第七楽章 センチメンタル
君に出会って今わかったよ
心の居所がどこにあるのかを
こんなにも ああこんなにも
せつない音で泣いてる鼓動が聞こえる
──平井堅「センチメンタル」
1月も終わりに近づいた夕暮れ、駅の空はひどく澄んでいた。
冬の風がホームの柱をすり抜けて、マフラーの隙間を冷たく撫でた。
けれど、つないだ手だけはあたたかかった。
彼の指が、私の手をそっと包んでくれていたから。
「今日は……ありがとう」
改札の前で、私は少しだけ俯きながらそう言った。
本当はもっと一緒にいたかった。でもそれを言葉にすると、胸がきゅっとなりそうで。
「こっちこそ、ありがとう」
雪斗さんの声は、優しくて、いつもより少しだけ近く感じた。
帰りたくない──その想いがにじむ前に、彼が言った。
「送るよ。どこかまで」
「ううん、大丈夫。……まだ、家の場所は教えてないし」
少しだけ目をそらして笑うと、彼もすぐにうなずいてくれた。
「そっか。……じゃあ、またね」
「うん。またね」
手が離れると、冷たい空気が指先に触れた。
でも、それ以上に名残惜しさが胸の奥で小さく響いた。
(あのとき、改札を飛び越えてでも抱きしめてほしかった)
でも、それはまだ叶わない願いだった。
⸻
家に帰ってからも、彼の声や手のぬくもりが頭の中を巡っていた。
言葉にしなくても通じてしまうものがある。
でも、本当は言葉にしてほしい。名前を、気持ちを──抱きしめるように。
スマートフォンの画面が、ふっと明るくなった。
着信。「雪斗さん」──その名前を見ただけで、胸が跳ねる。
通話ボタンを押すと、すぐに彼の声が響いた。
「……会えないかな、今から少しだけでも」
その声には、少しだけ震えが混じっていた。
寒さのせいか、気持ちのせいかはわからなかった。
「……うん。じゃあ、駅前で」
⸻
彼は少しだけ息を切らせて、駅の前に立っていた。
街灯の下、マフラーに顔を埋めるようにして私を見つける。
「よかった。来てくれて……」
それだけで、心がほどけた。
何も聞かずに、私は彼の手を握った。
「……うち、来る?」
その言葉は、思ったよりもすんなりと口からこぼれた。
彼は驚いたように目を見開いて、けれどすぐに静かにうなずいた。
⸻
初めてのキスは、あたたかくて、優しくて、少しだけ怖かった。
でも、彼の腕がまるごとの私を抱きしめてくれたから、逃げなかった。
「……春菜」
彼が私の名前を呼ぶたびに、心がふるえた。
抱きしめ合うぬくもりの中で、私はそっと目を閉じた。
たしかなものなんて、まだ何もなかった。
だけど、この夜だけは永遠みたいに思えた。
⸻
朝になって目覚めると、彼はもういなかった。
けれど、部屋には彼の香りが残っていて、昨夜の温もりがまだ身体に染みていた。
マフラーを巻き直してベランダに出ると、冬の陽が柔らかく街を照らしていた。
風は冷たいのに、なぜかあたたかかった。
(こんなに無垢に、幸せでいいのかな)
自分でも信じられないほど、胸の奥がやさしくゆるんでいた。
⸻
そのころ、彼もまた目覚めていた。
マフラーを手に取り、ふと彼女の香りを感じる。
「まだ家を教えてなかったんだよな」と、つぶやく。
彼女のことを思うと、胸がきゅっと締め付けられる。
けれど、この少し曖昧な距離感が、どこか心地よくもあった。
(寒くなかったかな)
窓の外では、冬の街がゆっくりと動きはじめている。
彼は静かに思い返す。
改札の前で、彼女が手を振ったこと。
電車のドアが閉まり、彼女が遠ざかっていく光景。
そのとき確かに感じた、言葉にできない痛み。
「君に出会って、今わかったよ」
心の居所がどこにあるのかを。
だけどその奥で、まだ拭えない違和感が胸をじんわりと染めていた。
彼女に見せたくない何か。
自分でもまだ名前をつけられないものが、心の隅でゆっくりと動いている。
彼は目を伏せたまま、それに気づかないふりをした。