ずさんな罠
塀の裏側にも棘が突き出していた。
すぐ下を堀のような用水路が流れている。幅2メートル近い用水路の底には水草が生い茂り、落ち葉に混じって桃の実が甘ったるい匂いを放って流れていた。
「まずは猩々が侵入した形跡から探すぞ」
と江弥華に鎖を引かれて、水路沿いを歩く。
七大十は塀の棘に目を凝らす。棘は内側に比べて、随分と汚れていた。長い間、猩々の血を吸ってきたのだろう。棘は茶色と通り越して黒く、まるで鋼のようだった。
「あ!」
と七大十が声を上げた。
「どこだ?」
と江弥華が顔を寄せて来る。
江弥華より先に見つけた優越感を隠しながら、七大十は真新しい血痕に指を向けた。
「……あれは途中で諦めてるやつだろ。塀を越えた痕跡を探すんだ」
言って江弥華がふいっと身を翻した。
七大十が慌てて確認すれば、確かに塀の中段で血痕が途切れていた。
「あ、ホントだ」
七大十が江弥華の後を追う。今度こそと目を皿にして探した。
しかし見つけられた血痕はどれも下段ばかり。結局、塀の先まで残っていた血痕は一つしかなかった。
「……確かに。少なすぎる……」
と江弥華が細い顎を擦った。考え込むように地面を彷徨わせた視線がスッと山に向く。
「……罠を見に行く」
「え!? もう真っ暗だけど!?」
七大十が驚いて、周りを見ろと手を広げる。
山腹にはすっかり闇が落ち、木々の輪郭が辛うじて分かる程度だ。
「だからどうした」
江弥華が馬鹿を見る目で一瞥する。
「さすがに危ないだろ(本物の鬼が出る世界だし!)」
と内心、付け加えて訴えるが、「問題ない」と江弥華が言い切った。
「だいたい猩々討伐なんて大して金にならん。だったら一匹でも仕留めて胆嚢を売った方がマシだ。……なにせ、四時間も文句言いながら鵺に乗って来たんだからな?」
江弥華が片眉を上げて七大十を笑う。
(……確かに、そうかも)
と七大十は思って、山に入っていく背中を追いかけた。
「……ちなみに、いくら貰えるの?」
「二三〇文」
「えっと……それって何が買えるくらい?」
「まあ、一日の食費で消えるな」
「胆嚢は?」
「確か、一個三百文くらいだ。売れば売っただけ盆の上に小鉢が増やせる」
「じゃあ、行くっきゃないな。四時間かけて来たんだし」
そう決意して、七大十は力強く山の斜面を踏み締めた。
しかし舗装されていない山道は、想像以上に七大十の体力を奪っていった。
いつの間にか、七大十は横腹を抑えて、平然と進んでいく江弥華の背中に喰らい付いた。
山の中腹に入った辺りだった。
江弥華が片手を上げて立ち止まった。
七大十が反射的に息を潜める。そして江弥華が見つめる前方に目を向けた。
山道脇の藪の中に、空っぽの檻が静かに口を開けて佇んでいた。周りには干からびた稲が散乱している。
江弥華と七大十が檻に近づいて中を覗く。
見るからに刈ったばかり稲の束が置かれていた。
「……掛かってないね」
七大十が呟いて江弥華を見る。しかし江弥華はすでに何かに気付いて動いていた。
江弥華が地面に目を落としながら、ウロウロと檻の周りを一周する。
「……誘引用の餌がない」
「え?」
しかし聞き返す七大十を無視して、江弥華がさらに山の奥へ進む。
七大十は、(もういんじゃない?)と出掛かった言葉を飲み込んで追いかける。代わりに(早く出て来てくれ)とまだ見ぬ猩々に念を送った。
痛む脇腹を伸ばしながら山を登る。
江弥華が猩々の痕跡を探すおかげで歩調が緩み、七大十はなんとか置いていかれずに済んでいた。
どこからか嗅ぎなれた匂いが漂ってくる。
七大十がスンスンと鼻を鳴らした。
「——みりんだ」
江弥華と一緒に匂いの元を探す。
数メートル先の木の根元に、ギリギリ片手で持てるほどの石が、地面から一センチほど浮いているのを見つけた。
「退かせ」
と言われて、七大十が石を持ち上げる。下には、黄みがかった液体で満たされた湯呑が土に埋まっていた。
「何で?」
