僕と姉さんと姉さんの幼なじみ
作中は夏真っ盛り。現実もそろそろ暑さがいい具合になってきました。
どーん。
マンガならばそんな擬音がついてしかるべき家。家というよりお屋敷、という言葉が似合うだろう。
日ノ影邸は有り体に言って、そんな家だ。
夏休みに入って一週間。
『さあ、宿題をやっつけるよ!』
という姉さんの提案により僕らは光璃さんの家へやって来た。
メンバーは僕と姉さん。それに加えて、綺月と夕陽。そしてなぜか涼莉も。
この街どころか日本でも有数の大富豪である彼女の家は、まあでかい。
塀や門扉がすでに僕の背丈の倍以上の高さがあるし、本宅意外にも敷地内に複数の離れが存在しており、そこでは普通に二世帯が生活できるだけの広さと設備が整っている。
本宅にしたって二階建てだけれど一階の高さは僕が姉さんを肩車しても天井に手が届かない程というのだから、その巨大さ、広大さは推して知るべしといったところか。
というか、門をくぐったところにセグウェイが置いてあって移動にそれを使わないとやたらと時間がかかるというのだからもう。
車で迎えをよこしてくれるという話だったけれど『友達の家に遊びにいくのに、そんな大げさな』という姉さんの主張から、雨でも降っていない限りはそういうのはお願いしていない。
まあ、綺麗に手入れをされた庭を見ながらの移動というのもなかなかに心が落ち着くものはある。
……むっちゃくちゃ、暑いですけどね。
真夏ですから。
まあ、リゾート島やプライベートビーチを持っているというだけで僕らとは住む世界が違うということはあっさり理解してもらえるのではないだろうか。
そう。プライベートビーチ。
今回の勉強会には、そのビーチへ遊びにいく予定を立てる、というのも目的に含まれている。
十分ほどで、本宅についた。
「あいかわらず、光璃さんちは大きいわねえ」
「いつ見ても圧倒されるよね」
口を開いて玄関の扉を見上げる綺月に同意する。
日ノ影邸は西洋風のお屋敷で正面からみるとシンメトリーのデザインをしている。色はクリーム色で太陽の光を浴びて燦然と輝く姿は威容を感じさせた。
初めて来たときは扉をあけて良いものか真剣に悩んだものだ。
「さて、それじゃあはいろうか」
「そうね。こんこんこーん、と」
姉さんが扉を叩く。
するとすぐさま、内向きに扉が開かれた。
大きな扉だというのに音はわずかにしか響かない。手入れが行き届いている何よりの証拠だろう。
そして、扉が開いた先には。
「お待ちしておりました、響様、水津弥様、朝瀬様」
「お、お待ちしておりましたっ」
「すずちゃん、お久しぶりですっ」
恭しく頭をさげるメイドさんがふたりと、元気に手を振るメイドさんがひとり。
日ノ影ではなく光璃さんが個人的に雇っている三人のメイドさんだ。
「お世話になるね、千影、百羽、十乃」
姉さんが声をかける。
三人は左からそれぞれ小、中、大という背丈。
ちなみに歳は左から高二、中三、小六となっている。
「あっはっは! いやあ、いつ見ても見事な階段具合ですな!」
「相変わらず命が惜しくないのかな夕陽は……」
ぎろり、と千影さんが夕陽を睨んでいるけれど、夕陽は姉さんを見てだらしなく顔を緩めるのに忙しくて気づいていない。
……うん、本当、早いところこの男のこういう部分はどうにかしないとね。本人以前に僕や綺月の気苦労がとんでもないことになる。
三人のメイドさんは渚姉妹。
長女、渚千影。次女、渚百羽。三女、渚十乃。
渚家は昔から日ノ影に仕えてきた一族だそうで、彼女たち三人はとくに光璃さんと個人的にも親しいらしい。それで、家ではなく個人で契約をしているのだそうだ。
千影さんは三人の中で最も背丈が低く、綺月よりやや高いくらい。前髪はパツンと揃っており髪も肩口で綺麗に揃えている。ノンフレームのメガネをかけており、その奥の視線はやや鋭い。姉さんと同じく滝空高校に通っており、光璃さんと同じクラスらしい。というか、したらしい。どうやってかは知らないが。
次女の百羽さんは姉さんと同じくらいの背丈で、前髪は千影さんと同じだけれど後ろは長く首の後でまとめている。千影さんが見かけに対して顔が大人びているのに対して、こちらは歳から比べるとやや童顔。あと特筆する部分でもないけれど胸が大きい。とにかく大きい。性格はおとなしいというより引っ込み思案で、僕らが視線を向けている現状、どんどん顔が赤くなっていっている。こう言ってはなんだが、面白い。
最後に三女の十乃ちゃん。こちらはまだまだ見習いも見習いといった所らしい。涼莉ととても仲が良く、平日の昼間なんかは涼莉が遊びに来ているらしい。今も僕の肩から降りて人形になった涼莉を高い高いしている。そう。彼女はとても背が高く、ぶっちゃけ僕よりも高い。胸もお前本当に小学生かよ、とツッコミを入れたくなる。というかすでに仕事を放棄している気がする。いいのだろうか。いいんだろうな。
