僕と姉さんと親友の補習
玄関を開けると、そこに五体投地をした男がいた。
マンションの部屋の前の廊下でやるもんじゃない。というか、普通にただぶっ倒れているようにしか見えない。なぜ僕がそれを五体投地と判断できたのかというと、つまりまあそいつが常習犯だというだけの話である。
「…………何やってんの、夕陽」
「お前に頼みがあってきた」
倒れたままの姿勢で答えが聞こえた。シュールを通り越して不気味である。
というか、初めて見たときは馬鹿にされたと思った。
今では怒りを覚える前に呆れそして悲しくなってくる。
……幼馴染で親友、なんだよなあ……。
付き合いを考えたほうが良いのだろうかと真剣に考えることもあるものの、深く考えるとこの程度の事で付き合いを考えるなら僕の友人関係が壊滅する。まあ夕陽という人物像を捉えた時にこの程度の瑕疵はお茶目みたいなもんなんだけど、長年の付き合いをもってしてもたまに心が折れかけるからな……特に今日みたいに朝一番でこんな光景を見た日には。
「頼みごとくらい構わないけどさ、そういう絵面からしてインパクトあるのやめてよ」
うちの左隣の部屋はジュス様が住んでいるから別に構わないけど右隣の部屋の九十九川さんは一般家庭なんだよ。小学校に入る前の双子のこどももいるんだよ。教育に良くないものは見せられないんだよ。
「ああ、あの双子ちゃんならさっき俺を踏み越えていったぜ。あいつらは大物になるな」
「純粋無垢なこどもにいらん経験積ませてんじゃねえよ」
将来人を平気で踏みつけていくような人間になったらどうするつもりだ。
具体的には光璃さんみたいになったりとか。
ずどむ。
何故か目の前の空間で謎の小爆発が発生した。念動力と自然発火の合わせ技の明らかな脅迫であるが、その前に僕のプライバシーについて一度皆さんと話しあうべきかと存じ上げます。毎度毎度しつこいとか言うな割と深刻に精神に疲労がたまってくんだよコッチは。
ちくしょう。
さてさて、自室に招き入れた夕陽の頼みを聞いてみると、その内容というのはごくごく単純なものだった。
つまり。
「勉強教えてください。マジで」
だそうだ。
ちなみに本日八月二十四日。祭りを明日に控え、このあたりの地域はにわかに活気づいている。流石に県外から人が集まるようなイベントではないが、この街とそれに隣接する地域の人々にとっては賑やかなイベントだといえる。
で。
「祭りに出たけりゃ宿題を終わらせて補習に合格しろ、と」
「ああ……ちくしょう、オフクロも無理難題を押し付けてきやがるぜ……」
なぜか切羽詰まった表情の夕陽だがむしろ切羽詰まってんのは君を教えている教師陣だろうよ。うちの学校の夏休みの補修というのは、あくまでも成績不振の生徒に対する救済措置である。
そのため、その授業の内容はいくらか簡単なものに設定しているらしい。また、普段より時間をかけてわかりやすく、を心がけているそうだ。
そんな補修を終えるためには、どうしても超え無くてはならない壁がある。テストだ。
テストで合格点を取ることで授業内容を身に着けたと判断され、補修は終わりになる。逆を言えば、どれだけ補修を受けてもテストに合格できなければ夏休みの間えんえんと授業が続くハメになるのだ。
そんなテストを、未だに受け続けている夕陽。間違いなく前代未聞の事態である。
……泣きたいのは間違いなく教師の方であろう。
さらに言えば双子の鬼神も自分らの主がこんなんでほとほと泣きたいところだろう。
「夕陽もさあ……あの二匹の主なんだし、もうちょっとしっかりしてあげなよ」
「あー? あいつらはお前が俺に押し付けたんじゃねえか。大体あいつらの主って感じしねーぞ。あいつら自由すぎるし」
「鬼神の力を自由に使える身分のくせに自覚が全くないんだもんなぁ……」
そりゃまあ、鬼神の力を削いだのは姉さんだけど、そもそもそのきっかけを作ったのが自分だって自覚はないのかね。
