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Last Song  作者: TD Coh
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第五楽章 朝が来る前に

朝が来るその前に行こう

流れる涙 見えないように

振り向かないで僕は行くよ

現在(いま)のその先へ旅立とう


── 秦基博「朝が来る前に」


年が明けて、まだ正月の余韻が街に残る頃。

  

冬の空気は澄みきっていて、夜明け前の街に、冷たさと静けさが降りていた。

まだ誰の気配もないアスファルトの上を、雪斗は一人歩いていく。

コートの襟を立てるたび、微かに指先が震える。けれど心の中は、もっと遠くの寒さに触れていた。


── 父のこと。


あの頃、まだ幼かった自分の目に、父はとても大きな存在だった。

実際には、病に蝕まれ、年々痩せていく背中だったのに。


癌と診断されたのは、雪斗が高校に上がる頃だった。

静かに進行するその病は、父の命を少しずつ削っていった。


けれど、父は決して弱さを見せなかった。

痛みを抱えても、それを誰にも悟らせず、家族の前ではいつも穏やかに笑っていた。

あたたかい人だった。厳しい現実を前にしても、家の中に寒さを入れようとはしなかった。


「お前は、お前の人生を歩めばいい」


そう言ったときの父の声を、雪斗は今も忘れられない。

決して強くはない、でも奥底から滲むような優しさと、願いがこもっていた。


それは、自分のためではなく、雪斗の未来を思っての言葉だった。

本当なら、そう受け取るべきだった。


でも──

雪斗はその言葉を胸にしまい、夢半ばでピアノから離れた。


治療費がかさんだ。働かなければ、父の命を守れなかった。

どうしても、父を失いたくなかった。ただ、それだけだった。

夢を見る余裕なんて、なかった。

気づけば、歩むはずだった道とは別の道を、自らの足で選んでいた。


後悔はしていない。そう言い聞かせてきた。

だけどふとした夜、あのピアノの音が胸の奥で鳴り出すたび、

心のどこかが、問うのだ。


── あれでよかったのか、と。


そんな想いを抱えたまま、雪斗はその夜、春菜と会っていた。


公園のベンチに並んで座る。

木々の間から夜がうっすら明け始めていたが、空気はまだ深い冬のままだ。

霜を踏む音も、白く浮かぶ吐息も、静かだった。


「……父のこと、今もずっと考えます。

僕がピアノをやめて働き出したのも、全部、父の治療費のためでした。

後悔はないはずなのに、時々……何かを置き忘れたまま進んでしまったような気がして。」


春菜は静かに頷きながら、その言葉を受け止めていた。

言葉で遮らず、ただ真っ直ぐに雪斗を見ている。


「……父と星を見た夜があったんです。病がもう進んでいた頃。

ふたりでベランダに出て、黙って夜空を眺めていた」


雪斗はゆっくりと視線を空に向けた。


「そのとき、父がこう言ったんです。

“あの星空にはご先祖さまが自分たちを見下ろしている。きっと私も、そこに居るだろう”って」


言葉を繋ぐ声が、少し震えた。

そのときの父の横顔が、まぶたの裏に焼きついている。

きっと父は、その時すでに覚悟をしていたのだ。

でも、雪斗はその言葉の重さに、あの頃気づけなかった。


「……そうだったんですね」


春菜は優しくつぶやいた。


「お父さん、きっと今もあなたを見守ってますよ。

あの星空から。ずっと、ずっと」


その言葉に、胸の奥がふっとほどける気がした。

そして雪斗は、涙が落ちる前にそっと空を仰いだ。


「そうだったら……嬉しいです」


その言葉に応えるように、春菜が彼の手を握った。


「夢を諦めるって、簡単なことじゃない。

でも、誰かを守るために選んだその時間も、無駄なんかじゃないと思います。

私は……そういうあなたを、素敵だと思います」


彼女の言葉は、慰めではなかった。

真っ直ぐな思いだった。

そしてそれが、雪斗の中に残っていた冷たい部分を、じんわりと溶かしていく。


沈黙が訪れる。

けれどそれは、距離を生むものではなかった。

ふたりの心がそっと寄り添うための、あたたかな静けさだった。


しばらくして、雪斗がぽつりと問う。


「……春菜さんは、自分の過去に後悔って、ありますか?」


春菜はほんの少し目を伏せ、そして、ゆっくり頷いた。


「……ありますよ。大切な人と、ちゃんと向き合えないまま別れたことがあって。

その人に伝えたかった言葉、いっぱいあったのに……それができないまま、時だけが過ぎてしまって」


そしてふと、自分の手を見つめる。

小さく笑って、まっすぐに雪斗の目を見た。


「でも、今日ここで決めました。

もう一度、ちゃんと前を向こうって。

過去に区切りをつけて、これからの自分を生きていきたいって」


その言葉に、迷いはなかった。

それが、雪斗の胸にもやさしく染み込んでいく。


「私も、あなたと同じです。過去を完全に忘れることはできないし、忘れなくていい。

でも……悲しみを抱いたままでも、一緒に未来へ進めるって、今日思えました」


雪斗はゆっくりと頷いた。

ふたりの間に、かすかな光が差し込む。


朝が来るその前に行こう

流れる涙 見えないように

振り向かないで僕は行くよ

現在(いま)のその先へ旅立とう


木々の向こうに、朝日が昇り始めていた。


ふたりは静かに立ち上がり、手を繋いだ。

夜が明ける音を背に、新しい一日へと歩き出していく。

悲しみを抱いたまま、確かに前を向いて──。

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