ちなみに、映画館に大人ふたり子供ひとりではいろうとすると大人料金を請求されるのは次女と三女である。だから何というわけでもないが。
千影さんが三人を代表してもう一度頭を下げた。
「今日は勉強会と夏の予定だとか。すでに準備は出来ていますので、ご案内いたします」
「うん、ありがとうね。でも千影ちゃん、そんなに固くならなくていいのに」
「仕事中ですので」
「むーん。んー」
姉さんは不満げだ。だけど僕は彼女の言うことはもっともだと思う。あれだよ、ほら、コンビニでもバイト先に知り合いが来たからって雑談するわけにはいかないのと同じだ。いや、コンビニのバイトとかしたこともないけれど。
と、姉さんがなにか思いついたらしい。
ピコン、と指を立てる。
「空、ゆうちゃん、ちょっと後ろを向いて?」
「……またいきなりだね、姉さん。念の為に聞くけど、なん」
なんでそんな事を、と聞こうとしたら、いきなり夕陽に腕を引っ張られた。
「理由なんかどうだっていいじゃねえか! 翼さんがそう言ってるんだからよ!!」
……駄目だこの男、完全に頭の中身が茹だっている。
いくら姉さんの言う事だからといって全てをほいほいと受け入れたら生命がいくつあっても足りないんだけどなー。
けれどこうなったら抵抗するだけ無駄と、後ろを向く。
ちょうど綺月と向かい合う形になった。
「姉さん、何するつもりだと思う?」
「翼ねーさんのやることでしょう? あなたにわからないのにわたしがわかるわけないじゃない」
「いやほらでも女の子同士ということで何かさ」
「うーん、とはいっても、ねえ」
さすがに綺月にもどうなるかわからないらしく、首を傾げる。
と。
「…………って、翼ねーさんいったいなに――ぶっ?!」
僕らの後ろを見ている綺月がいきなり顔を真赤にして吹き出した。
「ちょっと翼さん一体何……きゃああああああっ?!」
「つ、翼さん! さすがにそれはあああお姉ちゃん動かないで! 見えちゃ、見えちゃうよっ!!」
同時に響く千影さんと百羽さんの悲鳴。
え? 何? 何したの姉さん?!
思わず振り返った。
と。
「――――――は」
「だめええええええっ!!!!」
ぐぎょ。
「あががががががががががっ!!!!」
振り返った僕の視界が一瞬で暗闇に覆われ、同時に眼球に凄まじい圧力が加わる。
ちょ、痛、シャレにならないよこれ!!
「痛い痛い痛い! 眼が痛いけど同時に首が!! ぎゃあああああっ!!」
首がぐいぐいと後ろに引かれる!
「空、だだだだだだだだだだめだよ! ダメだから! だめなんだからね!!!!」
「ちょ、綺月、痛、なにこれなにこれ首、眼おごおおおおおっ?!」
「おお、千影ちゃんこれは、思ったよりも……」
「や、やめなさい翼さん! 百羽、ちょっと助け……」
「お、お姉ちゃん、うわぁ、うわぁ……」
「駄目だこの子使い物にならない……! 十乃! 十乃ってば!!」
「わーい、相変わらずすずちゃんの耳は気持ちいいですー!」
「とーのは相変わらずなの。ほっぺたふにふにしてるの」
「あなたたちふたりだけでほのぼのしてないでこっちも助けなさい!!」
「く……、いったい後ろでは何が……しかし、翼さんの命令に逆らうわけには……うごごご!!」
「あんな、あんな……ふわああああっ!!」
「あ、あれちょっと綺月さん、なんか指が、指が食い込んできてええええええええええっ?!」
「ほらほら千影ちゃん、もっと柔らかく笑顔で、ね?」
「誰のせいだと思ってるんですかっ」
「おね、おね、おねええええ」
「…………なにしてるんですか?」
その声と同時。
ばちん、と何かがはじけて、僕らは互いに引き剥がされた。
ぱっと明るくなる視界。
同時に、上を向いていた視線に、その人物の姿が飛び込んでくる。
日ノ影光璃。光璃さん。
彼女を表すのに必要な言葉はおそらく無限に並べても足りないし、一言で済ませることもできる。だから楽に済ませよう。
日ノ影光璃は綺麗な人だ。
白い肌とか、ぱっちりした瞳とか、銀色の髪とか、すらりとした体躯だとか、ほっそりした指先とか、そういうひとつひとつのパーツが圧倒的な調和をもって彼女という存在を形成している。
初めてあった頃から身長も伸びて表情からは幼さも消え、髪型も容姿もずいぶん変わったというのに、印象だけは変わらない。
日ノ影光璃は綺麗な人だ。
その光璃さんはシャツとスパッツという、この屋敷には似つかわしくない庶民的な格好をして現れた。
唯一、髪留めをアクセサリーとして身につけていた。
「ふう……翼ちゃん、だめですよ。あまり千影さんをいじめては」
「えへへ、ごめんごめん。あんまり千影ちゃんがかわいいから」
「千影さんがかわいいのには同意ですけれど、ほら、おかげで空くんが大変なことに」
え、僕ですか?