風神、雷神が力を貸してくれるっていうのは、綺月並の権能を手に入れてるって意味なんだけど。
しかし、せっかく慕ってくれている存在がいるというのにそれに気づかないってのもなかなかに罪なもんだとため息を漏らす。リリスにしても、これからまだまだ苦労は続くだろう。
「なあ頼むよ空、祭りにいけねーと綺月のやつになんて言われるか……」
「君の論点はそこか」
「あとはまあポチとタマも連れてけってうるせーしリリスさんも絶対来いって言ってるし」
お、リリスしっかりアプローチしてるんだ。うむうむ。
「それに翼さんの浴衣姿が見られるだろうしなおぶげはぁっ!!」
痛い。
夕陽の顔面にぶつかった僕の膝が悲鳴をあげていた。やれやれまったく。
「お前何すんの!?」
「あ? てめぇ何人の姉捕まえて勝手に盛ってんだ、ああ?」
「ゴメンナサイスミマセンワタシガワルカッタデス……」
夕陽がカタカタと震えている。
チッ、床が振動してうぜぇな……。
「お前たまに人を人と思っていない様な視線をすることがあるよな……」
「え、そうかな?」
それがどんな目付きなのかはわからないけれど、ほめられたものではない事は確実である。
「ていうかねえ、リリスが誘ってるんだからリリスの浴衣とか楽しみなよ」
「リリスさんが浴衣……? うーん、見たことねえし想像つかねえな」
それはまあ、確かに。普段着以外でイメージできる彼女の衣装といえば、フリフリヒラヒラの魔法少女姿だろう。僕が知っているのは基本フォームとテスタメント、それともうひとつくらいだけれど、夕陽はもうふたつほど知っているそうな。まあ、いずれも色や見た目に違いはあるもののフリフリヒラヒラしていることに違いはないらしい。
「ま、お前の言うことは正論だし聞いとくさ」
「……………………」
「なんだよその煮え切らない顔は」
「いや」
そうやって自分の過ちを素直に受け止められる人間性を持っていてどうしてこう、色々と残念なんだろう。いやまあ、基本僕や綺月、姉さんがいないところでは内外ともにイケメンなんだけどさ……。
「にしても勉強ねぇ……実際夏の補修でどうしようもないなら僕にもどうしようもないとしか言いようが無いんだけど」
はっきり言うが、僕の学力もそう大したものではない。テストの点はそれなりの点数をとっていると自負しているが、あれはどちらかというとテクニックでとっているようなものだし。綺月のように、しっかりと知識を身に着けている、というわけではない。
なので人に教えると言う事は苦手なのである。
教師が本腰入れてわからない相手に僕が何ができるのかって話だよ。
「……ま、そんな事は君もよくわかってるか」
「いやぁ、俺としちゃあお前の教え方がわかりにくいってこたねえが。まあとにかくそういうこった」
つまるところ夕陽があてにしているのは姉さんである。
姉さんの教え方が上手かどうかは別として、現状夕陽を手なづける役においては誰よりも上であることは間違い無いだろう。夕陽が姉さんの言葉に逆らうことはおよそあり得ないと言って問題ない。
「まあ実際高校進学については最悪別々になることがあり得るにしても、そのレベルの下限を何処までも許容するってのは僕としても全力で阻止したいところではあるね」
学力が人生のすべてなどと言うつもりはないが、将来を明確に決めてない以上その選択肢は多いに越したことはない。それを増やすにはレベルの高い学校へ進学するのが手っ取り早いのが現実だろう。
やめたけりゃやめればいいだけの話だし。
そこまで考えて、先日の綺月の言葉が脳裏に浮かぶ。
……あれはあれでどうにかしないとな……。たとえ綺月が納得して高校進学を断念したとしても僕が嫌だ。身勝手ながら、綺月の選択肢も勝手に増やす手段はどこかで講じなくてはならないだろう。
「………………ぉぉぅ」
「何、いきなり人の顔凝視して」
「んーにゃ別に、ちょっとびっくりしただけ」
