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Last Song  作者: TD Coh
7/13

第六楽章 Ti Amo

誰ひとり傷つけない恋を

人は愛と呼ぶけど

この罪を背負いながら

生きてく覚悟はできてる


── EXILE「Ti Amo」

 

雪がちらつく、1月の中旬。

凍てつくような冷たさの中に、昔の記憶がふいに胸を刺すように甦ってきた。

忘れたはずの名前と、ぬくもりが。


雨上がりの夜。

空にはまだ薄い雲が残っていて、街灯の光が濡れたアスファルトに静かに滲んでいた。

胸の奥に置き去りにしていた記憶が、足元に影のように寄り添っている。


あの人と別れてから、ずっと止まったままだった時間。

私はいま、それを手放す場所に、ようやく辿り着いた。


あの夜、雪斗が自分の過去を語ってくれたとき、

私はなぜかすぐには、自分の過去を打ち明けられなかった。


口を開きかけては、言葉がこぼれる前に、喉の奥に引っかかってしまった。

それでもずっと、あのとき伝えられなかった想いが、胸の奥に残っている。


春菜は、スマートフォンに視線を落とす。


「今日は時間、だいじょうぶ?」


送ったその短いメッセージに、「すぐ行くよ」とだけ雪斗から返ってきたのは、つい先ほどだった。


カフェのドアが小さく開き、風と一緒に雪斗が現れる。


「おまたせ」


「あ、ううん。今来たところ」


そんな言葉を交わしながら、二人は向かい合って座る。

注文されたコーヒーが運ばれてきたころ、春菜はふと、小さく息を吐いた。


「……ねぇ、雪斗くん」


「うん?」


「私も……あるの。誰にも言えなかったこと。

 あなたの言葉を聞いてたら……私も、自分のこと、ちゃんと話さなきゃって思った」


小さく笑って、春菜は指先でマグカップの縁をなぞる。


「看護師になってすぐの頃……上司と、関係を持ってしまったの。

 既婚者だった。奥さんも、子どももいる人だったのに」


雪斗は顔を上げ、春菜の言葉をじっと聞いていた。


「最初は憧れだったの。年上で、優しくて……でも、気づいたら、その人に甘えることでしか、自分を保てなくなってて。

 本当のことなんて、見ようともしなかった。見たら、壊れそうだったから」


小さく震える声が、夜の静けさに溶けていく。


──私にも、誰にも言えなかった過去


あの夜のことを、私はずっと……忘れられずにいた。



春菜が配属された病棟で、彼はすでにベテランの医師だった。

落ち着いた低音の声と、無理に威圧することのない穏やかな口調。

最初はただ、尊敬すべき上司の一人──そう思っていた。


でもそのやさしさは、気づかぬうちに距離を近づけていたのかもしれない。


「春菜さんは、ちゃんと患者さんの目を見て話すよね。そういうの、大事にして」


ふとした励まし。ふとした沈黙。ふとした眼差し。

それらが積み重なっていく中で、春菜の中には、自分でも気づかぬ想いが芽生えていた。


──そして、彼は言った。


「春菜さんには、特別なものがある。…なんだろうな、うまく言えないけど」


その言葉を聞いた夜、春菜はベッドの上でずっと天井を見ていた。

既婚者だと、最初から知っていた。

それでも──寂しさを埋めるように届く彼からのメッセージが、いつしか春菜にとっての“特別”になっていた。


「日曜日の夜は ベッドが広い」


そんな歌詞を思い出す夜、彼の言葉ひとつが、心をぬくもりで満たしてくれた。


でもそのあと、「今度、君に会えるの楽しみにしてる」と続いた文字を、消さずに残した。


──そんなある日だった。


彼が言った。


「これ、君に似合いそうだと思って」


そう言って差し出してきたのは、小さな銀の懐中時計だった。

文字盤の縁にわずかな傷があるそれは、誰かの時間を刻んできたもののようにも見えた。


ポケットから取り出す仕草がどこかさりげなく、でもどこか躊躇っているようにも見えた。

指先がほんの少し震えていたのを、春菜は見逃さなかった。