「…………そら、なんかパンダみたいになってるけど、どうしたの?」
「…………………」
さあ、なんでしょうね。
ちらりと葉月を見る。
綺月はさっと視線を逸らした。
「まあ、うん、なんでもないよ、姉さん……」
ひどい目にあったというだけで。まあ、いつものことだ。
「それにしても」
あたまをかきながら周りを見回す。
光璃さんはホールの階段を、たおやかに笑顔を浮かべて降りてきている。
姉さんはいつものハツラツとした笑顔でそれに話しかけていて。
十乃ちゃんは涼莉に後ろから抱きついている。涼莉もなされるがままだ。
で。
僕はなんか目の周りが痛くて。
綺月はこちらと視線を合わせようとせず。
夕陽は変わらず後ろを向いてぶつぶつと悩んでおり。
百羽さんはあうあうあうあうと真っ赤な顔で右往左往。
最後に千影さんは。
「きっ」
「ひっ?!」
真っ赤な顔で涙目で睨まれた。……メイド服のスカートの前後を両手で抑えながら。
「……見ましたか?」
「え?」
「見ましたかと聞いているんです!」
「え、いや! な、何も見ていません! ほら、綺月がすぐに僕の目というか眼球を押さえにかかりましたから!」
千影さんはしばらく僕をじーっと見ていたけれど、やがて光璃さんに声をかけられて居住まいを正すと。
「……もうしわけありませんでした。それでは、こちらへ」
と、案内してくれた。
……ところで。
すでに僕の体力ゲージがレッドゾーンに入ってるんだけど、そうですよね関係ないですよね。はぁ。
勉強会は大部屋で行われた。
部屋には大きな机がひとつ。歴史を感じさせる調度品が並ぶ部屋だが、威圧感よりも安心館を感じさせる雰囲気がある。
大窓は庭に繋がっており、流れる小川がきらきらと陽光を反射していた。
「……ねえ、空、ここの英文なんだけど」
「う、僕も英語は苦手分野なんだけど……あ、これはなんとか分かるよ。ええとこれは――」
綺月の教科書を覗き込みながらプリントの問題を読み進める。
彼女はとても優秀な成績を納めているので、こうして僕が教えることができるのはあくまでも一年のアドバンテージがあるからでしかない。もし同い年だったら、僕が教えることなんて何ひとつなかっただろう。
そう考えると、格好がつくので助かった、ということかな。
というようなことを以前言ったらすんっごいムスっとした顔をされたけれど。なぜだ。
ちなみに。
「お、おおおお、おおおおお……?」
奇妙な声をあげて目を回しているのは夕陽である。
どうも勉強がわからなさ過ぎて頭の中身が変なことになってきているらしい。そのうち耳からてろりと謎の物体が顔を出してきそうだ。
ちなみにちなみに、彼が今手を付けているのは夏休みの宿題……ではない。そんなもん解けるわけがないので僕が持ってきた一年の頃のテキストを解いてもらっているところだ。
それでこの結果っていうのは、本当、先が思いやられるなあ……。
そして僕。僕の成績は悪くはない、というより、まあそれなりに良い方だとは思う。思うけれど綺月のように学年一桁に迫る成績はない。
滝空への入学を考えるのなら、そのレベルとまではいかないまでも現状維持か、安全を考慮に入れるとやや上を狙いたいところではある。
内申点が芳しくないので、地の成績で補っておくのがいいだろう。いや、内申点を上げるのがベストなんだけどね。ほら、人生何があるかわかんないし。
最近は異世界に召喚される頻度が上がってきたからなぁ……。
そんなこんなで二時間ほど経って。
「少し、休憩にしましょうか」
「ん、そーだね。勉強ばかりしていてもきついし。それに、海の相談だってまだしていないしね」
「うふふ、そうですね。それでは……千影さん、みなさんにお茶とお菓子をお願いします」
「かしこまりました」
うお。
いつの間にか千影さんが部屋に入ってきていた。おかしい。先程まではたしかにいなかったはず……。
「千影さんのスニーキングスキルは完璧ですから」
胸をはる光璃さん。ええと、それは褒めるべきところなんでしょうか。そして千影さん、うっすらとドヤ顔するのやめてください。
……そういえば、涼莉はどうしているんだろうか。最初に十乃ちゃんと一緒にこの部屋をでてから姿を見かけないけれど。
ちょっと聞いてみようかな。
