僕と子猫と初体験
からころ、からころ。
心地良いリズムを奏でながら歩く涼莉と並んで、はまっすぐに神社の方へ。
涼莉と同じように浴衣を着ている姿が通りにチラホラと見え、その人の流れはよどみなく、僕らの目指す方向と一致している。
これが神社の前の通りともなるとひとでごった返す。その前に、軽く腹を満たしておこうと、近くに出ていた屋台で串焼きを買っていた。僕が豚、涼莉が鶏。
「ん〜、美味しいの」
大きく口を開けて肉を頬張り、満面の笑みを浮かべる。満足そうで何より、である。
僕も自分の串焼きから一切れ肉を頬張る。焼きたての肉の香りが鼻孔を通りぬけ、スパイスが舌を刺激する。肉汁が喉を潤し、口の中に肉の味が広がった。
うん、うまい。
実際のところ、なぜかこの街の住人はこういう祭り事にかんして異常なくらいに気合を入れるたちなようで。僕らが立ち寄った串焼き屋の店主も『いいか、焼きってのは炭との語らいなのさ……』と静かな、しかし深い瞳で語っていた。遅くやってきた中二病だろうか。しかし旨い。複雑。
舌の幸福感と懊悩との間で板挟みになっていると、何やら視線を感じた。
涼莉だ。ガン見である。
…………ふむ。
すい、と手に持った串焼きを横にスライドした。
「————」
涼莉の視線どころか体まで一緒に同じ方向へ傾く。
すすすす、と逆方向へ。
うにゃー、と口を開けて追っかけてくる涼莉。
面白いな。
つーか可愛いなちくしょう。
その時、僕の心にちょっとした遊び心が浮上した。
にやりと口元に笑みを浮かべ、串を高々と掲げる! さらに素早くバク宙、着地と同時に背中を地面につけて回転するブレイクダンス!! そして最後に両足に勢いをつけて、手を使わずに起き上がった僕は、天に高々と串焼きを掲げた。
「————どうだっ!?」
誰もいなかった。
何がどうだなのか。
ドヤ顔でフリーズする痛々しい男が今ここに現出。
周囲の視線が痛い。そりゃあそうだろう。天下の往来のど真ん中で突然アクロバティックな動きをしてその挙句誰もいない方向にどや顔を向ける人間がいたら誰だって引く。僕だって引く。
あげていた手をそっと下ろす。道の先に視線を飛ばせば、オレンジ浴衣のネコミミ少女が金魚すくいの屋台の前に座っていた。
そっかー……飽きたかぁ……。
胸によぎる郷愁は一足早く僕の心に秋の気配を伝えたのだった。
僕に早々に放置プレイをかましてくれた我が妹分は、やたらと目を輝かせた様子で金魚すくいの水槽の前に座り、覗き込んでいた。
「あ、空! もう、何をしているの? 遅いの!!」
「ちょっとね、心に折った傷を癒すには長い時間が必要だったんだよ……」
醜態を晒した人たちがいなくなるのを待たないと心が折れそうだったのだ。
ていうかちょっと折れた。へし折れた。割と景気よく。
なんかもうね、てめぇブルータスやりやがったなレベルの衝撃なわけですよ、僕にとっては。かつてない程に歴史上の人物に共感している。いやあまさか涼莉に背後からぶっすぅやられるとは、うん。うわぁ洒落にならんくらい凹んでる僕。
「はははいやもう、ね……それで涼莉は、金魚すくいに興味があるの?」
「うん!」
目をキラキラと輝かせている。実は涼莉をこうして祭りに連れてくるのは初めてなのだ。
姉さんが騒ぎを予見してかしばらくは禁止していたし、許可が出た去年一昨年は厄介事に巻き込まれてそれどころではなかったし。僕にしても、綺月の舞をどうにか見るのが精一杯だったわけで。
こうして余裕を持って祭りを見て回るのは、実は久しぶりのことなのである。
そんな僕の心が浮き足立って先ほどのような醜態を晒したのだ。そうなんだって。
だからまあ、彼女にしてみれば周りに見えるもの全てがキラキラ輝いて見えるのも致し方ないことだろう。微笑ましい、というよりもほっとする、というのが正しいか。彼女と僕の感性に大きな違いがないこと。その事に安堵を覚える自分がいた。
……うん? 安堵?
