軍服と赤いワンピース
男の客は軍服姿だった。白地に紫のラインが入っている。
後ろの女は赤いワンピース姿だった。腰まで伸びた髪のせいで顔は見えない。
男は左手に鎖を握り、辿るとやはり、女の胸に繋がっていた。
陰陽師と式神だ。
「江弥華は工房かな?」
男が爽やかな笑顔でいった。ぺらりと一枚の紙を広げて見せる。
まっさらな報告書だ。
(客じゃない。陰陽庁の回し者だ! 書かせに来やがった!)
「あ、えっと——」
思わず腰上げた。しかし江弥華は報告書をほうって櫛製作に没頭している。
絶対に怒られる。怒られなくても評価は下がる。
守らねばと、七大十は上手い言い訳を考えた。
しかし——。
「佐天が来たって伝えてくれる? 大丈夫。嫌でも手が止まるから」
まるで暗示をかけるような、ゆっくりとした口調だった。
優し気な笑みから、否を言わせない圧を感じる。
「少々……、お待ちください」
七大十は後ずさるように工房に入った。
江弥華は相変わらず、脇目も振らずヤスリをかけていた。
その背中に掛けた声は、耳打ちするように小さかった。
「ちょっと江弥華、佐天って人が来てるけど!」
江弥華の手がピタリと止まった。
「……は? 佐天だと?」
顔を上げた江弥華が七大十を睨む。
七大十が頷き返すと、江弥華は怠そうに席を立った。
眉間に刻まれた深い皺。その青い瞳は海が時化たように曇っていた。
江弥華が扉の枠にもたれて佐天を睨んだ。
「何の用だ」
低い声だった。
自分じゃないと分かっていても身がすくむ。
しかし佐天が呆れた様子で笑みを浮かべていた。
「こんなことで、僕を遣わせないでくれるかな?」
と、白紙の報告書をひらひらと振った。
フン、と江弥華が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「徒労だったな。もう書いてある」
カウンターの上の、七大十が書いた報告書を顎で示した。
「もしかして、これのことかな?」
佐天がそれに手を伸ばした。
「あ……!」と七大十が声を漏らす。
「ふむ。随分詳細に書いたね」
佐天の目が紙面の上を往復する。
むず痒いような恥ずかしさを覚えた。
出来事を時系列通りに並べただけの文章のはずなのに、この場から立ち去りたいような落ち着かない感覚だった。
佐天が報告書から目線を上げる。
「……うん、良く書けているよ。すごく詳細で、情景が浮かぶ文章だ。……それで、最後はどうなったんだい?」
視線はまっすぐこちらを向いていた。
言葉が喉につっかえる。
江弥華が横目でこちらを見ていた。
俯いた視界に胸の鎖が入る。
(……逃げられない。嘘も誤魔化しも、江弥華にはバレる……)
七大十が大きく息を吸い込む。
「お、怖気づきました……! 最後の止めを刺すところまで、お膳立てしてもらったのに……最後の最後で怖くなりました……!」
情けないほど声が震えていた。
顔は上げられなかった。
江弥華か佐天の言葉を待つ時間が、十分にも二十分にも感じられた。
「これ、矯正何個目だったの?」
「三つ目だ。元の依頼は猩々の討伐だ」
二人とも淡々とした口調だった。
次は自分に向けた叱責か、江弥華に向けた慰めか。
七大十はズボンの裾を握り締めて、佐天の言葉を待った。
「なら、妥当じゃない?」
しかし、身構えた言葉はどちらでもなかった。
「え……?」
顔を上げた七大十に、佐天が当然の表情で頷いた。
「そう、なの……?」
確証を得ようと江弥華の顔色を窺った。
「ああ」と江弥華が首肯する。
「仕方なかったとはいえ、矯正課程を飛ばし過ぎた。元人間を殺すには、もう二段階は最低でも必要だった。だからあのときも、本気で殺せるとまでは期待していなかったしな。……いや、殺せたら儲けものくらいには思っていたか……?」
江弥華が山姥戦を思い出すように、顎に手を当てた。
その様子を見て、
「そう……だったんだ……」
七大十はうわごとのように呟いた。
江弥華は自分の失敗を気にしてなかった。それどころか仕方ないと擁護してくれた。
(なんだ、オレの気にし過ぎだったのか……良かったー)
肩の荷が下りた気がした。首の凝りを解すように天井を見上げて、頬が緩む。
気が抜けて片足に体重が掛かった。
カチャリと胸の鎖が音を立てて揺れた。
「また難しい式神を買ったね、江弥華」
佐天がいった。
