第六楽章 Ti Amo
誰ひとり傷つけない恋を
人は愛と呼ぶけど
この罪を背負いながら
生きてく覚悟はできてる
── EXILE「Ti Amo」
雪がちらつく、1月の中旬。
凍てつくような冷たさの中に、昔の記憶がふいに胸を刺すように甦ってきた。
忘れたはずの名前と、ぬくもりが。
雨上がりの夜。
空にはまだ薄い雲が残っていて、街灯の光が濡れたアスファルトに静かに滲んでいた。
胸の奥に置き去りにしていた記憶が、足元に影のように寄り添っている。
あの人と別れてから、ずっと止まったままだった時間。
私はいま、それを手放す場所に、ようやく辿り着いた。
あの夜、雪斗が自分の過去を語ってくれたとき、
私はなぜかすぐには、自分の過去を打ち明けられなかった。
口を開きかけては、言葉がこぼれる前に、喉の奥に引っかかってしまった。
それでもずっと、あのとき伝えられなかった想いが、胸の奥に残っている。
春菜は、スマートフォンに視線を落とす。
「今日は時間、だいじょうぶ?」
送ったその短いメッセージに、「すぐ行くよ」とだけ雪斗から返ってきたのは、つい先ほどだった。
カフェのドアが小さく開き、風と一緒に雪斗が現れる。
「おまたせ」
「あ、ううん。今来たところ」
そんな言葉を交わしながら、二人は向かい合って座る。
注文されたコーヒーが運ばれてきたころ、春菜はふと、小さく息を吐いた。
「……ねぇ、雪斗くん」
「うん?」
「私も……あるの。誰にも言えなかったこと。
あなたの言葉を聞いてたら……私も、自分のこと、ちゃんと話さなきゃって思った」
小さく笑って、春菜は指先でマグカップの縁をなぞる。
「看護師になってすぐの頃……上司と、関係を持ってしまったの。
既婚者だった。奥さんも、子どももいる人だったのに」
雪斗は顔を上げ、春菜の言葉をじっと聞いていた。
「最初は憧れだったの。年上で、優しくて……でも、気づいたら、その人に甘えることでしか、自分を保てなくなってて。
本当のことなんて、見ようともしなかった。見たら、壊れそうだったから」
小さく震える声が、夜の静けさに溶けていく。
──私にも、誰にも言えなかった過去
あの夜のことを、私はずっと……忘れられずにいた。
⸻
春菜が配属された病棟で、彼はすでにベテランの医師だった。
落ち着いた低音の声と、無理に威圧することのない穏やかな口調。
最初はただ、尊敬すべき上司の一人──そう思っていた。
でもそのやさしさは、気づかぬうちに距離を近づけていたのかもしれない。
「春菜さんは、ちゃんと患者さんの目を見て話すよね。そういうの、大事にして」
ふとした励まし。ふとした沈黙。ふとした眼差し。
それらが積み重なっていく中で、春菜の中には、自分でも気づかぬ想いが芽生えていた。
──そして、彼は言った。
「春菜さんには、特別なものがある。…なんだろうな、うまく言えないけど」
その言葉を聞いた夜、春菜はベッドの上でずっと天井を見ていた。
既婚者だと、最初から知っていた。
それでも──寂しさを埋めるように届く彼からのメッセージが、いつしか春菜にとっての“特別”になっていた。
「日曜日の夜は ベッドが広い」
そんな歌詞を思い出す夜、彼の言葉ひとつが、心をぬくもりで満たしてくれた。
でもそのあと、「今度、君に会えるの楽しみにしてる」と続いた文字を、消さずに残した。
──そんなある日だった。
彼が言った。
「これ、君に似合いそうだと思って」
そう言って差し出してきたのは、小さな銀の懐中時計だった。
文字盤の縁にわずかな傷があるそれは、誰かの時間を刻んできたもののようにも見えた。
ポケットから取り出す仕草がどこかさりげなく、でもどこか躊躇っているようにも見えた。
指先がほんの少し震えていたのを、春菜は見逃さなかった。
「ちょっとクラシカルだけど…これ、君に似合うと思ってさ。ちゃんと動いてるよ、ほら」