「ちょっとクラシカルだけど…これ、君に似合うと思ってさ。ちゃんと動いてるよ、ほら」


彼がふっと微笑んだとき、声のトーンはいつもよりわずかに低くて、息混じりで。

その横顔を、春菜はまっすぐに見つめることができなかった。


──“あげる”というより、“託された”ような感覚。


その瞬間、春菜は初めて、自分のしていることが“罪”であると、胸の奥で自覚した。


それでも、その手を振り払うことができなかった自分が、もっと苦しかった。




すべて間違いだったと、はっきり自覚したのは、ある休日の午後だった。


スーパーの前で、私は偶然──彼の家族を見つけてしまった。


ショッピングバッグを提げた女性と、その手をつかんだ小さな女の子。

彼に似た目元で笑う子どもが、ぱたぱたと走り寄って「パパー!」と声を上げた。

そして、その子を抱き上げた男の人──

目を疑ったけれど、それは、確かに彼だった。


頭の中が真っ白になった。

鼓動が速くなり、視界が歪んだ。


足が、勝手に後ずさっていた。

声も出なかった。

彼は私に気づかないまま、何気ない日常の中に溶け込んでいた。


その夜、彼からの連絡は変わらなかった。


「今日もおつかれさま。会いたいな」


私は、何も言えなかった。

でも──会いに行ってしまった。


部屋の中、キスをした。

でも、そのとき私は、目を閉じて未来から逃げていた。


「愛してるよ」

彼はそう言って、私を抱いた。

その声はあいかわらず穏やかで、心地よくさえあった。

でもそのたびに、胸のどこかが冷たくなるのを感じていた。


「抱きしめられると ときめく心は あなたをまだ信じてる」


──だから私は、ずっと“知らないふり”をしていた。


けれど、知ってしまった今──

私は、誰かの未来を壊す側に立っていた。

その重さに、ついに耐えきれなくなったのだった。



そこから数日が経った日の夜、職場近くのカフェ。春菜は、彼を呼び出した。

いつものように彼は少し遅れて現れ、変わらない優しげな笑みを浮かべて椅子に腰かける。


「ごめん、ちょっと手間取って。待った?」


「……ううん、大丈夫」


二人の間に漂う空気が、どこか以前とは違うと彼も気づいていたのだろう。

カップに口をつけたまま、彼がぽつりとつぶやく。


「春菜、最近、目を見て笑ってくれないね」


「……笑ってるよ。ちゃんと」


「そう見えるだけ、かな」


沈黙が落ちる。

BGMのサックスが、深夜の空気を遠ざけていくように寂しく鳴っていた。


──


春菜はカバンの中から、小さな懐中時計を取り出す。

それは数ヶ月前、彼が何気なく「君に似合いそうだ」と言って渡してくれたものだった。


「……返すね。これ、もう持ってられない」


「いいよ、それはあげたものだし──」


「止まっても困らないの。

 時間を止めていたのは、私の方だったから」


彼は言葉を飲み込むように黙る。

春菜は目を伏せ、言葉を探すように、少しだけ口元を震わせる。


「誰かの未来から目をそらしてまで、

 自分の気持ちに寄りかかっていたんだと思う」


彼の手が、ほんの少しだけ春菜に伸びかけて、止まる。


「……僕は、ズルい男だね」


「うん、でも優しい人だとも思う。

 でもね、私はもう、その優しさに甘えたくないの」


彼が何か言いかけた時、春菜はそっと言葉を遮るように続ける。


「ちゃんと、終わらせたいの。私の手で。」


静かな沈黙のあと、彼は席を立ち、出口に向かう。


ドアの前で、振り返らずに言った。


「……会わなきゃよかったのかもな。けど、ありがとう。おやすみ、春菜」


彼の背中が、夜の街にゆっくりと溶けていく。

雨はすでに止んでいたけれど、足元にはまだ濡れた舗道が光を鈍く返している。


春菜は放心していた。

なにも言わず、なにも追わず。


ただ、静かに目を伏せる。


耳に届くのは、遠く走る車のタイヤ音と、近くの街路樹が風に揺れるかすかな葉擦れだけ。

街のざわめきから取り残されたかのように、世界がふいに音を失っていく。