「この年齢の奴は全員そうだろ」
江弥華はどこか吐き捨てるように返した。
「確かに」と佐天が笑う。
「二十五を超えてると楽なんだけどね」
佐天が後ろに控える式神を一瞥した。
「ヒヒヒ……」
嬉しそうに赤いワンピースの裾が揺れる。
「それで、いつ提出できるんだい?」
佐天が聞いて、江弥華が眉を顰めて首を傾げる。
「もうできてるだろ? あとは討伐済みと書くだけだ」
江弥華が佐天から七大十の報告書を奪い取り、七大十に押し付けた。
佐天の盛大な溜息が部屋にこだました。
「何を言ってるだい? いや本当に、何を言ってるんだい?」
佐天が大仰に首を振った。そして我儘な子供に言い聞かせるように優しい声音で語り掛けた。
「いいかい、江弥華。君の名前で、君が受けた依頼なんだ。だから君が報告書を上げるのが道理だと思わないかい?」
「思わんな」
即答だった。
「確かに私の名で私が受けた。だが、その報告を私の式神がすることに何の違いがある?」
「あるだろ」
佐天が切り捨てる。
そして静かに、しかしはっきりといった。
「これは人の営みなんだ。だから江弥華が書かなきゃならない。彼らに、いや式神に戸籍はないんだ。人的保証は何もないんだ。道具なんだよ。——これがその証左だろ!」
——ジャッ!
鎖の音が響いた。
握り締めた指が白くなっている。
分かってくれ、そんな声が聞こえてくるほど真剣な眼差しだった。
無音の中、下らないと言いたげに、江弥華が斜め上に目をやった。
「……あー、理解した。私が書かなきゃ、貴様は帰らないんだな」
そして佐天に手を差し出す。
「早く渡せ。もう一枚、持って来てただろ」
「もう……うん……その理解でいいよ」
佐天が肩を落として項垂れた。
しかし顔を上げたときには、入店のときと同じ、爽やかな微笑みを浮かべていた。
白紙の報告書を広げる。
江弥華は、パンと、音が鳴るほど乱暴に報告書をひったくり、踵を返した。
「彼の報告書を見本にしないのかい?」
佐天が、七大十の報告書をひらひらと振った。
「要らん。それは日記だ」
江弥華が唾棄するようにいって工房に戻った。
「だってさ」
佐天が半分顔を背けながら報告書を返した。
七大十は顔を真っ赤にして自分の報告書に目を走らせた。
肩を震わせた佐天と、「クヒヒ」と口元に手をやる女の姿が横目に映る。
出来事を時系列通りに並べた文章。自分の中では立派な報告書だ。
「じゃあ、適当に待たせてもらうね」
佐天が身を翻した。
展示室横の、一段上がった座敷に腰を下ろす。
その軍服の背中に描かれた大きな階級章に目が止まった。
二重の六角形の中に、渦を巻いた白黒の雲が二つ。そして金糸で『特』の文字が重ねて刺繍されていた。
(江弥華は一重の六角形に雲が一つだったよな……)
考えていると、「ヒヒヒ」と赤い影が近づいた。
何かと振り向くよりも早く、女が顔を近づけた。
「すごいでしよ。彼、特別二級なのよ」
急に耳元で囁かれ、七大十は反射的に距離を取った。
耳に藻が絡みついたかと思った。そんな声と喋り方だった。
髪に隠れて顔は見えない。だが髪の隙間からガタガタの歯並びが見えた。
「へえ……そうなんですねぇ……」
何とか愛想笑いを浮かべて、そう言ってやるのが精いっぱいだった。
七大十は逃げるように報告書に目を落とした。
「……あなた、特別二級って知ってるの?」
沼底から響くような低い声だった。
「いえ……」
七大十は身を引きながら、わずかに首を振る。
瞬間、
「だったら聞きなさいよ!」
女がヒステリックに叫んだ。
七大十が逃げたい気持ちを必死にこらえて質問する。
「あ、えっと……、特別二級って何ですか?」
髪の奥で、口角が吊り上がっていくのが見えた。
「イヒヒ」と歯の隙間から息が漏れて、髪が揺れた。
女がゆっくりと佐天を指差す。
「……彼のことよ」
頭の中に大量のハテナが浮かんだ。
しかし七大十はにっこりと笑顔を作った。これ以上関わりたくない。
「あ、そうなんですねー」
と会釈して、離れようとした。
「ンヒヒ……」
女はまだ嬉しそうに頭を揺すっている。
その胸元から垂れた鎖が突然、ピンと張った。
「亜子」
鎖を引かれて、亜子がよろめく。「……もう」と愛おしそうに胸の鎖に手を当てた。
「今行く……」
ヒタ、ヒタ、と亜子が頭を左右に振って、佐天の隣に佇んだ。
(——ヤバー! 怖ぁー!)