彼がふっと微笑んだとき、声のトーンはいつもよりわずかに低くて、息混じりで。
その横顔を、春菜はまっすぐに見つめることができなかった。
──“あげる”というより、“託された”ような感覚。
その瞬間、春菜は初めて、自分のしていることが“罪”であると、胸の奥で自覚した。
それでも、その手を振り払うことができなかった自分が、もっと苦しかった。
⸻
すべて間違いだったと、はっきり自覚したのは、ある休日の午後だった。
スーパーの前で、私は偶然──彼の家族を見つけてしまった。
ショッピングバッグを提げた女性と、その手をつかんだ小さな女の子。
彼に似た目元で笑う子どもが、ぱたぱたと走り寄って「パパー!」と声を上げた。
そして、その子を抱き上げた男の人──
目を疑ったけれど、それは、確かに彼だった。
頭の中が真っ白になった。
鼓動が速くなり、視界が歪んだ。
足が、勝手に後ずさっていた。
声も出なかった。
彼は私に気づかないまま、何気ない日常の中に溶け込んでいた。
その夜、彼からの連絡は変わらなかった。
「今日もおつかれさま。会いたいな」
私は、何も言えなかった。
でも──会いに行ってしまった。
部屋の中、キスをした。
でも、そのとき私は、目を閉じて未来から逃げていた。
「愛してるよ」
彼はそう言って、私を抱いた。
その声はあいかわらず穏やかで、心地よくさえあった。
でもそのたびに、胸のどこかが冷たくなるのを感じていた。
「抱きしめられると ときめく心は あなたをまだ信じてる」
──だから私は、ずっと“知らないふり”をしていた。
けれど、知ってしまった今──
私は、誰かの未来を壊す側に立っていた。
その重さに、ついに耐えきれなくなったのだった。
⸻
そこから数日が経った日の夜、職場近くのカフェ。春菜は、彼を呼び出した。
いつものように彼は少し遅れて現れ、変わらない優しげな笑みを浮かべて椅子に腰かける。
「ごめん、ちょっと手間取って。待った?」
「……ううん、大丈夫」
二人の間に漂う空気が、どこか以前とは違うと彼も気づいていたのだろう。
カップに口をつけたまま、彼がぽつりとつぶやく。
「春菜、最近、目を見て笑ってくれないね」
「……笑ってるよ。ちゃんと」
「そう見えるだけ、かな」
沈黙が落ちる。
BGMのサックスが、深夜の空気を遠ざけていくように寂しく鳴っていた。
──
春菜はカバンの中から、小さな懐中時計を取り出す。
それは数ヶ月前、彼が何気なく「君に似合いそうだ」と言って渡してくれたものだった。
「……返すね。これ、もう持ってられない」
「いいよ、それはあげたものだし──」
「止まっても困らないの。
時間を止めていたのは、私の方だったから」
彼は言葉を飲み込むように黙る。
春菜は目を伏せ、言葉を探すように、少しだけ口元を震わせる。
「誰かの未来から目をそらしてまで、
自分の気持ちに寄りかかっていたんだと思う」
彼の手が、ほんの少しだけ春菜に伸びかけて、止まる。
「……僕は、ズルい男だね」
「うん、でも優しい人だとも思う。
でもね、私はもう、その優しさに甘えたくないの」
彼が何か言いかけた時、春菜はそっと言葉を遮るように続ける。
「ちゃんと、終わらせたいの。私の手で。」
静かな沈黙のあと、彼は席を立ち、出口に向かう。
ドアの前で、振り返らずに言った。
「……会わなきゃよかったのかもな。けど、ありがとう。おやすみ、春菜」
彼の背中が、夜の街にゆっくりと溶けていく。
雨はすでに止んでいたけれど、足元にはまだ濡れた舗道が光を鈍く返している。
春菜は放心していた。
なにも言わず、なにも追わず。
ただ、静かに目を伏せる。
耳に届くのは、遠く走る車のタイヤ音と、近くの街路樹が風に揺れるかすかな葉擦れだけ。
街のざわめきから取り残されたかのように、世界がふいに音を失っていく。