何故に。
「んー」
夕陽はしばらく天井に視線を彷徨わせて。
「ん……ま、なんかありゃあ手は貸すぜ。つうか、なんかするなら俺も混ぜろよ? 仲間外れにされたら流石に泣くかんな?」
「わかってるよ。嫌だって言っても巻き込むからね」
「ああ楽しみに待ってんよ」
…………やっぱイケメンだなこいつ。
さて、勉強である。
姉さんにお願いする。しなければならない。まあ夕陽の全力の頼みだ。全力の頼みが五体投地だ。それでいいのか? いいんだよなぁ……。
「君は人にお願いするときにもうちょっとやり方を考えたら?」
思わず苦言を呈してしまった。
「え? だって五体投地以上に全部を投げ出してる姿勢ってないじゃん」
「そもそも五体投地は相手にお願いをするための姿勢じゃねえよ」
神様に対する礼拝である。
「とにかく姉さんにお願いするわけだけど、まあまず間違いなくなにかしら要求をされるだろうね」
「だろうなあ。いや、別にお願いする立場だし教えてもらえるならなんでもすっけどよ」
ちらり、と夕陽の視線がためらい気味に向けられた。
まあ、問題点はそこだ。
つまり。
「そのお願いを、なぜか僕が担当することになった場合は……うんまあ、何とかするよ」
諦めの境地だった。まあ、そうでもしないと大地が明日のお祭りにいけなくなる可能性が大きいわけで。せっかく綺月の晴れ舞台なら、皆揃ってみたいところだ。
「ひゃっほおおおおおさすが親友! ありがてえ恩に着る、この借りはいつか必ず返すからな!!」
「腹の底からのいい笑顔はいいんだけどさ、五体投地ダメ出しされて今度は大の字仰向けってそんな格好で大喜びされてもこっちの気分は超微妙だよ!!」
と、いうことで。
「姉さん、夕陽の勉強を見てあげて欲しいんだけど」
「どうか翼さんお願いします、このとおりっ!!」
がばぁっ! と大地が三点倒立でお願いする。突如室内に出現した謎の生物に涼莉が全身の毛を逆立たせてましゅまろにツメを立てた。
……なぜかましゅまろにガンつけられてるんですけど泣いていいですかね。あ、ダメですかそうですか。まあ男がないてても鬱陶しいだけだもんね。
夕陽いつか泣かす。
というかこの男さっきから薄々勘付いていたけど、とにかく頭を下げればそれが誠意になるとか勘違いしてないか。むしろふざけてるようにしか見えないって気づいて欲しいんだけど。
しかしそこはさすが姉さん。
困ったような笑顔を浮かべながら、
「ゆうちゃん、お願いするときは普通にした方が伝わりやすいと思うよ?」
ぱしんと軽く足払いで夕陽の腕を鮮やかに払う。
「おべはぁっ!?」
当然落下し床にたたきつけられる夕陽。無様な悲鳴を上げた。
「夕陽、大丈夫?」
夕陽の頑丈さを考えれば問題はないだろうけれど、打ちどころが悪ければ勉強どころではなくなることもあり得るだろう。
念の為に声をかけると。
「……う、うへへへ……翼さんの、足…………」
――手遅れか。
「姉さん、僕いきなりやる気がなくなってきたんだけど」
そしてそれと同時に殺る気がうなぎのぼりで急上昇だ。
「まあまあ。ともかく、ゆうちゃんのお勉強は、おねーちゃんに任せなさい」」
ふんす、と鼻から勢い良く息を吐きながら胸を張る姉さん。姉さんがこういうのならば大丈夫だろう。そう、姉さんならばきっとどうにかしてくれる。どうにもならないことでも無理矢理に。
にっこりと笑った姉さんは倒れて気を失った夕陽の襟首を掴み持ち上げ――きれずに引きずってリビングへと向かう。
その途中ではっと何かを思い出して、振り返った。
「ああそうだ。ゆうちゃんこんなだし、空に代わりに別の用事を片付けてもらおっか」
「……うんまあ、最初から覚悟はしてたし」
むしろ何もなしに面倒事を引き受けられる方が不安を誘う。
「うん、それじゃあね――」
そうして、姉さんの口から告げられた用事に。
僕は心底頭を抱える思いで、天井を見上げるのだった。
