僕と姉さんと迷子の子猫
思ったよりも長くなりました。
夏になっていの一番に思い出すのは、涼莉との出会いになるだろう。
そんな事を言ったら姉さんは『ええ? じゃあお姉ちゃんとの思い出はー?』と不満たらたらだったのだけれど、現在進行形で濃密な想い出を大量生産されている以上思い出す必要性を特に感じない。
とはいえ、僕と涼莉との出会いも元々は姉さんが引き合わせたものだ。さらに言えば、この出会いは涼莉にとっても僕にとっても余録のような物に過ぎなかった。
そう。
出会いなんて大層なものでもないのだ。こうして続く日々に比べて見せたら。
夏休みはまだ遠くて、雨の香りの強く残る六月末の日曜日。
しとしと薄いカーテンのように降り注ぐ雨の街中を、折りたたみ傘を広げて小走りに駆けていた。
ただしひとりではない。そして一緒にいるのは姉さんでもない。残念なことに。
「ほら夕陽急がないと間に合わなくなるよ。まあその場合は置いて行くけどさ」
「おいおい幼なじみ、そいつぁ酷いんじゃねえのか? 仮にも俺達は親友同士じゃねえか――おいこらなぜ足を速める」
「え? いや別に、なんか気持ち悪い雑音が聞こえてね」
「おいおい大丈夫かよ。お前の身に何かあったら大変だからな。何かあったらすぐに俺に言えよ?」
「あはは。夕陽は馬鹿だなぁ」
夕陽はなぜそんな事を言われているのかまるで分かっていない様子だった。まあ察しの良い夕陽は夕陽じゃない別の何かなんだけど。
ということで僕と夕陽は幼なじみだ。大変遺憾ながら。そして夕陽は姉さんを尊敬している。尊敬というか崇拝している。信仰している。そして症状は年々重症化の一途を辿っている。病状が進行している。
身長は中学三年生にして既に百七十後半に突入し、成長は止まる気配を見せない。そしてスポーツマンを思わせるしなやかな体と爽やかな笑顔。清潔感を感じさせる髪型。
やれやれ。本来なら彼女の五人や六人いてもおかしくない顔と性格だっていうのに。そして刺されればいい。
さて。
なぜ僕が日曜日という貴重な時間をこうして夕陽と共に消費しているのかといえば、それにはもちろん理由がある。それ相応の、相当の理由が。
「空。昨日から涼莉がいないの。夜までに探してきてね」
自室のベッドでヘッドフォンで音楽を聞いていたら、いきなりそれが抜き取られて、そんなことを言われた。
目を開けて飛び込んできたのは、こちらを覗き込むようにしてみている姉さんの笑顔。
「……ええと」
顔、近っ!
「どうしたの、空?」
「いやちょっといきなりで驚いてさ。涼莉、帰ってきてないんだ?」
「そうなの。昨日の朝からだから、もう丸一日。さすがに心配になってきたから、探してきてほしいの」
「うーん、姉さんの言いたいことは分かるけれど……」
しかし、涼莉は猫――『ねこ』である。
猫一匹を街中から探し出すというのはそうそう簡単なものでもないのではないだろうか。
闇雲に探したところで見つかるとは思えない。そんな特別なスキルを身につけた記憶もないわけで。
「それはなかなかに難しいよ、姉さん」
「そだね。でもお願い」
「――――――」
うわぁい、超強引。
第一、昨日から雨が降っていて外出する気にもならないのだ。どうにかして説得しないと、本当にこのままじゃあ外に押し出されてしまう。
ひとまず体をベッドから起こして、姉さんに向き合った。
向き合ったら部屋の惨状――というか部屋の扉の惨状が目に入った。
…………うん。
「わかったよ姉さん、とりあえず探してみる」
「ありがとう空! うーん、お姉ちゃん思いの弟を持ってわたしは幸せだよ!!」
満面の笑みを浮かべる姉さん。
その後ろには、綺麗に斜めに真っ二つにされた部屋の扉が転がっていた。
まあ、涼莉が心配だからあんな暴挙にでたのだろうことは想像に難くないので責めたりはしない。せめてきちんと直してくれるのなら。
