そばかすの女
稲勢藩鼠矢郡根寝占村。午前六時八分。
朝日が山の稜線を白く描き出して、涼やかな空気が吹き抜ける。風に揺られた稲穂が黄金色の頭でお辞儀する。
枯れ枝のような足が、畦道の砂利を踏み締めた。白髪交じりの髪が揺れ、泥を吸って灰色の草履が草を倒した。
顔面を横断するそばかす。
痩せ細った女が桶を抱いて歩く。
寝静まる村が虚ろな瞳に反射した。
ひび割れた薄い唇を開く。
「……なんで……今日も、いないのよ……」
女がだらんと腕を垂らす。
昨夜研いだばかりの包丁が桶の中で揺られて、コンと朝の乾いた音を響かせた。
廃材を組んだ長屋の一室が、女の自宅だった。
ボロ布を垂らしただけの玄関をそっと捲り、女が体を滑り込ませた。
いびきをかいて眠る夫を一瞥して、桶を炊事場の奥に隠す。
朝餉の準備を始めて暫く、布団を捲る音を聞いて、女は手を止めた。
背後に耳をそばだてる。
もぞもぞ起き出した夫の大きなあくび。
ボコボコと煮立った鍋を見つめながら、夫の第一声を待った。
「はぁ〜ぁ。飯、できてるか?」
女の肩から力が抜け、ぐるりと一周、鍋をかき混ぜた。湯でふやかしただけの粥から湯気が立つ。
「……今、出来ました」
女が鍋を火から放す。そして大小二つの椀によそった。
布団の上で胡座をかいた夫に、大きい方の椀を手渡して、女は対面に正座する。
手に持った小さな椀が、女の隣に優しく置かれた。
「さあ、お食べ」
誰もいない空間に、女の声が虚しく響いた。
夫は嫌悪を露わに、女を見る。しかし、出かかった言葉を粥ごと胃に流し込んだ。
夫が空の椀を置いて女に箸を向ける。
「お前は食わんのか? 今日も仕事だろ?」
女が唇を噛んで視線を逸らす。誰もいない空間を見やり、耐えるように言葉を絞り出した。
「……もう食べる物がありません」
素っ頓狂な顔で、夫が顎で小さな椀を指した。
「それがあんだろ」
「これは信彦の分でしょう!」
耳をつんざく程の金切声。
まるで、そこに子供がいるかのように、女が誰もいない空間を手で庇う。
夫の顔が怒りに染まり、口を開いた。しかし堪えるように言葉を飲む。
その後も何か言いたげに口を開閉させる。
最後には、吐き捨てるように謝罪の言葉を口にして家を出た。
「……ごめんね?」
優しくて悲しい声が、粥に染みる。
女は虚空に向かって笑いかけた。
「あ、お母さんも今日早いのよ。今日から稲刈りなの。地主さんからお米いっぱいもらってくるからね」
そう言って女も家を出た。
敷きっぱなしの布団に朝日が差し込んだ。
田んぼは、陽が上がるにつれて暑さが増していく。
女は滝のように汗を流しながら稲束の根元に鎌を押し当てていた。
陽が傾きかけ、ようやく一面の田んぼの稲刈りが終わる。
女が数時間ぶりに足腰を伸ばしたとき、脱穀作業に駆り出されていた十数人の孤児が目に入った。腰の痛みも忘れて、女は子供たちを見つめた。
しだいに虚ろだった瞳に歪んだ光が宿る。
やいやい喋りながら作業する子供たちの声に混じって、我が子の声が聞こえた。
「信彦……?」
女の手から鎌が抜け落ちて、土に突き刺さる。
足が出る。
「……信彦……?」
滲んだ子供たちの像に、女が手を伸ばしーー。
「これはこれは! 一級陰陽師様でしたか!」
地主の声で、女が我に返った。
女が手を静かに降ろして、地主を見やる。
村の入り口に、青髪の少女と胸に鎖を垂らした青年が立っていた。
地主が頭を下げて、身を翻した。
彼らが、村に入ってくる。