と七大十が顔を上げれば、
「猩々の口噛み酒だ。回収されずに発酵が進んだんだな」
と江弥華が一人納得して頷いた。
置いてけぼりを喰らった七大十が子供のように「何で?」を繰り返す。
江弥華は鬱陶しそうにため息を吐いて、「猩々は求愛のために酒を造る」と猩々の生態について話し始めた。
「美味い酒を造った雄がモテる。しかし美味い酒には美味い原料が不可欠。故に人が作った作物を狙う」
「へー、面白いな」
と、七大十が後ろを振り返った。見下ろした木々の隙間から、月に照らされた田園風景が銀色に輝いている。
「私はまだ飲めないが、美味い酒には器も重要なんだろ? だから人家を襲って陶器を奪っていくんだ」
説明は終わりだと、江弥華が鎖を引いて先を歩み始めた。
後を追いながら、七大十は大きく息を吸う。
みりんに混じる桃の匂い。よく良く周りを見渡せば、加牟豆美桃のピンク色がちらほらと見つけられた。
「ああ……異世界……なんだな……」
急にそんな実感が湧いてきた。
やはり嬉しいような、でもどこか寂しいような、そんな感情が胸に渦巻く。
「さっきの石を持ってこい」
と江弥華に言われて、
「あ、うん」
と、七大十は我に返った。どこか小っ恥ずかしく、それを隠すように明るく答えて、みりんを塞いでいた石を握り直した。
江弥華が屈んで地面を見つめていた。視線の先でばら撒かれた米粒が、仕掛けた罠の位置を教えていた。
「貸せ」
江弥華が出した手に、七大十が石を乗せる。そして江弥華が無造作に米粒の真ん中へ石を投げ落した。
ガシャン!
山に響いた鉄の音。
土中から飛び出したトラバサミが刃を閉じたまま静止している。
「刃に土が貼り付いてるな」
「取る?」
「ああ……」
七大十が刃に着いた土を払う。暗いせいで、土か錆か分からなかった。試しに落ち葉を当ててみる。
ぬるりとした感触。赤黒い体液が葉にこびり付いた。
「……血だ」
七大十が呟き、
「まだ乾いてないな」
と江弥華が目を細める。
「……でも猩々はいないよな」
そう口にした瞬間、「隠れてる?!」と七大十は慌てて辺りを警戒した。
左右を忙しなく見渡す七大十に、江弥華が冷ややかに言う。
「わざわざ罠を元通りに戻してか?」
そして「だが、ここで暴れたのは確からしい」とトラバサミの近くに落ちていた赤い毛を指した。
その時だった。
ドォン! ドボォン!
背後から、大きな音が大気を揺らした。
七大十の肩が跳ねて、振り返る。
眼下に見える村に、松明の列が出来ていた。
「ただの鬼除けの太鼓だ」
江弥華に言われてしばらく見ていると、確かに松明の列が塀に沿って動いている。
「もう少し行ったらため池があったはずだ。その周辺を見回ってから帰るとしよう」
そう言って、江弥華が踵を返した。
「……やっと終わる」
七大十は疲れた体に鞭打って歩を進める。
依然、横腹は痛かった。息は上がり、唾液が溜まった口の中が甘酸っぱい。
七大十は緊張感が薄らいでいくのを感じた。太鼓の音が、人がいるという安心感を掻き立てる。
「……池ってあと、どんくらい?」
「さあ……。この村は初めてだから知らん」
「えぇ……」
七大十の脳裏に鵺の間抜け面と一面の田園風景が浮かんで、心が折れかける。
「——だが」
と江弥華が前を向いたまま言葉を続ける。
「どの村も大体似たような地点に作るから、そろそろなはずだ。そうだな。あと——」
突然、江弥華が言葉を切った。
七大十が「どうした?」と聞こうとした瞬間、変な臭い。
動物の死骸が腐ったような、酸味のある腐臭が山の奥から湿気を帯びて降りてくる。
江弥華の歩みが早まった。
七大十も疲れを忘れて急いだ。無意識に息を潜めている。
一歩進むごとに腐臭が濃くなり、鼻を刺す。
七大十は何度も上がってくる胃液を飲み込んで突き進んだ。
地面に、まるい影が落ちていた。
山の斜面をくり抜いた落とし穴だった。
腐臭は、暗い闇の奥底から溢れていた。