「あのう、千影さん。涼莉って今、どうしていますか?」
「涼莉ちゃんですか? ああ、それでしたらほら、あそこに」
「え?」
千影さんが窓の外を手のひらで指し示した。その先には。
「…………えええええ?」
猫の姿で噴水で遊びまわる涼莉と、いつの間にか水着に着替えた十乃ちゃんの姿が。
涼莉、完全に遊びに来ただけになっているな。
「え、ええと。十乃ちゃんの邪魔になっていませんか?」
「……まあせっかくの夏休みに仕事詰めというのも可哀想ですので。それに仕事を教えるだけならあとからいくらでも出来ますから」
「そう言ってもらえると助かります」
「しかし……」
千影さんは複雑な表情で窓の外を見やる。やはり口ではそう言っても、内心では色々思うことがあるのだろうな……。
「……あの娘はいったいどこまで成長するつもりなのよ……」
「え?」
「いえ別に。お気になさらず」
はあ。
なんだか若干怨念を感じるつぶやきが聞こえた気がするのだけれど。気のせいだろうか。気のせいだろう。そうしておいた方がいい。
なぜかそんな確信を抱いた。
「それではお嬢様。準備してまいります」
静かに退出する千影さんを笑顔で見送る光璃さん。
そして。
「……ちょっと姉さん、なにしてるの?」
「あらら、見つかっちゃった。ちょっとお手伝いしようかと思って」
こっそり後をつけようとしていた姉さんに声をかける。
僕が声をかけたことでようやく気づいた他のみんなが驚いていた。
うんまあ。
姉さんが気配を殺す――というか、気配をぶった切ったら大抵の人は気付けないよね。
いや。
つまりまあ、その大抵の範疇にない、たとえば光璃さんは気づいていて止めなかったことになるわけで。
「……ふぅ。翼ちゃん、あんまり千影さんをいじめないでくださいね」
「まっかせてよ! 光璃の顔に泥を塗るような真似はしないよ!!」
じゃ! と元気よく部屋をあとにする姉さん。その際も、扉も足音も一切立てないあたりからやる気を伺える。
うん、やる気出す場所が違うとおもうんだ。
「いいんですか?」
「いいんですよ。翼ちゃんも本当に千影が嫌がることは……いえ、しますけど、限度は……まあ、たまに超えますけど、注意したので平気でしょう」
さすが幼なじみにして親友。姉さんの事をよく理解している。
まあ先ほど一度怒らせているし、さすがにさっきみたいなことは……ああ、うん。まあ。
「……空?」
「う、ん? 何、綺月」
勉強の手をとめてすでに休憩モードに入っていた綺月が、こちらをちらりと見た。
「さっき、ほんっとーに、何も見てないの? わたしが隠すタイミング、結構微妙だったと思うんだけど」
「見てませんよ?」
「……あやしい」
「いやいや」
そんな。
ほら。
ねえ。
……なぜバレている。
とはいえこの場でアレを見たことを肯定するのはさすがにちょっと。どこで千影さんに届くかわかったものではないし。それに本当に一瞬、ほんの一瞬の話だ。それをわざわざ追い打ちをかけるのはむしろ千影さんに苦を与えることになるだろう。
決して。決して僕がやましい気持ちがあるからではない。ではないのだ。うん。
だから綺月さん。そんな超絶微妙な表情で僕を見ないで。
「そ、それにしてもあのふたりは元気だね! いくら水を浴びているからって、この日差しの中あんなに元気に走りまわって」
「うふふ、そうですね。涼莉ちゃんが来たときの十乃はとても元気ですから。私としてもとても感謝しているんですよ」
それはきっと、先ほど僕が迷惑になっていないか、と気にかけたことに対するフォロー。
こんな何気ないところまで気を利かせる光璃さんには、なんというか頭がさがる思いだ。
「あーぁめーぃ、じーいいんぐれーぃす」
そしてそんな和やかな空気の中、夕陽は口からエクトプラズムを垂れ流していた。
十分ほど経って、千影さんと姉さんが帰ってきた。
私服に着替えて勉強道具を持った百羽さんも一緒だ。
「私も、急ぎの仕事が終わったので、一緒にいいですか?」
「大丈夫ですよ」
ほ、と顔を綻ばせる百羽さん。
百羽さんは僕の隣の席に座った。反対側には綺月が座っている。席はたくさん余っているのに。
まあどうせ同じ範囲を勉強するわけだし、席は近いほうが楽か。考えて見れば合理的かつ当然の選択肢でもある。
「むぅ」
