燕と報告書
屋敷と豪邸が威張り合う住宅街の小さな一画に江弥華の自宅はある。
住宅街の隙間を埋めるように、空色の壁の一軒家がすっぽりと嵌っている。
護符職人を本業とする自宅の一階は店舗になっている。
琥珀色の苗木。枝に飾りつけらえた飾り紐や勾玉。天井からは龍の模型が吊り下げられ、壁には各種武具が立て掛けられている。
家から大きく張り出したガラス張りの円形ホールは、江弥華の力作が展示されていた。
そのホールの片隅で、七大十は雑巾を絞っていた。
江弥華からは店番を命じられたが、じっとしていられなかった。
ホール奥の工房で作業に没頭する江弥華に、
「せめて掃除させてくれ。客が来たらちゃんと接客するから」
と頭を下げると、江弥華は机に向かったまま「ああ」と声だけを返してきた。
それで、七大十は床掃除を始めたのだった。
展示室の掃除が終わった。バケツの水を覗き込むと、僅かにしか濁っていなかった。
(いつ掃除してるんだろう……)
七大十が唇を噛んで、工房を振り返った。
ガリガリと気を削るような音が聞こえてくる。
(ここは江弥華の家だ。けれど自分の帰る家である……はずだ。
しかし、やはり、まだ——人の家に泊めてもらっているような感覚だ。
加えて、オレは山姥を殺せなかった。あれだけお膳立てしてもらったのに……。
取り返さないと——。)
「――よし」
七大十が立ち上がった。
バケツを持って工房に入る。
江弥華は作業台に齧り付くように、作業に没頭していた。
声をかけるのを躊躇うほどの集中力。
七大十は勇気を出して話しかけた。
「床掃除、終わったんだけど……他に掃除して欲しい所、ある?」
「ない」
木を削る音に紛れて聞こえた。
「じゃあ……!」
七大十が食い下がる。
「庭の草取り! してもいいかな?」
「ああ」
江弥華は一度も振り向かなかった。
七大十は「うん、分かった……」と俯くように何度も頷いて、庭を出た。
外は閑静というより無音だった。
壁と同じ空に、雲がゆっくり流れている。
登りかけた太陽に目を細めて、「もう、昼か……」と呟いた。
庭の縁に追いやられたように、雑草が生えている。
しゃがんで、雑草を抜く。
ぶちぶちと、根が切れる音がやけにはっきりと聞こえる。
七大十の顔には、まだ笑顔が貼り付いていた。
陽が天頂に差し掛かり、米が炊ける匂いが漂って来た。顔を上げると、隣家から湯気が立ち昇っている。
無心で草をむしっていた七大十が腰を伸ばした。心地よい疲労感に「んー!」と声が漏れる。
七大十が後ろを振り向けば、小さな雑草の山がポツポツと並んでいた。
「おお……!」
と七大十が小さな達成感を噛み締めたときだった。
ピーと、空から鳥の声が響いた。
見上げると、何かが上空を旋回している。よくよく目を凝らすと、青く発光した燕が空に同化していた。
ガラッ、バン!
と工房の窓が乱雑に開け放たれる。
瞬間、燕が工房の中へ一直線に滑空した。
衝突音。
慌てて七大十が駆け込んだ工房の壁に、青字の焼印が浮かび上がっていた。
『報告書を提出下さい。陰陽庁』
「……え……?」
七大十が江弥華を伺い見る。
しかし江弥華は壁を一瞥だけして、作業台に向かった。
ガリガリとヤスリをかける音が再開する。
「えぇ……?」
江弥華の身勝手な行いに、七大十が引くと、また燕が七大十の頭を掠めて、壁に激突した。
『今日中に願います。陰陽庁』
顔を上げもしない江弥華に七大十は恐る恐る声をかけた。
「……江弥華? 今日中だってよ……」
「……ああ」
唸るような低い返事だった。
また燕が飛来する。今度は二羽だ。
『燕は届いてますか。陰陽庁』
『提出は何時頃になりそうですか。陰陽庁』
手に汗が浮く。七大十は自分がせっつかれているような気分だった。
「めっちゃ催促されてるけど、書かなくていいの?!」
「大丈夫だ」
江弥華の床に削りカスを落とした。
「報告書なんて、何かのついでに出すものだ。わざわざペラ紙一枚出しに、庁舎まで行くのは馬鹿馬鹿しいだろ」
と、どこか言い聞かせるように呟いて、またヤスリをかけ始めた。
(……まあ、言われてみれば、そうかもしれない)
七大十が納得しかけた瞬間、バァン! と工房の壁が揺れた。
『報告書の提出までが仕事だと教えたはずだ。渾蔵』
怒りのままに掘ったかのように、青字が煌々と刻み込まれていた。
「いやダメって、江弥華! 早く出さないと、渾蔵って人、多分めっちゃ怒ってるよ!」
「渾蔵……?」
江弥華の手が止まった。
ゆらりと頭を上げて、文字を読む。
瞳を細めた江弥華の顔。七大十には反抗的な生徒に見えた。
「……チッ」
舌打ち。
江弥華が工房を出て行く。
机の上には、江弥華が一生懸命作っていた護符が取り残されていた。
手のひらサイズの薄い板だ。細い歯が一列に並んでいる。
「櫛、だよな」
触っちゃ悪いよなと思いながらも、無意識に伸ばしかけた手を、激しい足音が引っ込ませた。
工房の外から怒りに任せた物音が聞こえてくる。
ダンダンと2階に上がって、ガシャバン、バタンと物音が響き、ダンダンダンと戻って来た。
「書け」
ずい、と江弥華が折れ目のついた紙を押し付けて来る。
「――は?」
「お前も当事者だ」
七大十はぶんぶんと首を振って、両手も大きく振った。
「いやいやいや! 分かんないけど、ダメだろ!」
そうは言うが、何故か口元が緩んでいく。
内に芽吹いた喜びと安堵。
江弥華の瞳が一瞬、細くなった気がした。
「頼む」
微かに上がった口角。
「ぐっ……!」
七大十が言葉を詰まらせた。
苦悶の表情。喉が唸る。
しかし七大十の手がゆっくりと持ち上がり、紙の端を指が摘んだ。
江弥華がしたり顔で紙を手放した。
首をもたげた七大十と同じように、へにゃんと紙が垂れる。
「分かったよ……」
と顔を上げた時には、すでに江弥華は作業台に向かっていた。
七大十が大きく息を吐いて、展示室のカウンターに向かう。
カリカリと、ペン先が紙面を打つ。
根寝占村の出来事を思い出しながら、記入欄の上から順に文字を並べる。
始めは順調だった。
しかし、山姥との戦闘が近くにつれて筆が重くなってきた。考える時間が増えてくる。言葉を選ぶ頻度が増してくる。
転んだ山姥に歯弾を浴びせようと迫ったあの瞬間がよみがえる。
ヒヨコ柄の着物と、怯ええた表情と——。
そしてオレは、出来なかった。
怖気付いた過去を、何より江弥華の期待に応えられなかった失敗を、文字に起こすのが怖かった。
『式神の私が追い込んで、墨廼江弥華が倒しました』
そんな言葉が頭に浮かんだ。
しかしペン先に乗せられない。
(逃げてる……よな)
考え直そうとペンを紙面から放した。
しかし出てくる言葉は、ビビった自分を守るものばかりだった。
「情けねえな、お前……」
ペンを手放した。
視線が勝手に斜め下に逃げる。
——ガチャ。
店の扉が開いた。
「江弥華は工房かな?」
来客だ。




