垂乳根の影
江弥華が黙ったまま、下山する。
後に続く七大十が、何度も口を開いては閉じていた。
喉から先へ、「ごめん」という言葉が出ていかない。
(怒ってるよな……? 怒ってるよな……)
頭の中を堂々巡りが埋め尽くしていた。
江弥華に「持て」と言われた山姥の首に目を落とす。
「……ごめんなさい」
七大十が小さく謝った。
(この女の人には、言えるのに……)
七大十が首の耳の後ろに手を添えて優しく抱いた。
落とし穴の脇を抜け、罠を過ぎる。
麓に闇に沈んだ村が見えた。塀の扉を照らす松明だけがポツンと灯っている。
扉を潜り、田んぼの畦道を進む。
寝息のような風に揺れた稲穂のざわめき。
砂利を踏む音がやけにはっきりと聞こえる。
皆が寝静まった村の中で、地主邸の一室にだけ、小さな明かりが灯っている。
「……待ってたんだ……!」
七大十が地主の評価を修正する。
明かりに誘われるように、七大十の歩幅が大きくなった。
しかし江弥華が何かを見つけたように立ち止まる。
「いた」
地主邸の門の前で、江弥華が直角に曲がった。
鎖が引かれる。
引きずられて、地主邸の敷地を回り込む。
江弥華が一瞥を送った先は、孤児が眠る納屋だった。
土壁の角で江弥華が止まり、「首を寄越せ」と取り上げた。
「瞳くらい、閉じてやれ」
と、江弥華が山姥の瞼をそっと閉じてやった。
「意外だ……」
つい言葉を漏らした七大十を一瞬睨み、江弥華が角から飛び出した。
「そこで何をしている? ……いや、何をしようとしている?」
江弥華が言ったその先で、土壁に手をかけたまま固まった彼女がいた。
納屋のちょうど真裏。
彼女が顔をこちらに向ける。
感情の抜け落ちた顔に、そばかすが横断している。
「逮捕……ですか?」
流民の女が虚な目を向けた。
「それは私の仕事ではない」
江弥華が見下すように顎を上げる。
「貴方の望みは叶わないと言いに来た」
横で聞いていた七大十が「……は?」と声を上げた。
女も眉を顰めている。差し出した両手がゆっくり下がった。
見てろと言わんばかりに、江弥華が山姥の首を掲げた。
「累影写し、もしくは累の呪術か?」
女の肩が跳ねる。
江弥華が女の顔を真っ直ぐ見つめながら、札を取り出した。
「これは、人鬼大戦以前、人同士が争い合っていた時代に使われていた呪術だ」
眠るように瞳を閉じた山姥の顔に、札が貼られた。
『隆』、『斬』そして『纏』の文字が青く染まっている。
「主な用途は、密偵や潜入。必ず捕らえた捕虜を横に置いて行使していたそうだ。こんなふうに写す対象をしっかり見てな」
江弥華が『火』『水』『風』の3枚を重ねて、静かに術名を落とした。
「隆・斬・纏・累影写し」
――メキ。
札の下で、山姥の顔が蠢き——。
はらりと札が剥がれた。
灰となって風に溶ける中で、女が目を見開いていた。
江弥華が首を確認して、投げる。
女の足元に転がった顔に、そばかすが浮いていた。
「ウソ……」
上擦った声で、女が自分と同じ顔の首を持ち上げた。
「すごい……! すごいすごい! すごいです!」
喜色満面の表情を向けた。
しかし七大十には、女の笑顔がおぞましく見えた。
「わー、そうやるんですねー。すごーい、あたしとおんなじだー」
女が嬉しそうに、山姥の首をこねくり回して観察する。
「……聞いてたか?」
江弥華の声が低かった。
「この呪術は、対象を手本にして顔を写す呪術だ。なぜか分かるか?」
女の手がピタリと止まった。
ギギギと、女が首を捻った。
瞳孔が開き、泥が溜まったような瞳を江弥華に向けた。
冷たい風が山姥の髪をザーと鳴らす。
「……なぜ……って……?」
ひび割れた、女の薄い唇が動く。
「人の記憶は曖昧だからだ。どんなに大切な人だろうと薄れ、補正しようと脚色が入る。……例え、貴方の子供――」
「我が子の顔を忘れる親がどこにいますか!」
瞼をゆっくり閉じた江弥華が深く息を吸い込んだ。
「……そうか」
言葉が夜風に溶けて消える。
江弥華が視線を切るように、踵を返した。
「帰るぞ」
と鎖が小さく鳴って、七大十も背を向けた。
弾んだ声が追いかける。
「累が成功したら、お礼に行きますね!」
「……私は二度と会いたくない」
ひどく冷たい声だった。
「ふふふ……」
と、嬉しそうな笑い声が小さく聞こえた。
「もう少しだからねー」
という猫撫で声に、七大十の足が止まった。
脳裏に実家の光景が駆け巡り、嫌々見せられたホームビデオの映像が流れ——。
七大十は振り返っていた。
「待っててねー、信彦ぉ〜」
山姥の首に語りかけた女の姿が、七大十には、幼い自分を呼ぶ母親の姿に重なって見えた。
「――母さん!」
女がバッと顔を上げる。
沈黙が降りた。
どうして、そんな言葉が出たのか分からない。
今、どんな顔で女を見てるのか分からない。
女が怪訝な顔で立ち上がる。
大事そうに首を抱えて。
女が小さく頭を下げて、逃げるように去っていった。
七大十は追うことも振り返ることも出来ずに、佇んだ。今では普通に立てる足を見つめる。
(どうして、忘れてたんだ……)
弛んだ鎖がぐんと張った。
七大十の体が、走り去る女に背を向ける。
もう二度と、会うことはないと自覚して。
第二章「垂乳根の影」 完