ポケットの中で握りしめていた指先が、ようやく緩んだ。

その手は、少しだけ震えていた。



「もうこれ以上、期待して、壊れるのは…いやだよ…」


小さく、息を吐く。


それは、涙の代わりに滲んだ音だったのかもしれない


見上げた空はまだ曇っていて、月の姿も見えない。

それでも──

ほんの少しだけ、風はやわらかくなっていた。



春菜は語り終えるとゆっくりと顔を上げ、目の前の雪斗を見た。


「雪斗くんに会って、“Honesty”が聴こえてきて……

少しずつだけど、私の時間も、動き出してた。

あの夜、話せなかったこと──ちゃんと伝えたかった。

過去も全部知ってほしいって、初めて……そう思えたの」


彼の瞳に映る自分を、まっすぐに見返す。


「それでも、私はまだ……生きてるんだよ。

この心も、ちゃんと動いてる」


涙を浮かべることなく、静かに。

けれど、その声には、確かな震えがあった。


雪斗は、すぐには何も言わなかった。

しかしゆっくりと、深く、息を吐いた。


そして、まるでその痛みに触れようとするように、そっと目を伏せた。

言葉ではなく、その沈黙の中にある温度が、春菜には確かに伝わってきた。


その沈黙が、なぜだか春菜には──とても、あたたかく感じられた。


まるで、ピアノの余韻のように。

すぐに消えない“音”が、そこにあった。


──二人の時間が、また一歩、進んだ気がした。


店の外では、陽の傾きが、窓辺の光をゆっくりと変えていく。


止まっていた時間が、少しずつ、また歩き出していた。



……たしかに、そこに残っている。


そのあと、ゆっくりと顔を上げた雪斗が、春菜をまっすぐ見つめた。


「……ありがとう、春菜さん。

 過去を話してくれて、俺に……渡してくれて」


彼の声は、いつもよりも少しだけ低く、どこか柔らかかった。


「誰も傷つけない恋なんて、きっと、ないよね。

 でも……それでも人は、誰かを想って、生きようとする。

 それが“愛”なら、俺は……その形を、あなたと探したいって思った」


雪斗の手が、そっとテーブルの上に置かれる。

その手を見つめたまま、春菜の胸の奥に、何かがじんわりと灯る。


「……私は、雪斗くんに救ってほしいわけじゃない。

 自分の足で、ちゃんと歩きたい。

 でも……その隣に、あなたがいてくれたらって、思ってる」


春菜の声は、微かに震えていたけれど、その瞳は揺らがずに、彼を見つめ返していた。


雪斗は、ゆっくりと頷いた。


「うん、わかった。

 無理に何かを変えようとしなくていい。

 でも、変わっていくことを……一緒に怖がらずにいられるなら、

 それはきっと、恋じゃなくて“愛”って呼べるものになる気がする」


カップに残ったコーヒーの温度が、まだほんの少し、手のひらに残っていた。

春菜はそれを、どこか名残惜しむように見つめていたけれど──やがてゆっくりと立ち上がる。


「……そろそろ、行こうか」


「ああ、外……寒くない?」


「ううん、きっと今夜はもう、大丈夫」


店を出ると、雲の切れ間からほんの少しだけ、夜空が顔を覗かせていた。

まだ星は見えなかったけれど、春菜の肩にふれた風は、確かにやわらかくなっていた。


二人は歩き出す。言葉を多く交わすことはない。

けれど、その沈黙に、これまでと違う意味が宿っていることに──春菜は気づいていた。


過去は消えない。

でも、過去に囚われたままでいる必要もない。


あの夜の“罪”も、“後悔”も、すべてを抱いたまま、それでも生きていく。


その選択ができたことが、春菜にとっての“救い”だった。


──誰かに愛されたから、ではなく。

自分で自分を、赦そうと決めたから。


そして、それをそっと見守ってくれる誰かの存在が、いまの春菜にはあった。


“愛してる”じゃなくて、今はただ、“ありがとう”って、伝えたい。


雨上がりの夜。

新しい風が、静かに街を通り抜けていった。

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