「綺月どうかした?」
「別になんでも」
そうは言うけれど、明らかに不機嫌というか不満がにじみ出ている。はて、どうしたのだろう。
ぶつぶつと何かをひとりでつぶやいている。ライバルが、とか、自覚が、とか、ところどころそんな言葉が混ざっているけれど、はて。
そうしているうちに、姉さんと千影さんが全員に紅茶を配ってくれた。いくつかのお皿に分けてクッキーも一緒に。クッキーを食べてみると、なるほど、紅茶とよく合う。
ところで。
「姉さん、何したの?」
「ん? なあに?」
「いやだってさ」
ちらり、とそちらに視線を向ける。
「千影さん、明らかに疲れて、顔を赤くしてるんだけど……」
「何もありませんでした」
「え?」
会話に割り込んできたのは、その当人千影さん。
「いや、でも……」
「何もありませんでした」
「…………」
「何もありませんでしたから」
「……そ。そうですよね! 何もありませんでしたよね! そうに決まってますよね!!」
絶対何かあったなこれ! 雰囲気的に絶対に聞けないけどさ!!
そのまま千影さんは壁に控える。じろりと姉さんを見るのはまあ監視目的なんだろうけど、なぜ僕までその対象に入っているのか。
問いつめたいところではあるけれど、それもちょっと。ううう、仕方ない。ここは我慢しよう。
「さて、それじゃあお勉強の再開の前に少し、海の予定の相談でもしましょうか」
「だね。いつもありがとうね、光璃」
「気にしないでください。
それで我が家のプライベートビーチですけれど、今年の参加者はどのくらいになりそうかしら」
「ええと……」
僕は頭の中で数える。
僕と姉さん、涼莉は人数に数える。ましゅまろは……荷物扱いでいいだろ、あれは。
で、今ここにいる夕陽と綺月。それから……まあ、大地は誘わないと後々面倒だろうね。
リリスは誘えば来るだろう。割とこう言うノリは好きなハズだし。
シスターと神父さまとリアさんは……どうだろう。リアさんは誘えば来る気はする。シスターと神父さまはさすがに教会を何日も開けて問題ないのだろうか。そこは聞かないとわからない。
で。一番の問題はジュス様だけど……あのひとだけはその日の気分で変わりかねないから予定の立てようもない。
「七人は確定。不明四人、ってところですね」
「そうですか。ではうちからは私たち四人、と。最低でも十一名ですね。ふふ、これだけの人数はさすがに初めてです」
「う。なんかすみません」
「あら。気にしなくていいんですよ。私たちも楽しみなんですから」
ね、という光璃さんの言葉に、となりの百羽さんと壁の千影さんがそろって頷いた。
窓の外の十乃ちゃんは相変わらず涼莉と楽しそうに戯れて……んん?
「……あの、すみません。話の腰を折る用で恐縮なのですが」
「はい?」
「窓の外、あの……気のせいでなければ、十乃ちゃんの水着、なんか紐、ほどけてませんか?」
「――え?」
全員の視線が外に向かう。
よく見る。よく見ると。
たしかに、セパレートの上の水着の、左の肩の紐がほどけていた。
それだけで胸が顕になるようなこともないけれど、さすがに放ってはおけない。
「ありゃりゃ。涼莉が外しちゃったのかな。ちょっと注意しないとね」
姉さんが立ち上がった瞬間。
十乃ちゃんと戯れる涼莉の爪が引っかかったのか、残る右の肩紐がはらりとほどけて、背中を向けたままだけれど、その上の水着が。
「「だめえええええええええええええええっ!!!!」」
「おごふぁっ?!」
タックル。
そして暗転。
え、何、何事?!
「つつつつつ翼ねーさんははははは早くあの猫娘にひひひ紐を結ばせてください!!」
「涼莉ー! 涼莉ってば! 急いで十乃ちゃんの肩の紐を結んで……ってあなたまで水浸しになってどうするのー!!」
「だだだだだだめですよだめですからね空さん! あああああああ見ちゃ見ちゃだだだだめですからね!!」
いやあの見えない。見えないっつーか息が苦しい。
目の前を完全に何かに覆われて、両手で頭を抱きしめられている。
体はかがめられている姿勢になっていて、さらに横からも抱きしめられている感覚。というか、その、感触、というか、ですね。
柔らかいんですけどっ!!
ていうか、なんかこう、頭がくらくらするようなそれでいて落ち着くような香りが呼吸のたびに!
