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名前を持つということ

この話では、主人公が初めて「自分の足で世界に立つ」瞬間を描いています。

立つこと、歩くこと、そして誰かのもとへ向かうこと。

どれも小さな成長ですが、彼にとっては世界の見え方が変わるほど大きな出来事です。


また、この章は「守られる存在」から「認められる存在」へと踏み出す節目でもあります。

公爵の距離の取り方や、急がせない姿勢から、その変化を感じ取っていただけたら嬉しいです。


どうぞ、ゆっくりお読みください。

立ち上がるという行為が、こんなにも大仕事だとは思わなかった。


床は遠い。


手を伸ばしても支えがなければすぐに傾き、体は信じられないほど簡単に裏切る。それでも何度も挑戦しているうちに、筋肉が少しずつ言うことを聞くようになった。


最初に成功したのは、窓辺だった。


光の差し込む場所で、俺は必死に縁へ手をかけ、震える足に体重を乗せる。ぐらりと揺れた視界の向こうで庭が見えた。

立っている。


理解した瞬間、胸が高鳴った。


世界の高さが変わるだけで、景色はまるで別物だった。


「……立ったな」


背後から声が落ちる。


振り向こうとして失敗し、危うく倒れかけたところを大きな腕が支えた。公爵だった。いつから見ていたのか分からないが、表情には隠しきれない驚きが浮かんでいる。

俺は得意げに声を出す。

「た」


言葉になっていない。


それでも公爵は真剣に頷いた。


「そうだ。立った」


まるで重大な成果を認めるように言う。


次の瞬間、屋敷の空気がざわついた。使用人たちが次々と集まり、誰かが涙ぐみ、誰かが拍手をしている。


大げさすぎる。


そう思いながらも、悪い気はしなかった。

誰かに喜ばれるというのは、思った以上に心地いい。


歩くことは、さらに難しかった。


一歩踏み出すたびに世界が傾く。それでも手を引かれ、何度も転び、何度も起き上がるうちに、距離は少しずつ伸びていった。


公爵は決して急がせなかった。


俺が転んでも、すぐには抱き上げない。ただ近くで見ている。自分で立ち上がるのを待つ。その静かな信頼が、妙に嬉しかった。


ある日、俺は彼のもとへ歩いた。

部屋の端から端まで。


足は震え、何度も止まりかけたが、最後まで転ばずに辿り着いた。公爵の前でバランスを崩し、その胸へ倒れ込む。


大きな腕が受け止める。


「よく来たな」


低い声が、誇らしそうに響いた。


頭を撫でられる。


その瞬間、胸の奥がいっぱいになった。


認められた。

たったそれだけのことが、世界を明るくする。


そしてその日、俺は名前をもらった。


「お前の名は、レオンだ」


公爵は真っ直ぐ俺を見て言った。


意味は完全には分からない。それでも音の響きは心に残る。何度も口の中で転がし、真似しようとして失敗する。


「れ……お」


公爵の目が細まる。

「そうだ、レオン」


自分を指差す。


「レオン」


名前を持つというのは、不思議な感覚だった。


ただ存在しているだけだった自分に、輪郭が与えられる。呼ばれるたび、ここにいていいのだと確認される気がした。


俺は何度もその音を繰り返した。


「れお」


公爵はそのたびに頷く。

部屋の空気が温かくなる。


この世界での俺は、レオンだ。


耳も尾もない、人族の子供。


それでも、公爵家の一員。


その事実が、胸の奥で静かに根を下ろしていくのを感じていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この話では、「名前を持つ」という出来事を書きました。

名前は単なる呼び名ではなく、この世界で居場所を与えられることだと思っています。

呼ばれるたびに存在を肯定される――そんな感覚を、レオン自身が少しずつ理解していく章になりました。


また、公爵があえて手を出しすぎない場面も印象的だったのではないでしょうか。

守ることと、信じて見守ること。その違いが、関係性を少し変え始めています。


この先、レオンは「公爵家の一員」として、さらに世界と関わっていくことになります。

その歩みを、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。


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