ポケットの中で握りしめていた指先が、ようやく緩んだ。
その手は、少しだけ震えていた。
「もうこれ以上、期待して、壊れるのは…いやだよ…」
小さく、息を吐く。
それは、涙の代わりに滲んだ音だったのかもしれない
見上げた空はまだ曇っていて、月の姿も見えない。
それでも──
ほんの少しだけ、風はやわらかくなっていた。
⸻
春菜は語り終えるとゆっくりと顔を上げ、目の前の雪斗を見た。
「雪斗くんに会って、“Honesty”が聴こえてきて……
少しずつだけど、私の時間も、動き出してた。
あの夜、話せなかったこと──ちゃんと伝えたかった。
過去も全部知ってほしいって、初めて……そう思えたの」
彼の瞳に映る自分を、まっすぐに見返す。
「それでも、私はまだ……生きてるんだよ。
この心も、ちゃんと動いてる」
涙を浮かべることなく、静かに。
けれど、その声には、確かな震えがあった。
雪斗は、すぐには何も言わなかった。
しかしゆっくりと、深く、息を吐いた。
そして、まるでその痛みに触れようとするように、そっと目を伏せた。
言葉ではなく、その沈黙の中にある温度が、春菜には確かに伝わってきた。
その沈黙が、なぜだか春菜には──とても、あたたかく感じられた。
まるで、ピアノの余韻のように。
すぐに消えない“音”が、そこにあった。
──二人の時間が、また一歩、進んだ気がした。
店の外では、陽の傾きが、窓辺の光をゆっくりと変えていく。
止まっていた時間が、少しずつ、また歩き出していた。
……たしかに、そこに残っている。
そのあと、ゆっくりと顔を上げた雪斗が、春菜をまっすぐ見つめた。
「……ありがとう、春菜さん。
過去を話してくれて、俺に……渡してくれて」
彼の声は、いつもよりも少しだけ低く、どこか柔らかかった。
「誰も傷つけない恋なんて、きっと、ないよね。
でも……それでも人は、誰かを想って、生きようとする。
それが“愛”なら、俺は……その形を、あなたと探したいって思った」
雪斗の手が、そっとテーブルの上に置かれる。
その手を見つめたまま、春菜の胸の奥に、何かがじんわりと灯る。
「……私は、雪斗くんに救ってほしいわけじゃない。
自分の足で、ちゃんと歩きたい。
でも……その隣に、あなたがいてくれたらって、思ってる」
春菜の声は、微かに震えていたけれど、その瞳は揺らがずに、彼を見つめ返していた。
雪斗は、ゆっくりと頷いた。
「うん、わかった。
無理に何かを変えようとしなくていい。
でも、変わっていくことを……一緒に怖がらずにいられるなら、
それはきっと、恋じゃなくて“愛”って呼べるものになる気がする」
カップに残ったコーヒーの温度が、まだほんの少し、手のひらに残っていた。
春菜はそれを、どこか名残惜しむように見つめていたけれど──やがてゆっくりと立ち上がる。
「……そろそろ、行こうか」
「ああ、外……寒くない?」
「ううん、きっと今夜はもう、大丈夫」
店を出ると、雲の切れ間からほんの少しだけ、夜空が顔を覗かせていた。
まだ星は見えなかったけれど、春菜の肩にふれた風は、確かにやわらかくなっていた。
二人は歩き出す。言葉を多く交わすことはない。
けれど、その沈黙に、これまでと違う意味が宿っていることに──春菜は気づいていた。
過去は消えない。
でも、過去に囚われたままでいる必要もない。
あの夜の“罪”も、“後悔”も、すべてを抱いたまま、それでも生きていく。
その選択ができたことが、春菜にとっての“救い”だった。
──誰かに愛されたから、ではなく。
自分で自分を、赦そうと決めたから。
そして、それをそっと見守ってくれる誰かの存在が、いまの春菜にはあった。
“愛してる”じゃなくて、今はただ、“ありがとう”って、伝えたい。
雨上がりの夜。
新しい風が、静かに街を通り抜けていった。