表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Last Song  作者: TD Coh
8/13

第七楽章 センチメンタル

君に出会って今わかったよ

心の居所(ばしょ)がどこにあるのかを

こんなにも ああこんなにも

せつない音で泣いてる鼓動が聞こえる


──平井堅「センチメンタル」



1月も終わりに近づいた夕暮れ、駅の空はひどく澄んでいた。

冬の風がホームの柱をすり抜けて、マフラーの隙間を冷たく撫でた。

けれど、つないだ手だけはあたたかかった。

彼の指が、私の手をそっと包んでくれていたから。


「今日は……ありがとう」


改札の前で、私は少しだけ俯きながらそう言った。

本当はもっと一緒にいたかった。でもそれを言葉にすると、胸がきゅっとなりそうで。


「こっちこそ、ありがとう」


雪斗さんの声は、優しくて、いつもより少しだけ近く感じた。

帰りたくない──その想いがにじむ前に、彼が言った。


「送るよ。どこかまで」


「ううん、大丈夫。……まだ、家の場所は教えてないし」


少しだけ目をそらして笑うと、彼もすぐにうなずいてくれた。


「そっか。……じゃあ、またね」


「うん。またね」


手が離れると、冷たい空気が指先に触れた。

でも、それ以上に名残惜しさが胸の奥で小さく響いた。


(あのとき、改札を飛び越えてでも抱きしめてほしかった)

でも、それはまだ叶わない願いだった。



家に帰ってからも、彼の声や手のぬくもりが頭の中を巡っていた。

言葉にしなくても通じてしまうものがある。

でも、本当は言葉にしてほしい。名前を、気持ちを──抱きしめるように。


スマートフォンの画面が、ふっと明るくなった。

着信。「雪斗さん」──その名前を見ただけで、胸が跳ねる。


通話ボタンを押すと、すぐに彼の声が響いた。


「……会えないかな、今から少しだけでも」


その声には、少しだけ震えが混じっていた。

寒さのせいか、気持ちのせいかはわからなかった。


「……うん。じゃあ、駅前で」



彼は少しだけ息を切らせて、駅の前に立っていた。

街灯の下、マフラーに顔を埋めるようにして私を見つける。


「よかった。来てくれて……」


それだけで、心がほどけた。

何も聞かずに、私は彼の手を握った。


「……うち、来る?」


その言葉は、思ったよりもすんなりと口からこぼれた。


彼は驚いたように目を見開いて、けれどすぐに静かにうなずいた。



初めてのキスは、あたたかくて、優しくて、少しだけ怖かった。

でも、彼の腕がまるごとの私を抱きしめてくれたから、逃げなかった。


「……春菜」


彼が私の名前を呼ぶたびに、心がふるえた。

抱きしめ合うぬくもりの中で、私はそっと目を閉じた。


たしかなものなんて、まだ何もなかった。

だけど、この夜だけは永遠みたいに思えた。



朝になって目覚めると、彼はもういなかった。

けれど、部屋には彼の香りが残っていて、昨夜の温もりがまだ身体に染みていた。


マフラーを巻き直してベランダに出ると、冬の陽が柔らかく街を照らしていた。

風は冷たいのに、なぜかあたたかかった。


(こんなに無垢に、幸せでいいのかな)


自分でも信じられないほど、胸の奥がやさしくゆるんでいた。



そのころ、彼もまた目覚めていた。


マフラーを手に取り、ふと彼女の香りを感じる。

「まだ家を教えてなかったんだよな」と、つぶやく。


彼女のことを思うと、胸がきゅっと締め付けられる。

けれど、この少し曖昧な距離感が、どこか心地よくもあった。


(寒くなかったかな)


窓の外では、冬の街がゆっくりと動きはじめている。


彼は静かに思い返す。


改札の前で、彼女が手を振ったこと。

電車のドアが閉まり、彼女が遠ざかっていく光景。

そのとき確かに感じた、言葉にできない痛み。


「君に出会って、今わかったよ」


心の居所がどこにあるのかを。


だけどその奥で、まだ拭えない違和感が胸をじんわりと染めていた。


彼女に見せたくない何か。

自分でもまだ名前をつけられないものが、心の隅でゆっくりと動いている。


彼は目を伏せたまま、それに気づかないふりをした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