ええと。
これは。
その。
まさか?
いや、落ち着こう。例えばだ、可能性の一つとしてだ。
僕の頭が今、綺月に抱きしめられているとして。そして横から百羽さんに抱きつかれているとして。
まあ可能性の問題だ。大いに勘違いということもありうる。
だがそうだった場合、果たして、僕の顔を覆うこの柔らかい感触と、肘にぶつかる抵抗し難いぬくもりは、果たして一体何がもたらしているのだろうか。
いやいやいやいや。
落ち着こう。クールになるんだ僕。
未だに周りは騒がしいけれど、とりあえず流されずに考えよう。
ええと。
うん。
無理無理無理無理!!
だってこんなに柔らかいしいい香りがするし、ええと、何、そう、未知との遭遇?
あ、未知ってほどでもないか。姉さんが抱きついてきた時は気にならないけどそれなりに――。
「ってだからそこで確信を抱くソースを思い出すちゃダメだろ僕!!」
「空、どうしたの?」
ナンデモアリマセンヨー。
まさか口に出せるわけもなく。
綺月も百羽さんも、自分がどんな体勢になっているかなんて気づいていないんだろうなー。気づいてたら僕この時点で脳みそてろりって出るくらい頭絞めつけられてるだろうし。
……ていうかこれ、どちらにしろヤバイよね僕。
すでに聞こえてくる喧騒も落ち着いてきてるし。
どうやら十乃ちゃんの肩紐は無事結ばれたらしい。まあそのかわり、人型をとった涼莉がびしょ濡れになったらしいけど。
で。
「ふぃー、空が教えてくれたおかげでなんとか間に合ったねー……なにしてるのあなたたち」
「「え?」」
姉さんに指摘されて、頭を締め付ける力が弱まった。
恐る恐る。顔を上げる。
綺月と視線がぶつかった。
横を見ると、百羽さんが硬直していた。
「「き」」
ああうんまあ、予定調和っていうか予想通りっていうか。
「「きゃああああああっ?!?!」」
あはははははおごぶっ。
一時間後。
なぜか額とほほに痛みを抱えながら宿題を再開した。
両隣の綺月と百羽さんはどことなく顔が赤いけれどさっぱり理由はわからないねあはははは!!
「あー。空、大丈夫か、色々と」
「ナニガ?!」
「ああうん大体わかった。まあお前結構不測の事態に弱いしな……」
「ダカラ、ナニガ?!」
「いや、もういいよ、俺が悪かったよ……」
なぜか夕陽が沈鬱な表情になった。
と、表情をいきなり輝かせて。
「あ。翼さん! ちょっとここ教えてもらっていいですか?!」
「はいはい、なにかなゆうちゃん」
……どうやら小賢しい手段を覚えたらしい。まあ、本人のやる気がそれで出てくるっていうのなら問題ないか。
「……あのう、空さん? どうしたんですか」
「え、何がですか?」
百羽さんが謎の問いかけをしてきたのでそちらを振り返ると、なぜか泣きそうな顔をされた。なにゆえ。
すると、反対側で綺月が深い溜息をついていた。
「どうしたの、綺月?」
「いやなんて言ったらいいのか。あなたも大概だなぁと。そして相変わらずだなぁと」
ううん、何を言っているのかわからないけれど、とりあえず呆れているらしい事だけは理解できた。
はて、そんな要素がいまのやりとりのどこにあったのだろうか。
「……あの不機嫌な顔、初めて見ました」
「え?」
「いいいいいいいえなんでもありません!」
慌てる百羽さんとさらにため息を重ねる綺月。一体なんだというのだろうか。
と。
「あ、すみません翼さん、ここも教えてもらっていいですか?!」
「はいはい何かなゆうちゃん」
…………野郎。
「あああああの空さん! ほら、勉強! 勉強しましょう、ね!!」
「え、ああそうですね。今日できるだけ進めてしまったほうが楽ですし」
百羽さんの成績は僕と同じくらいだけれど、お互いに得意分野が違っているので、そのあたりを教えあうことでずいぶんスムーズに宿題を片付けることが出来ている。
綺月に対しても、僕が教えられないところを教えてもらっているので、効率は先程までより大幅に上がっていた。
「あ、翼さんまたお願いなんですけど」
ぼきぃ。
「あれ、シャーペンが折れた」
「シャーペンって折れるものなんですか?!」
「うーん、僕もあまりこういうのは見たことがないですね」
そんなに力は込めていなかったんだけどな。
とりあえず、筆箱から新しいシャーペンを取り出して。
「あ、翼さんそれとですね」
ぐしゃぁっ。
「ひぃっ?!」
「おやまあ」
「空……あなた……」
