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第4話 — ノワール・警察劇

「すべての罠に牙があるわけじゃない。 中には、香りだけを纏うものもある。」



バーには夜の終わりの匂いが漂っていた。 安酒のアルコール、古びた煙、そして誰のものとも言えない甘すぎる香水の残り香。 まるで外の世界が別の時間軸にあるかのように、音はすべてくぐもっていた。


少年――休暇中の警官だが、身体はまだ警戒を解いていなかった――は、左手でグラスを回していた。 ただ、何かしているように見せかけるためだけに。 隣に座る母親は、言葉少なに、しかしよく観察していた。 音楽は低く、心臓の鼓動のように遠くで鳴っていた。


何も目を引くものはなかった。 彼女が現れるまでは。


入ってきたわけでもない。 近づいてきたわけでもない。 ただ、そこにいた。 バーの隅に溜まった霧の中から、にじみ出るように。


黒いドレス、手にしたグラス、ゆっくりとした歩み。 彼女の視線は何かを探しているわけではなかったが、すべてを捉えていた。 そして少年と目が合った瞬間、逸らすことはなかった。


母親は気づいた。 そして、人生を知り尽くした者だけが使える皮肉な笑みを浮かべた。


「もう“容疑者”じゃないのね?」


少年は唾を飲み込んだ。 グラスの回転が止まる。 苦笑いで誤魔化しながら、嘘をついた。


「トイレに行ってくる。すぐ戻るよ。」


母親は何も言わなかった。 ただ、すべてを知っているような目で見ていた。


少年は立ち上がった。 一歩ごとに、足取りは軽くなっていく。 彼が探していたのは、トイレではなかった。 あの視線の奥にある“理由”だった。


バーの廊下は、以前よりも長く感じられた。 端にある黄色い照明は、点滅しながら消えそうだった。 彼は、二つの掛けられたコートと、汚れた鏡の前を通り過ぎた。 鏡に映った自分の顔を見たが、そこに“自分”はいなかった。


外の空気は冷たかった。 午前二時を過ぎた街には、車さえも眠っているような静けさがあった。


彼女はそこにいた。 街灯の下、横向きに立ち、まるで世界が彼女のために止まったかのように。


少年はためらった。 恐怖ではなく、理解できないものへの敬意として。


彼はゆっくりと近づいた。 知らない土地に足を踏み入れるように。


「……こんばんは」 声は思ったよりも小さく出た。 「誰かと一緒ですか?」


彼女はゆっくりと顔を向けた。 グラスはまだ手にあり、視線は冷たいまま。


「いいえ。」 力を入れることなく、そう答えた。


彼は深く息を吸った。 警官としての本能は「何かがおかしい」と告げていた。 人間としての本能は「それでも構わない」と囁いていた。


「一緒にいたいですか?」 彼は、あくまで自然を装って尋ねた。 「この時間の道は、危ないですから。」


彼女は微笑んだ。 それは誘惑の笑みではなかった。 何も語らず、ただ見つめるだけの笑み。


「ええ。迷惑じゃなければ。」


彼は、ほとんど見えないほどの小さな頷きで応えた。 そして、二人は歩き始めた。


道は単純だった。 だが、どこか見覚えのない風景だった。 街の灯りは一つずつ後ろに消えていく。 まるで自ら幕を閉じるように。


舗道はやがて土に変わり、 足音の響きも乾いた音に変わっていった。


彼女はゆっくりと歩いていた。 グラスは空になっていたが、まだ手に持っていた。 ドレスは風に揺れ、花の香りが、ここでは一層強く感じられた。 街から離れるほどに、その香りは濃くなっていく。


彼は周囲を見渡した。 空き地、歪んだ柵、消えた街灯。 沈黙が「無」ではなく、「警告」として存在する場所。


「この辺に住んでるんですか?」 彼は、空気を変えようと問いかけた。


「そこ。」 彼女は顎で示した。


家は影のように現れた。 小さく、柵もなく、灯りもない。 住まいというより、放置された空間のようだった。


彼女は鍵も使わずに扉を開けた。 ゆっくりと振り返り、急かすことなく言った。


「泊まっていきますか? ここは夜になると冷えますから…風邪を引いたら困りますよ。」


彼は一瞬、断ろうかと考えた。 だが、彼女の中に――あるいは自分の中に―― すでに答えは決まっていた。


彼は、足を踏み入れた。


家の中は冷たかった。 気温ではなく、空気そのものが。


写真も、絵も、誰かが「ここにいる」と示すものは何もなかった。 ただ、白い壁と、義務的に置かれたような家具だけ。


彼女は静かにコートを脱いだ。 髪が肩に落ちる様子は、まるで儀式の一部のようだった。 そして、何も語らない目で彼を見つめた。 だからこそ、すべてを語っていた。


彼はソファに座った。 何かを待つべきなのか、すでに始まっているのか――わからなかった。


彼女はゆっくりと近づいてきた。 急がず、目的も見せず。


その触れ方は、軽かった。 まるで試すように。 彼が本当に「ここにいる」のか、確かめるためのように。


彼は応えた。 確信があったわけではない。 ただ、衝動だった。


夜は言葉なく進んだ。 身体の音、呼吸の音、そして止まったような時間だけがそこにあった。


彼女は身を委ねることもなく、離れることもなかった。 ただ、その瞬間を受け入れているだけ。 まるで、そこに属していないかのように。


彼は読み取ろうとした。 一つ一つの仕草、間、視線。 だが、彼女のすべては計算されているようで―― あるいは、空っぽすぎて読み取れなかった。


眠りについたとき、彼は彼女に近づいたのか、 それとも自分から遠ざかったのか――わからなかった。


最初に聞こえたのは、沈黙だった。 水の音も、足音も、声もない。 ただ、何かを待っているような空虚だけがあった。


彼はゆっくりと目を開けた。 隣のベッドは冷たかった。 まるで、彼女がずっと前に立ち去ったかのように。 彼の服は散らばり、シーツと混ざっていた。


花の香りはまだ残っていた。 だが、今は違っていた。 不在の気配と混ざっていた。


彼は立ち上がった。 家の中は、以前よりも空っぽに感じられた。 一歩踏み出すたびに、音が大きく響く。 まるで、この場所が彼を外へ押し出そうとしているかのように。


彼は扉の前まで行き、耳を当てた。 そして、聞こえた。


低い声。 二人。 男たち。


「本当にあいつか?」 「泊まるように仕向けた。まだ寝てる。今なら、いける。」


心臓が跳ねた。 彼は一歩、また一歩と後退した。 部屋を見渡す。 窓はなかった。 あるのは扉だけ。


彼はベッドに戻り、服を手に取り、急いで着替えた。 扉をそっと開けようとしたが、軋む音が鳴った。 廊下には誰もいなかった。


彼はリビングへ向かった。 誰もいなかった。 彼女も、男たちも。


玄関の扉は半分開いていた。 外の道は、以前よりも暗く見えた。


彼は外へ出た。 左右を見渡す。 何もなかった。


背後の家は、小さく見えた。 まるで、消えかけているように。


香りはまだ肌に残っていた。 疑念は、心にこびりついていた。


彼は道を歩いた。 自分が標的だったのか、共犯だったのか、ただの傍観者だったのか――わからなかった。 だが、なぜかそれが、どんな答えよりも危険に思えた。



「でも——もし、あの夜、別の選択をしていたら?」


明日、ジャンルが変わる。 運命も、また別のものになる。

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