ああちなみに断っておくけれど、何も姉さんは弟ならば姉のために何でもしなければならないとか、言う事を聞いて当然だとか、そんな風に思っているわけではない。正直、姉さんが探したほうが早いと思うのだけれど、涼莉がどこかに行ってしまったときに探すのが、いつの間にか僕の役割になっていただけの話だ。
多分、一番最初の頃の流れがそのまま来ているんだろう。
で。
さすがに僕一人で雨の中涼莉をさがすのは大変なので、夕陽にも手伝ってもらうことにしたのだ。姉さんが困っているといえば大抵のことは手を貸してくれるので、非常に便――ありがたい事だと思う。
とはいえさすがに夕陽も涼莉の普段の姿を知ってる訳ではないし、知っていたら知っていたで色々と問題だ。
だからこうして小走りになって、見落としがないようにあちらこちらを見回る羽目になっていた。
制限時間は今日の夜。
正直、見つかるかどうかは難しそうだ。
「なあおい空。やっぱり何かヒントでもないと、こんなの見つけようがないぜ? そもそも涼莉ちゃんはなんで帰ってきてないんだよ?」
「それがわからないから姉さんが心配しているんだと思うよ」
「そっか。たしかに雨もうっとおしいし、この中涼莉ちゃんが寒さに震えているとなると、さすがにちょっと心配だなぁ」
「ああ……そうだね」
そうか。雨か。
だから姉さんは。
「なんかこう、ねえかなあ。捜し物を勝手に見つけてくれたり、何でも願い事を聞いてくれる道具」
「あるよ」
「ま、そうだよな。そんな都合のいい道具があるわけ――あるのかよっ?!」
「夕陽、通りの真ん中でそんな大声出さないでよ、恥ずかしい」
「あ、ああ悪い、すまなかった」
軽く手を上げて苦笑いを浮かべる夕陽。
「…………え? もしかして謝罪ってそれだけ? 誠意足りなくない?」
「あれ、俺今そんなに悪いことしたのか……?」
「ほら土下座して謝らないと。生まれてきたことを全世界に向かって」
「はっはっは、相変わらず空は冗談がきついな! …………冗談だよな?」
「え?」
「まさかのマジ返しだよチキショウ!!」
頭をかかえる夕陽。本当にうるさいなこの男。
「って、そうじゃなくてだな。あるのか、そんな都合のいい道具が。だったら早速そいつに頼ろうぜ!!」
「あるよ。道具じゃなくて……道具じゃなくて……ええと」
道具じゃなくて。
なんだあれは。
「おいどうしたんだよ。そんな難しい顔をして」
「いや、アレをどう表したものかと」
「そんなに難しい物なのか?」
「うん……」
アレの形を想像する。
大きさは変幻自在で小さければ目に見えないサイズから大きいと雲を衝くサイズまで。
ただし重さは変わらず常に僕と同じ。なんか合わせているらしい。
色は赤と青と紫と茶色が混ざっているけれど基本となっているのはショッキングピンクとクリーム色。
形も不定形だけれど大抵の場合は綿毛の集まりに機械じみた足がわさわさと生えていて、よく鳥の巣がどこかに出来ている。温かいらしい。
主食は海水とバター。特に無塩バターが好みだとか。
主成分はグルコサミンとプルトニウム。ただし放射能は特にない。
どこでも生きられるけれど海に入ると体から黒い小さい同じようなものがいっぱい湧き出してきて面倒くさいらしい。
日本語は通じるけれど主言語はアセンブリ。グリム童話を読んでもらうと別の意味で怖い。
胡散臭い関西弁を使う辺りがまた得体のしれなさをパワーアップさせている。
たまに卵を生む。
空を飛べる。おならで。
「っていう感じなんだけど」
「なにそれ。ていうかなにそれ?!」
「なにそれって……夕陽の言うところの都合のいい道具」
「願い叶えてもらっても対価で何か大事なモノを奪われそうで怖いよ!!」
「まあ、奪われるんじゃないかなぁ……」
思わず、夕陽の下半身に視線を向けてしまう。
「――え、何? 嘘、やめろよちょっと! 嫌だよ!!」
「いや、僕に言われても。頼ろうって行ったのは君じゃないか」
「そんな得体の知れない存在だと知っていたら頼ろうとか思わねえよ第一俺の童貞を捧げる相手はすでに決めて」
