面
七大十は駆け出した。
しかし、次の瞬間、胸の鎖が鋭く突っ張った。
振り返ると、江弥華が鎖を握り締めて歩いている。
「何してんだ、早く!」
と七大十が鎖を引っ張るが、それ以上の力で江弥華が鎖を引き返した。
「急いでどうする。私たちは医者じゃないんだぞ」
そう言った江弥華は真横を向き、目を細めている。
何だと、七大十が江弥華の視線を追った。
田んぼの畦道を、青を纏った一組の夫婦が歩いている。
急いだ様子の夫が、妻の手を引いていた。
妻が魂を抜かれたように足をもたつかせ——、ふと、こちらの視線に気づいて顔を向けた。
顔を横断するそばかす。
あの女だ。
女が足を止めた。夫が躓き、前のめりに転ぶ。怒鳴りながら女の手を引くが、女の体は微動だにしない。夫が妻の視線に気が付いて、こちらに目を向けた。そして慌てた様子で、会釈する。
七大十も反射的に頭を下げていた。
すると女がこちらに向かって手を伸ばした。
何か言いたげに口を開け、一歩、こちらに近き——。
江弥華の青い髪が、七大十の視界を横切った。
「行くぞ」
鎖が引かれた。
「え……ああ」
七大十が後を追う。
江弥華が塀の扉を押し開けて外に出る。
七大十も続く間際に、後ろを振り返った。
数十メートル後ろから、そばかすの女が、夫に怪訝な顔で見守られながら、ふらふらと、怪しい足取りでついてきていた。
「用があるなら、向こうから来る」
と江弥華に鎖を引かれた。
「……そう、だな」
七大十は女から目を逸らし、江弥華の後を追った。
用水路に沿って歩く。
程なくして人垣が見えてきた。松明が、人垣の沈痛な面持ちを照らしている。
「引き上げてくれ!」
「任せろ!」
と声が聞こえてくる。
用水路の中に入った大人たちが、小さな体を持ち上げていた。
七大十の足が早まる。しかし江弥華が冷たい視線が、それを止めた。
「悪い。通してくれ」
江弥華の言葉で人垣が割れた。
江弥華がその隙間に体を滑り込ませて進み、七大十が続く。
そして、人混みの前に立ち、七大十は言葉を失った。
用水路から引き摺り上げられた子供の体を、大人たちが優しく地面に下ろす。
うつ伏せで浮いていたのだろう、前に出た手足が不自然に上がったまま戻らない。
――ザリ。
足許から砂を擦る音がはっきりと聞こえた。
江弥華が子供の遺体へ歩み寄り、手を合わせた。
その背中が、やけに遠い。
音が水の底のように籠っている。
「おい誰か!」
用水路の中から男が叫び、「水草が絡まって上がんねえぞ!」と踏ん張る声が続く。
七大十はそれをどこか遠くから眺めていた。
引き上げられた男の足には、何本もの水草が絡んでいた。
(あー、それは溺れるわ)
七大十の心に無責任な言葉が浮かんだ。
「優二!」
ドンと背中を押されて、七大十は現実に戻された。
孤児が遺体に駆け寄り、
「優二! なあ! 優二!」
必死にその体を強請るが、反応はない。
孤児の声がだんだんと小さくなる。
「……嫌だ」
孤児が、遺体の服の襟を握り締めて首を振る。遺体の胸に顔をうずめた孤児の肩を震えていた。
江弥華がその肩にそっと手を置いた。
「コイツは本当に優二なのか、ちゃんと顔を見て、確認してくれないか?」
孤児が、何を言っているんだ、という目で江弥華を見つめ返す。
しかし江弥華の圧に負けるように、遺体の顔に目を向けた。
ひしゃげた鼻。紫色に腫れた瞼。皮膚が剥がれるほど掻き毟られた口元。元の顔が分からないほど、執拗に傷つけられた顔。
七大十が孤児の反応を窺った。
「……違う」
声が震えていた。
孤児が遺体の顔を横断するように指を這わせる。
「……違う……優二にこんなブツブツはなかった……!」
恐怖と怒りに震えた声が訴える。
「でも、この服は優二のだ!」
江弥華が静かに頷いた。
あちこちから「どういうことだ」と声が上がる。
「なら……」
と江弥華が遺体の顎の下に爪を立てた。
七大十の視界の端で青い影がぬるりと動いたのが見えた。
江弥華の爪先が顔に貼り付いた札を引っ掛け――。
——ペリ。
「ああ、可哀想に……!」
そばかすの女が江弥華と孤児の間に滑り込んだ。
「ああ……どうして……ひどいわ……」
女が嘆きながら一心不乱に遺体の顔を撫でる。
しかし七大十には、札を貼り直すように見えた。
江弥華が女の顔を凝視する。そして低く語りかけた。
「そのそばかす、似てるな。親子か?」
バッと女が顔を上げた。
眼球の血管が見えるほど目を見開き、頬が筋張るほど食いしばる。
「そんなわけ、ないじゃない……」
ひどく掠れた声だった。
江弥華がその顔をじっと見つめ返す。
誰一人動かず、松明の火が揺れる。
パチ、と松明が爆ぜて、
江弥華が「フッ」と立ち上がった。
「疑ってすまない。そばかすなんて珍しくもないのにな」
と江弥華は膝についた砂を払いながら謝罪の言葉を口にした。
——ピィー!
上空から鳥の声がした。
青白く光った燕が飛んで来る。
「……来たな」
江弥華が空を見上げ、右腕に巻いた革製の腕貫の皺を伸ばすように引っ張った。
一直線に飛来する燕。
ピィー、という音がけたたましく鳴り響き——。
燕に向かって、江弥華が腕を振り抜いた。
——パァン!
燕が青い火の粉と化して散った。
誰も声を出せない静寂の中、
「チッ」
と江弥華の舌打ちがこだまする。
「帰還命令だ。戻るぞ」
苛立ちの籠った視線が七大十を射抜く。
『要帰還 詳細求む 陰陽庁』
と、江弥華の腕貫に青字の焼印が怪しく光っていた。




