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Last Song  作者: TD Coh
9/13

第八楽章 旅立つ日

一番近くの大事な人よ しあわせだったか? それが気がかり

──JULEPS「旅立つ日」



冬の足音が、静かに街を包み込もうとしていた。

歩道の端では、落ち葉がカサリと風に舞い、歩くたびにその音が季節の移ろいを告げていた。

街路樹の枝には、もうほとんど葉は残っていない。葉を落とした裸の枝の向こう、夕陽を映したビルの窓が朱色に光る。


その日、春菜と雪斗は、職場近くの小さな公園に足を伸ばしていた。

二人が知り合うきっかけとなった、あのストリートピアノが、まだそこにあった。


「ね、少しだけ寄ってもいい?」


雪斗が穏やかに問いかけると、春菜は「うん」と頷き、彼の横顔を見つめた。

頬に触れる風は冷たく、しかし彼の声にはどこか柔らかい熱があった。


ベンチの脇に置かれたピアノ。人通りはまばらで、時間が止まったようだった。

鍵盤に触れる雪斗の指が、そっと音を紡ぎ始める。


その音は、あの日と同じだった。いや、それ以上に優しくて、深かった。

静けさの中に響く旋律は、風に溶け、空に染み、そして春菜の胸の奥にじんわりと届く。


けれど、途中。

ふと音が遅れた。音を追うように指がわずかに揺れた。

雪斗の視界の端で、木々の輪郭が滲んで揺らめいた。


(また……?)


脈打つ違和感。

痛みではない。けれど確かに、どこかが狂っている――そんな感覚。


雪斗は演奏を続けた。

何も気づかせまいとするように、音を整え、最後まで弾ききった。


「……ありがとう。今日の音、すごく好き」


春菜の言葉に、雪斗は小さく微笑み、鍵盤から手を離した。

冬の陽は既に沈みかけており、公園の影が濃くなっていた。


「そろそろ……行こうか」


並んで歩く道すがら、春菜は雪斗の手をそっと握る。

その手は、少し冷えていた。でも、確かにあたたかかった。



——数日前。

淡々とした機械音だけが響く、無機質な検査室。

CTの輪郭が、雪斗の内側を静かに切り取っていく。


検査が終わると、白衣の医師が控えめなノック音とともに個室に入ってきた。


「こちらをご覧下さい」


モニターに映し出された画像を前に、医師は一枚一枚丁寧にスクロールしながら、ことばを選んでいるのが伝わった。


「……再発の可能性が高いです。場所は……脳の深部。手術はできなくはありませんが、かなりリスクが伴います」


沈黙が、ゆっくりと広がっていく。


「もちろん、治療は全力で。ただ……楽観視は、難しいかもしれません」


その口調には、希望を残そうとする温度と、諦めきれない現実が入り混じっていた。


雪斗は、まっすぐ画面を見つめたまま、静かにうなずいた。


「……手術、受けます。迷ってる時間は、あまりないですよね」


「ご家族には……?」

医師がそっと尋ねたが、雪斗は軽く首を振った。


「……いえ、まだ。きっと……心配させるだけですから」



——数日後。

「ごめん、急なんだけど、海外転勤が決まったんだ」


いつものカフェ、窓際の席で。

雪斗はコーヒーのカップを手にしながら、できるだけ軽やかな口調でそう告げた。


「……え? 海外って、どこ?」


「うん……まだ詳しくは言えないんだけど、しばらく戻れないかもしれない。半年くらいかな」


嘘。

本当はもう、病院に手術のスケジュールが組まれていた。


春菜の涙を、まだ見たくなかった。

まだ笑っていてほしかった。


「すぐ戻ってくる。……だから、待ってて」


春菜は黙ってうなずいた。

あまりにも自然な笑顔に、逆に不安がよぎる。

でも、信じたいと思った。

彼がついた“やさしい嘘”を、信じることにした。



——入院の日。

雪斗は一人でタクシーに乗り、病院へ向かった。

空は鈍色で、灰色の雲が低く垂れている。

冷たい雨が、まるで雪の前触れのように路面を濡らしていた。


病室は、静まり返っていた。

窓の外には小さな中庭があり、濡れた木々が冬の光を鈍く跳ね返している。


ベッドの上に鞄を置き、雪斗はノートとペンを取り出した。


ページの真ん中に、そっと手紙を書き始める。

誰にとも明言せず、それでも“あの人”にしか届かない言葉を選びながら。


一文字、一文。

ゆっくりと綴られるその手紙に、何度もペンを止め、息をつき、胸の奥の震えを押し殺した。


——封筒に入れたそれは、ノートの奥にそっと挟まれたまま、誰の目にも触れない。


「……雪斗さん、そろそろ、時間です」


看護師がやってきて、やわらかく声をかける。

雪斗は小さく頷き、立ち上がった。


窓の外に目を向けると、雨は雪へと変わっていた。

乾いた地面に、白い粒が淡く舞い落ちていく。


「……行ってきます」


その一言は、春菜に向けられたものだったのか。

それとも——もっと遠く、言葉の届かない誰かへ向けたものだったのか。

答えは雪のように、静かに沈み、消えていった。

 

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