「そこで姉さんの名前を出してみろブチ殺すぞ」
「…………ハィ…………」
優しい僕の言葉になぜか夕陽が真っ青になる。まあいい、いつものことだし。
第一。
「大丈夫だよ。別にアレは君の童貞を奪ったりなんかしない」
「そ、そうなのか……?」
「奪うとしたら処女だよ」
「どっちも嫌だああああ!!」
鳥肌を立てて青い顔を白くしてお尻を両手でかばう夕陽は、うん、実に滑稽だった。
さて。
夕陽で遊んでばかりもいられない。
雨はだんだんと強くなってきている。いくら涼莉とはいえあまり体にいい天気でもない。
ちなみに、アレに頼るの夕陽が強く反対してきたのでやめにしておいた。まあ、その意見には僕も賛成。アレは別に親切で願い事を叶えてくれるわけでもないのだから、よっぽどでもない限り頼らない方が身のためだ。
そんなわけでまた街をうろうろ見て回っているのだけれど、やはりそう簡単には見つからない。
時刻はもうすぐ十七時。そろそろ姉さんも痺れを切らす頃だろう。
ちょっとまずいな。
どちらかといえば見つからないだろう、と思っていた。それは当然のことで、常識的な考えだろう。
だからこの流れも成り行きも、当然のこと、そのはずだったのに。
内心で、涼莉が見つからないことに不安を覚えていた。
涼莉を信じていないわけではないけれど、何か不慮の事態が起きないとも限らない。でなければ、この世の悲劇はもっと数を減らすはずなのだし。
それが涼莉に降りかからないなんて断言できる存在はこの世にはないのだから。
大体。
僕と涼莉の出会いは、彼女の悲劇が原因だったじゃないか。
「……うん。そうだね」
「お? どうした空」
「いや……そろそろいい時間だし、一度帰ろうかと思って」
「っておいおい、本気か? 今から戻ったら次にもどってきたら暗くなってて探すどころじゃねーぞ」
「うん。だから夕陽とは今日はここでお別れだね。付きあわせて悪かったね」
「いや……ていうかここまできたら最後まで付き合うぞ? 俺も気になるからな」
こういうやつなのだ。夕陽は。
とても真っ直ぐで正直で。本当、暑苦しいやつなのだ。
「いや、いいよ。大丈夫」
「…………ん、まあ、お前がそういうってんならな。じゃあ、帰るか」
「僕は買い物をしていくから先に帰っててよ。冷蔵庫の中身、だいぶ少なくなってるんだ」
「そうなのか? じゃあ荷物持ち位ならやるぞ」
うーん。
気のいい奴なのは確かなんだけど、この鈍さにはもう殺意すらわくなぁ。この鈍さのせいで何人もの女のコがあえなく敗北している事を考えると、いい加減矯正すべきなのかと真剣に思う。
ていうかさ。
「……あのねえ夕陽。僕と君がBLだの何だの言われるのは、君がそうやってやたらと気を利かせることが原因でもあるんだよ」
「じゃあな空! 夜道には気を付けろよ!!」
素早い切り替えだった。
素直のいいところ悪いところ両面を笑えるくらいにみられるのはある意味貴重かも知れない。
ちなみに、さっきの噂は本当にある。本当にどうにかしたい。心底。
十九時。
夜だ。
やっぱり涼莉は見つからない。
さすがに少し寒くなってきた。
「ふう」
息が漏れる。
夕陽と別れて二時間ずっと探し続けているけれど、あいも変わらず手がかり一つ見つからない。
猫は見かけるんだけど、ね。
いつの間にか街の中央を外れて、すこし寂れたところへと来ていた。店のシャッターが降りているけれど、それは時間に関係はない。このへんの商店は軒並み店をたたんでいる。
このあたりには用事もなければ友達もいないので、滅多に足を運ばない。運ぶとすれば、それこそ知り合いにみられたくないときくらいだ。
だから予想外だった。
その、唐突な遭遇は。
「にぁっ!!」
小さく、鋭い、確かな声。
それは。
「涼莉?」
聞き間違えるはずがない、涼莉の声だ。
走る。ようやくつかんだ手がかりではあるけれど、それ以上に。
――今の声、何かがあったんだ!