自分の感情の動きに首をひねっていると、涼莉がじっと見上げてきているのに気がついた。
「どうしたの、涼莉? ……ああ、なるほど」
屋台のおっちゃんもこちらを見ていた。ポケットから財布を取り出し、一回分の料金を支払う。おっちゃんは景気の良い『毎度ありぃ』の声とともに、ポイと水の入った器を涼莉へと渡した。
「涼莉、ルールは分かる?」
「さっき他の子がやってるのを見てたの」
耳を元気よくピコピコさせながら良い返事。うん、元気だね。でもおっちゃんが君の耳をガン見してるからやめようね?
おっちゃんと視線がぶつかる。とりあえずにっこり笑ってごまかしておいた。何か察してくれたのか、おっちゃんは何か尋ねることはなく。うん、日本的。
涼莉はそんな僕達を気にもとめず、受け取ったポイを構えた。なるほど、他の子がやっているところを見ていたというのは事実のようだ。
…………んー。
他の子がやっていた。それを見て真似している、という事は……。
僕の懸念はまさに現実のものとなった。
「うにゃっ!!」
涼莉は、狙いをつけた金魚に向けて勢い良くポイを突き入れた。
結果。
「ひにゃああああっ!? 空、空、破れたの!!」
当然だ……。
「あのさ涼莉、君が見ていたその人は、金魚をうまくすくえていたかい?」
「にゃ? う〜…………はっ!!」
思い至ったらしい。
そりゃあまあ、参考にした人が失敗していたら、涼莉も失敗するに決まっている。
「はうぅ……涼莉にはきんぎょはとれないの……?」
しょぼーん、と落ち込む涼莉。はあ、まったくやれやれ。まあ確かに時間的にはまだまだ十分な余裕がある。とはいえここは現実の厳しさだって知っておくべきだろう。甘やかしはよくない。それもまた優しさ、というものである。何でもかんでも手伝ってあげていては涼莉の創意工夫を奪うことにさえなりかねない。それを考えれば、ここで僕が安易に手を貸してしまうというのもまた問題行動だといえはしないだろうか?
「にゃふぅ」
はあ、まったくやれやれ。
「いいかい涼莉、僕が手伝ってあげるから、今度はうまくやるんだよ?」
おっちゃんにもう一回ぶん、お金を払う。
ああ? 甘やかし? いいんだよ時間が十分あるんだから今回くらい。
おっちゃんからポイを受け取り、凹む涼莉の後ろに座る。
「ひにゃ!?」
「いいかい、まず優しく取っ手を握って」
涼莉の後ろから金魚の水槽を覗きこむ。涼莉にポイを握らせて、その手を取ってゆっくりと水面に近づける。
器を持った逆の手も、後ろからそっと手首をつかみ、ポイの近くへと寄せる。
「こういうのは体で覚えるのが肝要だよ。涼莉ならコツさえつかめばどうってことはないと思う」
自然、息のかかる距離に涼莉の耳が近づいていたため、囁く程度の声でも十分に聞こえるだろう。
袖が水につかないよう支えながら、ややぎこちない涼莉の腕をそっと水面を滑らせるように動かし、水面付近をうろついていた金魚に添える。
動きが止まった一瞬を狙い、器を近づけ金魚を掬いあげた。
「ほら、こんなかんじで。わかった?」
コクコクと首を縦にふる涼莉。妙に不安だな……まあいい、ひとまず再チャレンジを見守ろう。
じゃあ今度はひとりでやってみるように伝え、立ち上がる。と、おじさんと目があった。なんかニヤニヤしてた。疑問は感じるけれどそれよりも涼莉のお手並み拝見だ。
さて今度はうまくできるかな?
