近い普段と違い、塗りたくられたメイクは顔の皮が一枚増えたように、重く感じる。
「はい、誓います」
小さな頃から、テレビドラマなんかで見た、誓いの言葉を口にしながら、未だ夢見心地だった。
こんな日が、来るとは思っていなかった。特別不細工ではないけれど、特別綺麗な訳でもない、いわゆる平凡な顔立ちの私。高校を卒業しても彼氏なんか出来なかったし、興味もなかった。休日も家でゴロゴロする私に、母親もあんたは結婚出来ないタイプね、なんて笑っていたのに。
それが何故か晩婚化が進む今日、二十一と言う若さで、私はここに立っている。
「それでは、誓いの口付けを」
隅々で聞こえる、鼻を啜る音。あんな小さかったのに、なんて囁かれる。正直な話、成人はしているけれど自分が大人になったという感覚はない。きっとこれからも、自分が子供だと思う日々は続くんだろう。
肩を抱かれ、ゆっくりと彼と向き合う。シャンパンカラーのドレスは、首から胸の上、肩から手首までレースでおおわれている。この時期に長袖は暑くないか?とも思ったんだけど、彼が忙しい時間を縫って一緒にお店に来てくれて、わざわざ選んでくれたんだから、文句は言わない。実際、堪えられない程ではないし。ぱっと見はAラインのシンプルなデザインだけど、さり気なく細やかな刺繍やパールが散りばめられている。上品かつ清楚なイメージ、私の趣味にもばっちり合致するこれは、それなりにお値段のする逸品なのだ。
薄いベール越しの彼は、少し長めの黒髪を後ろで撫でつけて、引きしまった頬を柔らかく緩めていた。私のドレスばっかり気にしていた、彼。それでも十分くらいで適当に決めたはずのシャンパンゴールドのロングタキシードは、とびきり似合っていて、格好いい。これは、恋人の欲目なんかじゃない。真実だ。
今日から私の夫となるお方は、今年二十八歳になる。私が高卒で就職した会社の、親会社の社長令息であり、花形・営業部の次長でもある。縁故入社と言うと、勝手な偏見だがいまいち良いイメージはない。けれど、彼は自分にも他人にも厳しい、仕事の塊みたいな人。常に次の仕事を頭に置いて、誰よりもフットワーク軽く動く。すらりとした筋肉質な身体を、スーツにぴしりと包み、彫りの深い整った顔立ちには、全てを見透かすような鋭い瞳。いつだって眉間に皺を寄せて、周囲を厳しく見渡す。初めて見た時は、しなやかな黒豹を思い出した。同時に、この人、笑うことあるのかな?なんて、余計なおせっかいも。
当時は、こんな風に人生が重なるなんて思ってもいなかった。なのに何が起こったのか、私は今、彼と一生を共にすることを、誓ったのだ。
大きな手が、私のベールを捲る。ステンドグラスの光を後ろから浴びて、極上の男は益々輝くのだ。見慣れているはずなのに、いつも以上に眩しく見えて、顔が熱くなった。ちらりと視線を逸らすと気に入らないのか、ぐっと両頬を包まれた。何度も何度も、私に触れた手。愛おしげに眼を細める表情は、それだけで気を失いそうなくらい、素敵だ。そして彼は、女の私が悔しくなる位、長い睫毛を伏せて――。
「……何だ」
私は慌てて、その唇に手を当てた。三十センチもない距離にある顔は、ひどく不満げで、今すぐにでも取って食われそうな空気を醸し出している。でもね。
「何じゃないでしょっ。口にはしないって言ったじゃない!!」
「忘れた」
「なっ」
小声で彼を責め立てれば、しらっと返してくる。しかも腰を抱かれ、下半身が密着した。ひええ。
結婚式を教会で挙げることになった時、私が憂鬱になったのは、メインとも言える誓いのキス。何が悲しくて、公衆の面前でキスなんて見せなくちゃいけないのか。だから会場のお姉さんが最近はキスしないカップルさんも多いですよ、と言ったのに私は飛び付いた。しかし彼はガンとして頷かなかった。絶対にする、と言い切ったのだ。結局、お互いの折衷案として、誓いのキスはする、ただし額、という話になったんだけど。
忘れていた。この人は、そう簡単に思ったことを曲げない頑固者なのだ。今も、ぐぐっと私に顔を寄せる。
冗談じゃない!!軽いキスなら私だって妥協するけど、そんな生温いもので解放してくれるはずない。絶対に、参列客が苦笑するくらい長くて、しかも濃いのに決まっている。非難の意味を込めて睨みつけるけれど、彼は表情も変えず。どころか。
「心配するな。一回で終わらせてやる」
むしろ、何回やる気だったんだ!!と突っ込みたくなる、とんちんかんな返事をしてきた。
私と彼の攻防に、参列客からざわめきが零れる。いきなり離婚の危機か、なんて彼の親友であるベストマンが面白そうに言うのが聞こえ、彼の眉間の皺が一層深くなった。からかわないでください!!