ただの鳴き声ではない。切羽詰っていた。あるいは、不慮の事態か。
足に力を込めて走る。一度きりの声では大体の方向しかわからないけれど、こうなればもう自棄だ。虱潰しに当たってやる。
僕は声が聞こえてきたとおぼしき方向への角を曲がり、とにかくあたりを見回す。上も下も右も左も、見逃さない。
そして。
「涼莉っ!」
彼女を見つけた僕は声を張り上げた。
ていうか勝手にでっかくなっちゃった。
いやいやいやいや。ていうか、いやいやいやいやいやいや!!
「な、何やってんの、涼莉?」
涼莉は、壁に向かっていた。
何の建物だろうか。黒くて、継ぎ目がなくて、なんというか、得体が知れない。高さからして三階建てくらいだろう。
周りには他の建物はなくて、空き地のど真ん中にどーんと建っている。
うん。胡散臭い。
壁は垂直でつるつるしている。そして、涼莉はそれを登ろうとしていた。
とはいえ垂直で掴むところもないとあってはのぼりようがない。それでもすたたたと僕の身長の倍くらいの高さまで駆け上がるのだから野生って恐ろしい。
ていうか。
「いや本当、何してんの?」
「にゃっ?!」
ようやく僕に気づいたらしく、こちらを向いて愕然とする涼莉。
そんなに驚かなくても。
ていうか。本当。こんな壁、涼莉なら駆け上がるまでもないだろうに。
涼莉は僕の登場がよほど予想外だったのか、その場で固まってしまった。
そこに。
「にゃ~~」
「うん?」
弱々しい声が降ってきた。
そちらを見上げると。
「なん……だと……」
建物の上には猫がいた。子猫だ。ちりん、と鈴の鳴る音が聞こえたから、首輪をしているんだろう。飼い猫か。
……飼い猫が、なんでこんな訳の分からない建物の上に?
ていうかどうやって登った。とてもじゃないが登る方法はないぞ。見た限り、建物に屋上があるようにも見えない。見た目は長方形のブロックのようだ。
いや、それはどうでもいいか。今重要なのは、この上に子猫がいるということと、涼莉はどうやらあの猫を助けたいらしい。
とはいえ……。
「涼莉。君はあのコを助けたいんだよね? だったら、どうしてそんな格好をしているの?」
「にゃっ」
僕の疑問に、ぷいっと涼莉は顔を逸らした。どうやら教えてくれるつもりはなく、また方針を変える。
ふむ。
とはいえ、このままでは埒があかない。ただでさえ登りにくい壁は雨のせいでさらに条件が悪いだろう。それに、いくら弱い雨とはいえ、子猫の体力が持たないのではないだろうか。
さりとて僕にどうする力があるわけでもない。夕陽を帰したのは失敗だったか。いやしかし。
そんなことを考えていると、足に触れるものが。
たし、たし。
叩くのは、涼莉だ。
「ええと?」
「にゃっ」
くい、と首で壁を指す。これは……。
「そこに立てってこと?」
「にゃにゃ」
ふう。
何が何だかよくわからないけれど、とりあえず従おう。
壁際に立つ。傘に半分隠れた視界の向こうに涼莉が見える。上からは、時折ちりん、と鈴の音。
何だこの状況。
と。
「ふぅぅぅぅ――にゃっ!!」
体をしならせ、涼莉が弾丸のように走る。
その勢いは雨に塗れた泥を僕の身長よりも高く跳ね上げ、振りかかる雨粒を弾くほど。
っておいちょっとその勢いで僕に向かってきて何をする気だっ?!