今度は筆箱がひしゃげてしまった。中に入っていたシャーペンやボールペンなどもまとめて砕けてしまっている。
やれやれ、いっせいにボロが来ていたということだろうか。これは完全に油断したね。
「ふう、仕方ないな」
僕は席を立つ。
「あ、あの、空さん?」
「百羽先輩、気にしないほうがいいですよ」
そんなやり取りを置き去りに、だらしなく顔を緩めた夕陽の所へ。
「夕陽、夕陽、ちょっとお願いがあるんだけど」
「おうおう、一体なん……だ……っ?!」
なぜかこちらを見た夕陽が顔をひきつらせた。
隣で勉強を教える姉さんがこちらに視線を向けた。どうしたのー、と視線だけで聞いてきた。
「いやあ、ちょっと僕の筆箱が壊れてさ」
手のひらを開く。
ボロボロの筆記用具ががしゃがしゃと机の上に散らばった。
「悪いんだけど、夕陽の筆記用具を貸してもらえないかな」
「え……あ、うん! いいよ! 全然いいよ!!」
なんか夕陽のテンションがおかしい。
なんだろうと思うけれど、まあ貸してくれるというのだし借りておこう。
シャーペンとボールペンを一本ずつ借りる。
「ありがとう夕陽。あ、そうだ。それと、ついでなんだけれど」
「お、おう! なんだよどうした?」
夕陽の肩に手を置く。
あまり威圧的にならないように、諭すように。
座る夕陽の視線の高さに合わせて、言った。
「あまり姉さんを頼りすぎずにさ、もうちょっと自分で色々調べたりとかさ、考えようね? ただでさえ夕陽は勉強が遅れてるんだから、少し遠回りしてでも実力をつけないといけないんだからさ」
「あああああああわかった! わかったから肩! 肩が壊れる、抜ける、砕けるうううううっ!!!」
ははは、そんな大げさな。
「ま、気をつけてね」
「はい! 気をつけます!!」
「あはは、空に注意されちゃったね。それじゃあわたしが教えるのはここまでだよ。空も、もっとおねーちゃんを頼っていいからね」
「うん、ありがとう姉さん。でも今は大丈夫だよ」
「そう、いい子だねー空は」
姉さんが僕の頭を撫でる。苦笑してそれを受け入れた。
夕陽は何故か震えていた。冷房が強すぎたのだろうか。
そうして、勉強会と海の予定についての相談は終わった。
夕方、僕らは屋敷の玄関の前にいた。
「あー! さすがにちょっと疲れたねえ」
「ええ……まあ、精神的な疲労の原因はいくらかあなたにもあったのだけどね」
「ええ? 僕何かしたっけ」
自覚がないならいいわ。と綺月は手をひらひらと振った。
「みなさま本日はご苦労さまでした」
「うん。千影ちゃんもありがとうね」
「それが私の役目ですので」
「うー。でもたまには千影ちゃんも遊ぼうよー」
「機会がございましたら」
「約束だよー、絶対だよー」
「……わかった。わかりました。だから抱きつかないで」
姉さんは相変わらず千影さんを困らせていたけれど、千影さんも本気で避けているわけではないようだ。あれもひとつのコミュニケーションの形、といったところだろう。
「それではみなさん、本日はありがとうございました」
「うん。それじゃあ光璃、海はよろしくねっ! 楽しみにしているから!」
「ええ、任せてください」
ほかのみんなも、口々に、光璃さんと渚姉妹にお礼を口にした。
涼莉はすでに僕の方の上で寝息を立てている。十乃ちゃんとずっと遊んでいたからね。
「十乃ちゃんも、今日は――というか、いつもありがとう」
「いいですよー。十乃もすずちゃんと遊ぶのはたのしみなのです」
そう言ってもらえるとありがたい。
「じゃ、帰りましょうか」
姉さんが声をかけて、みんなぞろぞろと帰路に着く。というか、セグウェイに乗る。
なかなかにシュールな光景だよな、こうしてみると。
と。
「響様」
声がかかる。
姉さんはすでに出発してしまったので、この場にいる響きは僕一人だ。
響。
響空。
声をかけたのは、千影さん。
「どうかしましたか?」
「ええ、少し確認したいことが」
はて、なんだろうか。
千影さんは百羽さんと十乃ちゃんから少し離れたところに僕を引っ張ってきて。
ちょいちょい、と手を振った。
? ああ、腰を下げろと。
腰を下げると、耳に手のひらを当てて、つぶやいた。
「…………黒のレース」
「ぶふぅっ!!!!」
その言葉に。
思わず連想してしまったのは。
今日、ここについたときの光景。
具体的には。
姉さんが、千影さんのメイド服のスカートを捲り上げていた、あの時の――。
「はぁ」
「はっ!!」
しまった!
