第1話 - スリラー/陰謀
「人を傷つけるのは、いつも“物”とは限らない。 ときに先に刺すのは、“視線”だ。」
その夜のバーは、異常なほどに混み合っていた。
タバコの煙と、こぼれた酒の重たい匂いが混ざり合い、喉にまとわりつくような霧を作っている。古いスピーカーからは、低くて沈んだビートが鳴っていた。時間そのものを引きずるような音。
少年は母親の隣に座り、グラスの半分残った酒をかき混ぜていた。退屈を追い払うかのように、無意識な手つきで液体を揺らす。
特別な夜ではなかった。 少なくとも、あの視線を感じるまでは。
最初は、首筋に走る小さな違和感。 次に、遠くから誰かに狙われているような重み——冷たい、見えない照準が、彼の背中を捉えていた。
心臓が反射的に跳ねる。 理由もわからぬまま。
彼はゆっくりと顔を向けた。
そこに、彼女がいた。
女は、ゆっくりとした足取りで店内を横切っていた。どこにも急ぐ様子はない。 耳元では、揺れるピアスが計算されたように輝く。長い髪は肩にかかり、まるで暗いカーテンのようだった。
そして——あの瞳。
冷たい。臨床的。まっすぐ、彼だけを見ている。
背筋を這う寒気。 まるで、喉元にナイフの刃を押し当てられたかのような感覚。
目を逸らすことが、できなかった。
その一瞬、バーのすべてが消えた。 音楽も。会話も。 残ったのは——あの視線の重みだけ。
「どうするの?」
母親の声が、呪縛を断ち切る。
少年は何度かまばたきをし、表情を整えようとした。
「トイレに行ってくる。」
母は目を細め、不信感をにじませながらも何も言わなかった。
彼は席を立った。 そして、鼓動が異常なほど速く鳴る中—— 彼女の後を追う決意をした。
バーの廊下を急ぎ足で通り抜ける。 何の計画もなかった。 ただ、あの女を見失うわけにはいかなかった。 彼女が誰なのか——それだけは、知りたかった。
外の空気は、夜の寒さとは思えないほど冷えていた。 彼女は数メートル先を、ゆっくりと歩いていた。 まるで、彼が来るのを知っていたかのように。
心臓の音が頭に響く。 ドラムのように、重く、激しく。
一歩ずつが重すぎた。 気づけば、彼は足を速めていた。 彼女に近づいていた。
考える間もなく、彼は彼女の腕に触れた。
彼女は立ち止まった。 ゆっくりと、彼の方を振り向く。
——「誰かと一緒?」 その言葉は、思っていた以上に震えていた。
彼女は首を少し傾ける。 まるで、彼の目の奥を透かして、何かを読み取ろうとするように。 一瞬だけ、笑みが浮かびそうになった。 でも——笑わなかった。
——「いないわ」 声は乾いていた。冷たく、切り捨てるような。
彼の喉が渇く。 冷たい汗が背中を伝う。 それでも、彼は聞いた。
——「一緒にいたいと思ってる?」
沈黙が空気を押し潰した。 彼女の瞳は彼のものを捉えたまま、しばらく動かなかった。 そこには、魂を突き刺すような何かが——あった。
彼女は答えた。
——「ええ」
その一言は、まるで宣告だった。 その顔に、感情はなかった。 笑顔も。驚きも。何も——なかった。
彼は深く息を吸い、動揺を隠そうとした。 そして、彼女の後を歩き始める。 この先に何が待つのか——それを知る術はなかった。
二人の間に流れる沈黙。 それは、不快感すら覚えるほど濃密だった。
女は前を歩いていた。 その足取りは、確かなリズムを刻んでいた。 振り返ることなく——けれども、彼が後ろにいることを知っているかのように。
「家、遠いの?」 彼が空気を切るように口を開く。 少しでも、沈黙を崩したかった。
「近いわ。」 それだけ。乾いた応答。
何ブロックか進む。 少年の腹に、冷たい感覚が広がっていく。 誰かに見られているような、説明できない寒気。
ふと、黒い車が目に入る。 エンジンはかかっている。窓はスモークで中は見えない。
一瞬だけ——確かに誰かがこちらを見ていた。 彼が目を凝らすと、ライトが一度だけ点滅し、車は静かに動き出した。 そして、曲がり角を抜けて消えていった。
「今の車、見た?」 彼は囁くように問う。
「車?」 彼女は顔すら向けないまま答える。
街の空気は、さらに静寂を増していく。 家々は眠っているかのよう。 いや、窓の奥で誰かが覗いているような気配。
彼はもう、何かを問いかける気すら失っていた。 ただ、息を早めながら彼女のあとを歩いた。 そして、心の奥底で確信する——この場所に入ってはいけない、と。
彼女の家は、狭い路地にあった。 街灯もほとんどない暗がり。 木製の扉には、使い込まれた痕が残っていた。
中に入ると、空間の異様さがすぐにわかった。
家具は少ない。 本のない本棚。 壁には一枚の写真もない。
まるで誰も住んでいないかのよう。 あるいは——この一夜のためだけに整えられた空間。
彼女は飲み物を差し出す。 彼はうなずく。 喉が乾きすぎて、味すら感じられなかった。
空気は二人を近づける。 しかし緊張は、影のように絶えずそこにあった。
触れるたびに、境界線が揺れる。 欲望と——危機の間で。