「ちょちょちょちょ、涼莉さあああああああああああっ?!」
泥がひときわ高く跳ね上がる。
涼莉の姿が影を残して消える。
とす、と音と重みが手に返る。
僕のやるべき事は瞬時に理解した。
「涼莉――」
軽く膝を曲げ、つま先に力を込めて。
「飛べぇっ!!」
僕は大きくジャンプして、傘を全力で真っ直ぐ上に放り投げた。
見上げる視界に広がる傘の先。その先で、勢い良く飛ぶ硯の姿。
行けるか――いや、行け!!
壁に足をついて、一歩、二歩、三歩。そこから先はもうわからない。駆け上がる涼莉の姿を睨むように目に焼き付けて。
「あだっ?!」
着地に失敗。こける。ってそれどころじゃない!
見上げる。
「あ……」
ちょうど視線の先では、涼莉も同じように失速していた。あと数センチ。ほんの少し。
何か、どうにかできないか。いや僕にはそんな力はない。じゃあどうする。何も無いのか? 何か……。
「俺に任せとけよ、親友」
「え……」
いつの間にか。
夕陽が僕の傘を持ってそこに立っていた。
傘から手を離すと、それはふわりと宙に浮いて。
「ポチ、運べ」
風に巻かれて空へと登っていった。傘はふわりと涼莉を受け止めて、そのまま上へと登っていった。
「……着いて来ていたの?」
「いや? 一度帰ったぜ? まあけどやっぱり気になったんでな。探してたんだ」
「ずいぶんとタイミングがいいねぇ」
「ああ、俺もびっくりだ」
夕陽のことだし、嘘を言っているわけでもないんだろう。となると、ほんとうに偶然、このタイミングでやってきた分けか。
いやはや、主人公だね。
涼莉は子猫を傘の上に乗せて降りてきた。
「はい。お疲れ様」
降りてきた傘を受け止める。風の支えが無くなって微妙に重い。ぐらり、と傘が傾いた。
と、子猫が慌てて傘に爪を立てた。
バリバリッ!!
「やめてっ!!」
しかし僕の懇願虚しく傘は爪で穴があいてしまった。あーあーあー……。
降りてきた子猫は涼莉の後ろに隠れる。が、しっぽでたし、と叩かれると驚いたように駆けて逃げていく。が、少し離れたところで振り返って。
「なー」
小さく鳴いてそのまま行ってしまった。
「……よかったの?」
「な」
僕の疑問に涼莉は小さく答えた。
……まあ、いいか。
「さて、と。それじゃあ帰ろうか。姉さんが心配してるよ、涼莉」
涼莉を抱える。雨に塗れた体は冷たかった。
家に帰った僕を迎えた姉さんは一言。
「うん、ギリギリかな」
「そう…………」
アウトだったらどうなっていたんだろう。想像するのも怖い。
とりあえず傘をダメにして雨にぬれていたので、お風呂に入る事になった。夕陽は今日はこのままうちで夕食を食べるらしい。まあ、役に立ってもらったんだし文句をいう立場にはないだろう。ちっ。
「ふぅ……」
湯船に浸かっていると疲労がじんわりとしみ出していくような心地良さがあるね。
そのまま、体の芯まであっためるように肩までお湯に浸かっていると、脱衣所の扉の開く音が聞こえた。
「空ー」
「何、姉さん?」
「涼莉も雨にぬれているから、一緒に入っちゃって」
――は?
――。――――。――――――。
え?