内心悲鳴を上げながら、急いで七大十がカウンターの裏に回った。
室内は気まずいほどに静かだった。
佐天は仮眠をとるように目を閉じていた。
亜子はずっと体を揺らし、時折「ヒヒッ」と鳴き声を上げていた。
七大十は暇すぎて、報告書の文字の『〇』を塗り潰していた。
ガリガリガリガリ——。
工房から木を削る音が聞こえた。
「え、ウソだろ!?」
七大十は思わず立ち上がり、「どうしましょう」と佐天に視線を送る。「連れて来て」と目礼が返ってくる。
工房では、江弥華が一心不乱に櫛を作っていた。
「……何だ?」
手元を見ながら、江弥華が言った。
「佐天さんが待ってるんだけど」
「何のために?」
「さあ……? 報告書を提出させるためじゃない?」
「はあ? だとしたら佐天に甘え過ぎだぞ」
江弥華が壁に刻まれた燕の伝言を睨みながら席を立った。
報告書を持って工房を出る。
佐天を見て、江弥華が何かを思いついてフッと笑った。
「良い機会だ。提出ついでに、私が一言言っといてやる」
「それはちょっと止めてくれるかな?」
佐天が立ちはだかるように江弥華の前に立った。
「僕が行くって言ったんだ。頼み事ついでにね、江弥華」
佐天の瞳が怪しく光る。
「実は——」
「断る」
江弥華の言葉が室内に響いた。
「……まだ何も言ってないけど?」
「今は本業が立て込んでいるんだ。しばらく依頼を受けるつもりはない」
と、江弥華が工房へ親指を向けた。
「……そっか。うん、分かったよ」
佐天がふらっと玄関に体を向けた。
「待て」
すぐに江弥華が呼び止める。
振り返った佐天の顔は期待を溢れていた。
そんな佐天に、江弥華は報告書を突き出した。
「どうせ庁舎に戻るんだろ? ついでに出してくれ、ほら」
望み通り書いてやったぞと言わんばかりの、偉そうな態度だった。
「すぅー、はぁー……」
佐天がわざとらしく深呼吸して、江弥華と目線を合わせるように身を屈めた。
「いいかな? 江弥華はね、自分の名前で——」
「もういい。分かった。行けばいいんだろ」
鎖が強く引かれた。
「痛っ」と声が出るほどだった。今までで一番強いかもしれない。
庁舎に向かって、江弥華がズンズン進んでいく。
よっぽどの剣幕なのか、道行く人の誰もが道を譲ってくれる。
おかげで非常に歩きやすかった。
佐天と亜子はついて来ているか、七大十は後ろを振り返った。
微笑みを浮かべた佐天が亜子を伴って歩いている。
口元を緩ませ、下瞼を持ち上げて弧状を描く目元。
さっきまで爽やかに見えたはず表情が、今は妙に胸をざわつかせた。