今のはどう考えても、見ていた人間の反応だっ!!
「いや、ええと、これはですね」
「はいストップ」
ぴたり、と。
人差し指が唇に当てられた。ひやりとした、優しい感触。
「あれはあなたに責任があることでもないので、別に責めたりはしません。ただ、確認しておきたかっただけですから」
とかいいつつ、一言重ねるごとにどんよりと千影さんの纏う空気が重くなっていく。うん、まあ、ショックですよね。
「忘れてください」
「え?」
「別に責めはしませんが! とにかく忘れてください!!」
「はいわかりました忘れます!!」
涙目の必死の形相で訴えられて、反射的に宣誓。いやまあ、うん。忘れよう。少なくとも努力はしよう。
そうして、追い立てられるようにして僕も屋敷をあとにしようとして。
「空くん」
「……今度は光璃さんですか。いえ、別にいいんですけど」
思わず胡乱な視線を向けてしまう僕に、それでも笑顔で光璃さんは言った。
「翼ちゃんなんですけど」
「姉さんがなにか?」
「はい。あの、翼ちゃんが、あまり無理しないように、気をつけてあげてください。空くんに今更だとは思うんですけれどね」
ええと。
「どういう事ですか?」
「翼ちゃんの事だから、私に気を遣ってあの人を海に連れてこようとすると思うんです。でも、そんな無理をしなくてもいいですから」
ああ、そうか。この人は。
「私は、翼ちゃんにも、ただ楽しんで欲しいですから。だから、無理をしなくても……」
「はいストップ」
僕は光璃さんの言葉を遮った。
「空くん?」
目を丸くする光璃さん。
ちょっと強引だったけれど、でもその言葉、最後まで聞く必要はない。だって。
「光璃さん、そんなに気を使わないでください。こう言っちゃなんですけど、姉さんが無茶をするのなんて僕に止められるわけがないし」
それに。
「姉さん、光璃さんのために無茶するの、多分好きですよ。だから、姉さんの楽しみ、奪わないであげてください」
「そう、ですか」
「それに光璃さん。せっかくの海なんですから、もっと積極的に行きましょうよ。もっと欲張りになっていいと思います」
というか、それぐらいしないとジュス様相手に勝負にならない。たぶん。
しばらく悩むような表情をしていた光璃さんは、それでも。
「……ええ、そう、ですね」
と、迷いを見せながらも、そう言ってくれた。
「それじゃあ、僕は帰ります」
「ええ。今日は楽しかったです。空くん――」
「――『私も、楽しみにしています』と。翼ちゃんに、そう伝えてください」
ええ、わかりました。
ということで今回のオチというかその後
セグウェイに乗っていると、ぴくぴく、と涼莉の耳が揺れた。
「……にぁ?」
「ああ、涼莉起きたんだ。まだちょっとそのままでいてね」
周りにはだれもいない。まあ、屋敷の入口で結構会話してたしね。
とはいえ門の近くではみんな待っているだろうけれど。
待ってるよね。置いてかれてたりしないよね。そういうの、地味にクルものがあるからやめてほしい。
「涼莉は十乃ちゃんと遊んでたねえ。楽しかった?」
「にゃー」
「うん、そっか」
さすがに猫の状態の涼莉の言葉はわからない。
けれどニュアンスとか、そう言うのは伝わる。それに水遊びをしているときもあんなに楽しそうだったし。
水遊び。
…………。いかん。いつぞやの屋上の件を一瞬思い出してしまった。
「に?」
「ああいや、なんでもない。なんでもないよ」
うーん、どうにも夏ということで今日といいこの前といい、変なアクシデントが増えてきたな。
女性の知り合いもそれなりにいることだし、今後はもう少し気を使うようにしよう。
折しももうすぐ海に遊びにいくんだ。あんまり変なことをして不快感を与えたりしたらせっかくの楽しい旅行が台無しだ。
「うん。気をつけよう」
「にゃ?」
「ああいや。海が楽しみだねって」
「にゃっ!」
夏の代名詞、と言ってもいい存在の、海。
やっぱり楽しみではある。
涼莉も十乃ちゃんという友達ができてからは初めての遠出になるし、それも含めて楽しみといったところだろう。
「あ、門が見えてきた。ああ、みんないるね」
まだまだ夏休みは始まったばかり。
白い日差しも空の青さも、まだまだ深くなっていく。
その楽しみを胸に抱いて、夕陽の中を走っていく。
そして。
先程の僕の誓いは、わりとどうしようもないくらいに無駄なものになるんだけど、まあそれはおいおい。
想像以上に長くなりすぎた……。
いつの間にか光璃ではなくメイド三姉妹の話になったような気がするのは気のせいだと信じます。