「うにゃーっ!!」
ポイで盛大に水をぶっ放した。
水をぶっかけたおっちゃんに謝り、本格的に屋台が並ぶ場所まで来た。
ちなみに水をぶっかけた本人のみが奇跡的に一滴の水もかかっていないのは果たしてどんな因果なのだろうか。いやまあいいけどさ。せっかくの浴衣だし。
それにしても見渡す限りの人、人、人。賑やかな空気が自然と気持ちを高揚させるものの、同時に手を繋いでいないと危うくはぐれそうになってしまう。
とはいえ、この光景に見とれていては時間がもったいないというもの。
「さて……なにか見たいものはある?」
「お腹すいたの!」
そうだね、さっきから金魚をやけに熱心に見つめているものね。
ちなみに我が家に金魚を育てる環境はない。今度金魚鉢なり買ってこないとな。
そんな事を考えていると。
「やあ、空に涼莉じゃないか」
「「……………………」」
僕らふたりを黙らせるに十分な声が背後から投げかけられた。
「やあ、今日も二人とも仲がいいね。実にいいことだ、ははは」
「あぁ、うん……」
二人してそっと振り返る。
そこに居たのは、やけに爽やかな笑顔を浮かべた夕陽だった。
そう、夕陽である。朝瀬夕陽。偽物ではない。正真正銘本人である。証拠に、一対の鬼神を連れていた。
「夕陽も、今日は祭りに来られてよかったね……」
「実際翼さんの対策がなければ危なかったけれどね。ははは、今度改めて、お礼をさせてくれよ」
「いや、まあ、気にしないで……」
むしろ僕が何かお詫びをしないといけないと思うんだ。姉さんを止められなかったお詫びを。
「じゃあ僕は約束があるから。また後で、神楽の時間に会おう」
「そう……」
爽やかに。あくまで爽やかに。
夕陽が人ごみの向こうへと消えて行く。
「ホラーなの……」
「ああ。海の肝試しなんて目じゃないね」
まあ僕にとってはある意味同種の恐怖かもしれないが。
完全に人格が変容して恐ろしいことになっている夕陽だが、原因は無論姉さんのスパルタを超えた何かと化した勉強のせいである。
気づいたらああなっていた。極力気にしない様にしようと思っていたけれど、うん、無理。明日にでも何か手を考えよう……。
「ま、まあ気を取り直して。何か食べようか」
「うにゃー、あ、あれ美味しそうなの!」
「まてあれはイカだ」
なぜ焼きイカに真っ先に向かう。海に何があったかを思い出せ。
「素直に定番のものから適当に食べていこうか」
上手くハンドリングしないと、また変なことになりかねない。
「空、空、これはなあに?」
「ああこれは射的だよ。こうやって銃で狙って」
ずどむ、と腹に響く音を立ててぬいぐるみの眉間に風穴が開いた。
「おっとしまった、こっちは仕事用だ。はいこれ」
代わりに渡された銃の銃口にはコルクが詰まっていた。
「………狙って、撃つの?」
「いや……」
どうも関わっちゃいけない種類のお店に触れてしまったらしい。仕事用ってなんだよ。猟銃なんだよな、なあ。
おー、と口を開けて見ているのはヨーヨー掬いだ。
他の人がやる様を興味深そうに見ている。
あれはあれでまた金魚すくいとは違ったコツが必要になる。要領をつかめばあとは集中力の問題だが、さて、細かい作業が苦手な涼莉にうまく出来るだろうか。
というか、丸っこいのに興味を持っているだけでは。猫の習性で……。
「ねえ空」
「うん、どうしたの?」
「あれはどうやって食べるの?」
「食べねえしさっきとった金魚も食べねえからな」
重ねて忠告しておく必要がありそうだった。
「いいかい涼莉、これは型抜きといって」
「ふんすっ」
ぺちんっ。
「謎の力を使って叩き一発でゲームを終わらせるんじゃない……」
ほわー、と口を開けて見つめる先にあるものは。