──深夜の静寂。 少年は目を覚ました。
彼女は隣で身をよじっていた。 落ち着かないような動き。 顔は横を向いていたが、目は——開いていた。
彼は眠ったふりを続ける。 だが、あの青白い光が、彼女の顔を照らすのを見逃さなかった。
素早い指の動き。 何かメッセージを送っている。 見てはいけないものを、彼は見てしまった。
彼女が視線に気づいた瞬間、スマホの画面は乱暴に消された。
「眠れないのか?」 彼は喉の奥から声を出す。
彼女は——少し遅れて答えた。 遅れた、ほんの数秒が不自然だった。
「仕事の連絡よ。……寝てて。」
彼は信じようとした。 だが、彼女の目には——それが「仕事」だけではないと語る何かがあった。
翌朝、最初に気づいたのは「静寂」だった。 足音もない。 水の音も。 誰かが朝食を準備している気配も——ない。
彼はゆっくりと目を開けた。
ベッドには——誰もいなかった。
床には、彼の服が無造作に散らばっていた。 まるで誰かが昨夜、急ぎながら脱ぎ捨てたかのように。
彼は立ち上がる。 心臓が、理由もなく速く打っていた。
一歩ごとに、違和感が膨らんでいく。 家の空気が——何かを隠しているようだった。
リビングは、生活感がほとんどなかった。 ソファの横に、開いたファイル。 散らばった紙。写真らしきものも見える。
彼がそっと近づくと、廊下から足音の影を感じた。 彼は本能的にファイルを閉じる。
そのまま進んだ先に、鍵のかかった扉。 ノブを回してみたが——金属の乾いた音が、拒絶のように響いた。
不安は、確かなものへと変わる。 彼は紙切れを見つけ、名前と電話番号を走り書きする。
出口のドアに手をかける。 逃げる準備は——できていた。
そのとき、背後から声が届いた。
「もう帰るの? お昼の材料、買ってきたのに。」
彼女は玄関に立っていた。 両手にはスーパーの袋。 その笑顔は——作り物だった。ぎこちなく、機械的で。
その瞬間、またあの寒気が背筋を走った。
彼は歩を引いた。 再び、家の中へ。
彼女はキッチンへと袋を運ぶ。 その動きは滑らかで、だが違和感があった。 まるで——振り付けされた動作のように。
「煮込みの肉、好き?」 彼女はそう言って、大きな包丁を引き出す。
彼の視線は、その刃に吸い寄せられた。 あまりに鋭く、研ぎ澄まされていた。 昨晩、用意されたような——そんな気配。
「……好き、だと思う。」 彼は平静を装いながら答える。
彼女が材料を切る間、彼は細部に目を配った。
それらのパッケージは、見慣れた店のものではなかった。 ラベルの言語も——異国のもの。
彼は椅子にもたれた。 その瞬間、彼女が包丁を操る姿と光の反射が重なり、脳裏を突き抜ける。
——「この目、どこかで見たことがある。」
そして、記憶が爆ぜる。
遠い昔のニュース映像。 断片的に思い出す報道。
「女性、不可解な事件に関与。失踪者の行方は不明。正式な容疑なし。」
その記憶は、胸に重みを落とした。
——今すぐ、ここを出なければ。
彼はゆっくりとテーブルから身を引いた。 その視線は、彼女の手に握られた包丁に釘付けだった。
——「ちょっとタバコ買ってくる。」
彼女の手が止まった。 まるでその一言が、空気を切り裂いたかのように。 数秒間、沈黙が支配する。
彼女は顔を彼に向けた。 刃を握ったまま——ゆっくりと。
「お昼、作るって言ったでしょ。」
声は大きくなかった。 だが、その内側には何かが秘められていた。 彼の心臓が、強く鳴る。
「待てないの?」
彼は口を開こうとする。 だが、言葉が——出てこなかった。
体が固まる。 動けば何かが壊れそうで。 戻れなくなりそうで。
壁に掛けられた時計の音が、妙に耳に響く。 彼は唾を飲み込んだ。
「……すぐ戻る。ちょっと角まで。」
彼女は何も返さない。 ただ、じっと見ていた。 彼の思考を、意図を——測っているように。
彼は立ち上がる。 その動作すら、ためらいに満ちていた。
「店の銘柄、ちょっと見てくるだけ。」 笑みを浮かべようとする。 それは——恐怖をごまかすための、歪な笑顔だった。
彼女は沈黙のまま。 包丁の刃は、冷たい光を反射していた。
そして、低く、しかし確かな声で言った。
「一人で出ちゃ、ダメよ……まだ、その時じゃない。」
彼の背に寒気が走る。 見えない何かに触れたような——危険で、侵されそうなもの。
逃げ道はなかった。 答えもなかった。
彼はドアのノブをゆっくり回した。 その動きすら、家の静寂に押し潰されそうだった。
足を一歩、外へ。 背後に彼女の視線を感じる。 振り返らなくても——その重さは、確かにあった。
安全かどうかは、わからなかった。 逃げ切れるかどうかも、わからなかった。
だが、確信だけはあった。 ——この瞬間以降、すべては変わる。
コートの襟を整えると、昨夜書いたメモに指が触れた。
ポケットの中のその紙には、こう残されていた。
『戻ることは、いつも「選択」じゃない。』
—
「でも——もし、あの夜、別の選択をしていたら?」
明日、ジャンルが変わる。 運命も、また別のものになる。