思考が停止している間に、いつの間にか涼莉が浴室に立っていた。
「ね――姉さあああああああん?!」
「なあに、空?」
「なにこれいや、どうしたのこれ?!」
「んふふふふ。わざわざ涼莉のために用意したんだよ? かわいいでしょ、にあってるでしょー」
聞こえてくる声は自慢げだった。自身満々だった。いや、たしかに似合っているけど、似合い過ぎててちょっとどうしたものかと。
涼莉は水着姿だった。しかもスクール水着だった。胸にはひらがなで「すずり」と名札がついている。マジで専用によういしたらしい。
すらりと伸びた手足は細くてしなやかで色は白く健康的。ところどころ小さな傷があるのは、まあ普段から外を出歩いているせいだろう。背丈は耳も合わせて僕よりも多少低いくらい。髪の色は青みがかった灰色で、そこから飛び出す猫の耳も同じ色の毛に覆われている。
その腰の少ししたのあたりからはすらりとしたしっぽが伸びて、ゆらりと揺れた。
女のコ。
ネコ耳姿の女のコが、スク水でそこに立っていた。見た目の年齢は十と少しと見ていいだろう。
「うにゃ」
恥ずかしそうな声が浴室に響いた。
ええと。
まあつまり。
これが、涼莉のもうひとつの姿、ってことになります。ええ。
「はぁ」
「にゃー」
とりあえず、揃ってお湯に浸かった。ふたりとも体が冷えていたことは確かだし、特に涼莉の方は昨日からずっとあの壁に挑んでいたらしい。そりゃあ疲れようってものだ。
かといって僕がすぐに外に出れば姉さんがなんて言うかわかったものでもない。
ということでこんな状況。
背中合わせでこうしているとなんとなく落ち着いてくる。
正直なところ、涼莉の姿は心臓にかなり悪かった。なにしろその容姿はどう控えめに言っても美少女と言って過言ではない。その上であんなマニアックな姿をさらされたら、慌てようってものだ。
「そういえば」
「なあにー」
最初は恥ずかしがっていた涼莉も、今はのんびりとしている。少し視線を向ければ、耳がくたりと寝ているのが見える。
「あんなに大変だったのなら、僕らを呼びに戻ってくればよかったじゃないか。いや、そうでなくても、その姿になればすぐに助けられただろうに」
「むー。違うのー。涼莉は、涼莉がそうされたみたいに涼莉みたいな子を助けたかったのー」
「…………というと?」
「あの子はとても怖がっていたの。高いところじゃなくて、ひとりなのを。涼莉と同じだったの。だから、助けるためでも涼莉があの場所から居なくなるのはダメだったし、涼莉がこの姿になっちゃったら、それはズルだもの」
「ずるい、かなぁ……まあ、涼莉がそう思うのなら、そうなのかもね」
「にゃぁ」
ちゃぽん。
今回の後日談というか、ちょっとしたおまけ。
僕は風邪を引いた。
雨に濡れたのと、疲れてろくに髪を乾かさずに寝たのがまずかったらしい。まあ、自業自得である。
で。
「にゃぁ」
「あのう、涼莉さん?」
「なあに?」
「どいてくれませんか? さすがにちょっと重……っててていたたたたたなんでもないなんでもないです!!」
ぎゅう、とほほをつねられた。
ベッドで眠る僕の上に、涼莉が寝ていた。ただしいつもの猫の姿ではなく、青みがかった白いワンピースの姿をまとった少女の姿で。
はあ。
他所の家がどうかは知らないけれど、我が家のパワーバランスは常に女性側に支配されている。つまり僕は最下層というわけである。ましゅまろも声からするにどうやら女性らしいしね。いやはや、肩身は狭くなるばかり、ですよ。
そんなことを考えていると、涼莉が僕の瞳を覗き込むようしして見ていた。
「ええと、何か?」
「うにゃ。あのね、空」
ぴこぴこと耳が動いて、ぱたぱたとしっぽが振れている。なんだろう。
「心配、した?」
「え?」
「だから、涼莉が帰って来なくて。ママみたいに心配した?」
「ああ……」
どうだろう。
考える。
「いや。涼莉ならきっと大丈夫だって信じてたからね」
「むー」
ぷくっと頬をふくらませた。心配して欲しかったのだろうか。とはいえ、素直に答えるのはなんとなく気恥ずかしかった。
だから。
「でも……」
「にゃ?」
ほんの少しだけ、素直に答えよう。
「見つけたときは、ほっとした」
「にへへ。にゃ」
本格的な夏の前。
暖かな日差しに包まれて、僕らは眠った。