「お面……だねえ。昔からなくなんないよね、このお店」
そしてつけている人も殆ど見ないわけで。収益出てるんだろうか。
「涼莉は興味のあるお面とかある?」
「うにゃー?」
「いや、猫はやめよう。なんか変な気分になる」
猫のお面をかぶったネコ娘ってどうなんだろう……。
「うにゃ〜、じゃあこれは?」
狐か……。まあ猫かぶったネコ娘よりはいいだろうか。どう違うんだろう。自分の中の判断基準がまるで理解できない……。
「いいんじゃないかな。まあ実際問題どっちも可愛らしくて似合ってるとは思うんだけどね」
僕の曖昧な判断基準を涼莉に強制するのもどうかと思うし。
「うん。好きな方でいいと思うよ?」
僕の言葉に、涼莉は少し考え込んだ様子になる。
そして、おずおず、と僕の方を上目づかいに見上げてきた。
「ん。んう。…………空が選んで?」
心なしか緊張を含んだ声に疑問を感じる。
「うん? 涼莉の好きな方でいいと思うけど……」
首を傾げる僕に、かははっ、と笑い声を浴びせたのはお面を売っているお姉さんだった。
見た目は二十代半ば以上、といったところだろうか。白無地の半袖シャツを肩までめくり、くわえタバコをしている。ちなみに火はついていない。周囲への配慮だろうか。
「選んであげなよ、少年。そういうのもまた、ひとつのわがままなんだから」
はぁ……。釈然としない気持ちを抱えながらも並んだお面を見比べる。
妙に気合が入った真剣な表情の涼莉と、面白い出し物でも見ているかのようなお姉さんに挟まれて。
結局、僕が選んだのは狐のお面だった。
「ん、やっ! 空の、熱くて大きいから、いきなり奥まで入れちゃやなの。もっと先っぽからほしいの。……ん、にゃふ。あ、だめ、空、そんないじわるしちゃ、や。くすぐった、うにゃ」
「何事で御座るかああああああああああああああっ!!!!」
「うおわぁっ!?」
「空殿、何をこんな人ごみから外れたところでいったいどんなうらやま不埒なことを許せぬでござるよ!?」
藪の中から突然飛び出してきた馬鹿が馬鹿な事を言っている気がする。
「びっくりしたなぁ……大地、いきなりなにするのさ」
「うにゃー。危うくホットドッグ落ちるところだったのー」
「……ホットドッグ?」
大地が首を傾げる。
そう。ホットドッグ。
具体的には、両手にオレンジジュースと綿菓子をもった涼莉が僕のホットドッグを欲しがったので、あーんをして食べさせてあげていた、という感じで。まあ、ちょっと悪ふざけして少し多めに口の中に入れたり、逆に高い位置に構えてみたり、食べようとした時にちょっと位置をずらして口の端っこをいじったりしてたけど。
「空殿……」
あ、大地が若干剣呑な視線。まあ確かに、食べ物で遊ぶのはやり過ぎか。
「そういうプレイでござるな!? なんと羨ましい!!」
「リアさんもしいたらこいつ持ってってくれませんかね」
「おぎょばっ!!」
願いが届いたのか、大地は自分の影に落下するようにして消えた。言ってみるもんだ。
さて。
「涼莉、それを食べたら、そろそろ綺月の舞を見に行くよ」
声をかけると涼莉はぷくっと頬をふくらませた。
「にゃー。巫女娘、せいぜい上手くやるといいの」
仲いいんだか悪いんだか。思わず苦笑する。
さて、僕らが今いるのは神社の階段の真下から、少し横に入ったところである。
木々が立ち並び、祭りの灯とふすま一枚隔てたような、微妙な距離感を感じる。ここから少し奥に入れば森と呼んで差し支えないような場所で、あまり夜に入る場所でもない。
涼莉がもふもふと幸せいっぱいの表情でわたがしを食べるのを横目に見ながら、空を見上げた。
祭りの光が強いから、いつも見たいな満点の星空は見ることができない。まあ、階段を登ってしまえば話はまた変わってくるのだが。
