第八楽章 旅立つ日
一番近くの大事な人よ しあわせだったか? それが気がかり
──JULEPS「旅立つ日」
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冬の足音が、静かに街を包み込もうとしていた。
歩道の端では、落ち葉がカサリと風に舞い、歩くたびにその音が季節の移ろいを告げていた。
街路樹の枝には、もうほとんど葉は残っていない。葉を落とした裸の枝の向こう、夕陽を映したビルの窓が朱色に光る。
その日、春菜と雪斗は、職場近くの小さな公園に足を伸ばしていた。
二人が知り合うきっかけとなった、あのストリートピアノが、まだそこにあった。
「ね、少しだけ寄ってもいい?」
雪斗が穏やかに問いかけると、春菜は「うん」と頷き、彼の横顔を見つめた。
頬に触れる風は冷たく、しかし彼の声にはどこか柔らかい熱があった。
ベンチの脇に置かれたピアノ。人通りはまばらで、時間が止まったようだった。
鍵盤に触れる雪斗の指が、そっと音を紡ぎ始める。
その音は、あの日と同じだった。いや、それ以上に優しくて、深かった。
静けさの中に響く旋律は、風に溶け、空に染み、そして春菜の胸の奥にじんわりと届く。
けれど、途中。
ふと音が遅れた。音を追うように指がわずかに揺れた。
雪斗の視界の端で、木々の輪郭が滲んで揺らめいた。
(また……?)
脈打つ違和感。
痛みではない。けれど確かに、どこかが狂っている――そんな感覚。
雪斗は演奏を続けた。
何も気づかせまいとするように、音を整え、最後まで弾ききった。
「……ありがとう。今日の音、すごく好き」
春菜の言葉に、雪斗は小さく微笑み、鍵盤から手を離した。
冬の陽は既に沈みかけており、公園の影が濃くなっていた。
「そろそろ……行こうか」
並んで歩く道すがら、春菜は雪斗の手をそっと握る。
その手は、少し冷えていた。でも、確かにあたたかかった。
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——数日前。
淡々とした機械音だけが響く、無機質な検査室。
CTの輪郭が、雪斗の内側を静かに切り取っていく。
検査が終わると、白衣の医師が控えめなノック音とともに個室に入ってきた。
「こちらをご覧下さい」
モニターに映し出された画像を前に、医師は一枚一枚丁寧にスクロールしながら、ことばを選んでいるのが伝わった。
「……再発の可能性が高いです。場所は……脳の深部。手術はできなくはありませんが、かなりリスクが伴います」
沈黙が、ゆっくりと広がっていく。
「もちろん、治療は全力で。ただ……楽観視は、難しいかもしれません」
その口調には、希望を残そうとする温度と、諦めきれない現実が入り混じっていた。
雪斗は、まっすぐ画面を見つめたまま、静かにうなずいた。
「……手術、受けます。迷ってる時間は、あまりないですよね」
「ご家族には……?」
医師がそっと尋ねたが、雪斗は軽く首を振った。
「……いえ、まだ。きっと……心配させるだけですから」
—
——数日後。
「ごめん、急なんだけど、海外転勤が決まったんだ」
いつものカフェ、窓際の席で。
雪斗はコーヒーのカップを手にしながら、できるだけ軽やかな口調でそう告げた。
「……え? 海外って、どこ?」
「うん……まだ詳しくは言えないんだけど、しばらく戻れないかもしれない。半年くらいかな」
嘘。
本当はもう、病院に手術のスケジュールが組まれていた。
春菜の涙を、まだ見たくなかった。
まだ笑っていてほしかった。
「すぐ戻ってくる。……だから、待ってて」
春菜は黙ってうなずいた。
あまりにも自然な笑顔に、逆に不安がよぎる。
でも、信じたいと思った。
彼がついた“やさしい嘘”を、信じることにした。
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——入院の日。
雪斗は一人でタクシーに乗り、病院へ向かった。
空は鈍色で、灰色の雲が低く垂れている。
冷たい雨が、まるで雪の前触れのように路面を濡らしていた。
病室は、静まり返っていた。
窓の外には小さな中庭があり、濡れた木々が冬の光を鈍く跳ね返している。
ベッドの上に鞄を置き、雪斗はノートとペンを取り出した。
ページの真ん中に、そっと手紙を書き始める。
誰にとも明言せず、それでも“あの人”にしか届かない言葉を選びながら。
一文字、一文。
ゆっくりと綴られるその手紙に、何度もペンを止め、息をつき、胸の奥の震えを押し殺した。
——封筒に入れたそれは、ノートの奥にそっと挟まれたまま、誰の目にも触れない。
「……雪斗さん、そろそろ、時間です」
看護師がやってきて、やわらかく声をかける。
雪斗は小さく頷き、立ち上がった。
窓の外に目を向けると、雨は雪へと変わっていた。
乾いた地面に、白い粒が淡く舞い落ちていく。
「……行ってきます」
その一言は、春菜に向けられたものだったのか。
それとも——もっと遠く、言葉の届かない誰かへ向けたものだったのか。
答えは雪のように、静かに沈み、消えていった。