ちらり、斜め後ろを見る。父が不安そうに、涙目で私達を見守っていた。……これが、誓いのキスを拒んだ一番の理由。実の両親に、キスシーンなんて見せたがる人はいないと思うんだよね。母は娘の晴れ姿より、今日から息子になる彼のタキシード姿に夢中みたいだけどっ。
おっとり優しく、むしろ優柔不断と言われがちな父は、昔から私の理想の男性だった。ファザコンと言うなら言ってくれ、小動物系で可愛いんだよ、うちの父。そんな父とは百八十度違う彼(黒豹は小動物とは言わない)を家に連れて来た時は、威圧されてビクビクしていた。普通、逆だと思うんだけどね。
父の手元をこんなに早く離れるとは思っていなかった。むしろ、一生家で両親の面倒を見るのもアリかな、と思っていたのに。アルバムを見ながら寂しそうにしていた父の背中は、忘れられない。私がファザコンなら、父は親馬鹿、小さい頃から可愛がられて来たのだから。
下に視線を落として考え込んでいると、小さな舌打ちが聞こえた。もちろん、私だけに聞こえるくらいの音で。慌てて顔を上げれば、彼の端整な顔立ちが不機嫌そうに歪んでいた。
「何を考えている」
「え」
「お前は、俺の妻だ。いつまでも他の男を引きずるな」
他の男、って。お父さんのことなんだけどな。普段はすごく大人で落ち着いている彼なのに、独占欲はものすごい。私がただの同僚と話しているだけで、一週間は機嫌が悪いままだったり。面倒臭さ半分、愛されてるな半分。私だって彼の周りの女性に嫉妬することはあるんだから、彼だけを責めようとは思わない。お父さんにまで嫉妬するとは思わなかったけどね。
「いいか。お前に最初に口付けたのはお義父さんかもしれないけどな、最後に口付けるのは、俺だろう」
「……はぁ」
「だからお前は、俺を最優先しろ」
何と言う俺様だろう。分かっていたけれど、苦笑してしまう。
行き過ぎた愛情かもしれないけど、やっぱり嬉しいんだよね。こんな風に言う彼が、私を最優先してくれてること、知ってるから。
ぎゅ、と彼の手を握る。驚いたように目を見開くその顔も、素敵。すぐに繋ぎ返される手に頬を緩めた。私の笑顔に弱いと言う彼は、低く唸った。
「……卑怯だろう」
「どうして?夫の手を、妻が取っちゃ駄目なの?」
「……やはり、卑怯だ」
呟きながら、ふわりと前髪に吐息がかかる。額に柔らかく触れる唇がくすぐったくて、くすぐったくて。
――何故だか、涙が零れた。
すぐに私の涙を掬う大きな手。固くてごつごつしているのに、私を傷付けることはない。いつだって、優しく触れる。いつの間にか閉ざしていた瞳を開ければ、満面の笑みが、私を包んだ。
「今はお義父さんに遠慮してやるけどな、帰ったら覚悟しろよ?」
もう一度、斜め後ろを見る。気付けば、父は泣いていた。母は呆れたように、ハンカチを渡している。感動モノの映画を見た後には恒例の光景に、苦笑してしまった。
父のことは、今でも大好き。変わるものはない位。
だけどもう、私の一番は、帰る場所は、父ではない。私を一番大事にしてくれるのも、守ってくれるのも。
目の前の、この人だけ。
するり、彼の首に腕を回して、引き寄せる。今日は十センチヒールを履いてるのに、身長差がある。それでも普段よりましだ。立ちながら、こんな近くでこの瞳を見れるなんて考えもしなかった。普段にはない位積極的に触れる私に、彼は半ば、呆然。だから、笑って。
「喜んで、旦那様」
背伸びして、その頬に口付けを。ちゅ、という音と共に、彼の頬に口紅の痕が残る。そして、それに負けない位赤くなる頬が可愛い。
恨みがましげな視線に、私は泣きながら笑って。
差し出される彼の腕を取り、行きとは反対に、扉に向かって真っ赤な絨毯を歩きはじめた――。
父より素敵な人なんていないと本気で信じていた、小さい頃の私。
その想いは残滓となって残るけれど、いつか完全に消えてしまうだろう。
今日私は、父の腕を離れ、彼の腕を取った。
この世界で一番最初に、私を愛してくれた男の元を離れ。
この世界で二番目に、私を愛してくれた男の元へと来た。
私を、人生最後まで愛してくれる人の元へ。
教会に行って思いついた一品。丁度結婚式もやっていたので。
あと、なんかのCMで「この世界で私以上に君を想う男なんていないと、パパは思うのです」というのを聞いてすごく納得したのも踏まえて。バージンロードの父から夫へーって流れはものすごく深いなぁ、と思うのです。
分かりづらいかもしれませんが、「二番目」というのは愛の深さ的意味ではなく、順番的意味です。(汗)