そういう意味では、この場所がギリギリ、俗世に位置していると言えないこともないだろう。
まあ俗世というものから隔絶した女の子が隣にいる時点でその判定もかなり危うい気がしなくもないけど。
「ん、どうしたの空? 食べたい?」
「いや、さっき食べたので十分だよ」
なんだかんだでここに来るまでに結構量食べてるし。ていうか君僕の倍は食べてるのに全然平気そうなのはなんだろうな。種族の差か。
恐るべき胃袋の深さに戦慄。
彼女は結局ものの数分で自分の顔よりも大きなわたがしを平らげてしまった。
「女の子は甘いモノは別腹なの」
とは彼女の談であるが、ぶっちゃけそっちだけでも僕より食べてる事実は変わりない。
ふたりで手をつないで階段を一弾ずつ昇る。
からころ。からころ。
涼莉の足元から響く下駄の音が胸に心地よい。つないだ手のひらから伝わる熱は、夏の空気の中にあってそれでもどこか落ち着く温もりを感じさせる。
祭りの喧騒を背中に受けながら、静かな世界を予感させる方向へ、一歩ずつ進む。
不思議な気分だった。
昂揚、静謐、熱気、涼気、喧騒、静寂。
相反するものに挟まれて、僕らは世界のなかにたったふたりだけ。
「ほかのみんなも居たのかな」
「わからないけれど、きっといたに違いないの」
そうだね。自然とそう思える。こんなに賑やかな時間、皆が楽しんでいないと損だと思う。
階段を登り切る。その手前、ふと大事なことを聞き忘れていた事を思い出した。
「涼莉」
「なあに?」
足を止めた。
涼莉は一段下の階段から僕を見上げていた。
祭りの光がきらきらと波のように揺れる。さらり、と風が涼莉の髪を優しく撫でた。祭りの熱気にあてられたか、若干紅潮した頬。心の輝きを映したかのように澄んだ瞳。
「お祭り、楽しかった?」
涼莉はきょとん、と首を傾げて。
「当たり前なの」
破顔した。
「そっか。良かったよ」
うれしさと、穏やかな気持ち。
そういうものに包まれて、僕らは階段を登りきり、鳥居をくぐった。
そうした先の、全部台無しにするような光景があった話
血。血がね、こう。ぶしゃーっとね。
ええ、衝撃的な光景でした。猟奇的、っていうのはきっと、ああいうものを言うんですね。
三日たった今でも覚えていますよ。
どちらも僕の知り合いなんです。一人は親友で、もう一人は姉の友人で。
まさかあんなことになるなんて……ええ、衝撃です。
いや、彼女の気持ちも分かるんですよ。何しろあの時の親友は……まあ本人に配慮して言葉を選ぶなら気色悪かった——ですからね。
お前誰だよ、みたいな。悪い冗談ならまだしも本気だからなおたちが悪いし。
まあそんな状態のあいつに、彼女が我慢ならなかったのもわからないでもないんですよ。
その結果の凶行だと思えば、まあ、仕方ないんじゃないんですかね。
というわけで。
僕の目の前では夕陽がリリスによってぐっちゃんぐっちゃんにされていた。
マジカルステッキでぐっちゃんぐっちゃん。ぐっちゃんぐっちゃん。
さっきまでの和やかで幻想的な雰囲気とか皆無である。
階段登り切ってまず見えた光景がこれだよ。ある意味俗世との境界線を超えたね。ははは、誰が予想したんだよこれ。
「ふぅ……」
リリスがひと仕事終えた様子で額の汗を拭った。
遠い。
この十数メートルが恐ろしく遠い。
しかし問わねばなるまい。
「あの……リリス?」
声をかけると、こちらに気づいたリリスが振り返った。
「……空? どうしたの?」
いやどうしたのはお前だよ。
僕の視線から思いを感じ取ったのか、リリスはああ、と頷いて。
「似合う? 浴衣」
「違う!!」
全力で頭を抱えた。
似合うけど!! 金髪に対して深い藍色の浴衣が妙に似合っているけれども!!