そうして今日の終わりの話
家に戻ると、まだ勉強会は続いているようだった。ようだった、というのは現場を見ていないからである。
リビングから聞こえる、血を吐くようなうめき声や空気を切り裂く絶叫が、そうなんだろうと確信させるだけだ。
自室に戻ると、温かい夕飯が用意されていた。姉さんが作ってくれたんだろう。夕飯というか、日が変わる直前といった感じですでに夜食の空気だけれども。
「…………はぁ。無駄に疲れた」
肩にのしかかる疲労感の幻想と闘いながらテーブルの前に座る。
姉さんの用事は、体力よりも精神の疲労を強いるものだった。
物理的な命の危険も当然あったりはしたんだけれど、それよりもなんかこう、いろんな理不尽に対しての抵抗感とか反感とかそういうものが積み重なって、ねえ。
確かに夕陽向きの案件だったしさあ。そういうのは僕向きではない。
……というか、シスターと一緒に行動すると精神ガリガリ持ってかれる。なにしろあの人が積極的に僕の精神持ってくし。勘弁して。
「そらぁ……」
ベッドの上の涼莉が人化した。
「涼莉? ああ、もしかしてこの御飯、涼莉のも一緒なの?」
こくり、と頷く涼莉。
そっか、なるほどね。確かにひとりの分量としては異常な量だと思ったんだ。
なにしろご飯はどんぶりに入っているしスープも同じ。三つのおかずは全部大皿。とてもじゃないがひとりで食べられる量ではない。うん。
…………で? どうしてお箸がひとつしかないんだろうね。
「ママが、空に食べさせてもらいなさいって」
ぐうぅぅぅ。
と、涼莉のおなかから音が聞こえる。姉さんに言われて素直に待ってたんだろうなぁ……。
…………いや。
リビングからは相も変わらず地獄を呪うような悲鳴が聞こえてくる。もう一膳お箸を持ってくるにはリビングを通るしかない。無理だ。嫌だ。そんな事したくない。だから涼莉も姉さんから離れてここにいるわけで。
……………………つまりまあそういうことなんだろうけどさぁ。
姉さんはたまに訳の分からないイタズラを仕掛けてくるな、まったく。
はあ、仕方ないか。暑いけどそう言ってもいらんないし。
「涼莉、一緒にご飯食べようか」
「うにゃ」
猫耳をピンと立てて涼莉が駆け寄って、テーブルの向こう側に座る。
……?
「なにしてんの涼莉?」
「にゃ? ご飯、食べるんでしょ?」
「食べるけど、それじゃあ食べらんないでしょ。お箸一つしかないんだし」
「にゃー。なら涼莉、空が終わるまで待ってるよ?」
ええ娘やな君。
「そんなまどろこしいことすることもないでしょ。ほら」
ぽんぽんと。あぐらをかいた足を叩く。
「…………にゃ?」
涼莉が首をこてん、と横にして固まった。
どうしたんだ一体。完全に固まったぞ。
「まあいいか」
席を立ち、涼莉の後に座って彼女を抱きかかえて股の間に座らせる。そのまま机をよせてお箸を手に取る。
これで食べやすいだろう。
「はい涼莉、あーん」
「ひにゃぁっ!?」
涼莉再起動。ご飯にはさすがに反応したらしい。
「ほら、口開けて」
だきかかえた涼莉の口元に白米を近づける。
「にゃ……あー……ん」
ぱくり、と食べる涼莉。それを見て、僕もご飯を口にした。
やれやれ、騒がしい一日だったけれど、最後の最後でほっこりできてよかったよ、全く。
「うにゃぁ……」
涼莉がなぜかガッチガッチに緊張してるけど。まあ他人に食べさせてもらうって自分の自由が聞かないわけでそれもしゃーなしかな。僕がうまく落ちつけながらやるしかないだろう。
髪を指先で撫でながら、更におかずを涼莉の口に持っていく。
……なぜか更に硬くなってくぞこの娘。
そうして。
落ち着けようとすればするほどなぜか緊張を増してゆく涼莉と、それをどうにかして落ち着かせようとあれこれと知恵を絞る僕の食事は、いつもの倍以上の時間をかけることとなった。
はて。
なんだろうね、一体?
涼莉さん超役得