問題はそこじゃねえよ!?
「いやあのさ、今、潰してたのそれ……」
「うん……夕陽みたいな、何か」
いや夕陽だよ。気持ちはわかるけど夕陽だったんだよそれ。もう人間としての原型をとどめていないけど。つうか頑丈が形を持ったような夕陽をそこまでメタメタにするってどんな力だよ。
「いやあのさ、夕陽はちょっと頭があれだっただけで」
「……? 夕陽の頭が可哀そうなのは、いつも」
「確認するけどあんた一応そいつのこと好きなんだよな?」
当然、と胸を張るリリス。えー。なんていうか、えー。釈然としない。別に恋する少女が好きな人の悪口を言わない、なんて思ってるわけじゃないけどさあ……。
「なんていうか、今日の祭りに来るために夕陽、無理したんだよ。姉さんのスパルタ勉強で」
「翼の、スパルタ勉強? …………なんて無謀を」
リリスさんようやく本日初の真剣な表情。いや、だいたい無表情だからわかりにくいけどね。
「……つまり、これは夕陽?」
「だからさっきからそういってるじゃない」
お願いだから聞いてください人の話を。そしてこれから神聖な神楽舞を見に行くんだからそういう物騒な気配を浄化してください。マジで。
涼莉とか完全に引いてるっていうか怯えて僕の後ろに隠れてしまったし。ガクガク震えてるよ。さっきまであんなに楽しかったのに高低差激しすぎんだろ。
「そう……ごめんなさい夕陽。あなたがあまりにもその…………なんていうか…………こう。見るに耐えない存在だったから、つい」
言ってることもやってることも大概だぞこの女……。
まあ好きな人がどう考えてもおかしなことになってたら、そりゃショックだよな。うん。
そうでも思ってないと、僕の中のリリスのジャンル分けが光璃さんと同じ位置になってしまう。
「という事で、マジカル」
雑な動作でステッキを夕陽の残骸に叩きつけると、ぱぁっ! と光が溢れ、キラキラという音とともに、
「お、べが、ぎゃひっ! い、痛い! 痛い痛い痛い!! だめ、うわこれ、ぎゃあああ!!!!」
「修復の際には痛覚オフくらいしてやってよ!!」
相変わらず見た目と中身が乖離したマジカルっぷりである。
「あ、あ~…………な、何だったんだいったい」
光が収まった後には両手を地面についた夕陽がいた。
「あ、あれ? 空と涼莉? リリスさん? ていうか神社? え、もうこんな時間!?」
その様子で大体わかった。どうやら記憶をなくしているようだ。随分と都合のいい……。
しかもいつもの調子に戻っているし。ああ、いちど脳がやられたせいで正常化されたのか。酷い。何が酷いのかわからなくなるくらいいろんなことが酷い。
「さあ夕陽、もう時間だし綺月のところに行くよ」
「え、いやでも俺、何も食べてない……」
「大丈夫。さっき一緒に回った」
「ええ、マジすかリリスさん!? 俺何も覚えてないっすよ!?」
「いいからいいから」
「いいからいいから」
「いいのいいの」
「なんだよみんなして! なあ、いったい俺に何があったんだよ!!」
混乱を極める夕陽の背中を押す。
人間、覚えていなくてもいいことは覚えていなくていいのだ。
うん。
定番ネタのセリフだけ聞くとやけにアレだけど実際やってることは普通、というのをついにやってみたけれど実際にやってることも若干アレですなこれ。