第四楽章 Pop Virus
音の中で 君を探してる
霧の中で 朽ち果てても彷徨う
闇の中で 君を愛してる
刻む 一拍の永遠を
── 星野源「Pop Virus」
正月三が日が明けた街は、少しだけ静かで、少しだけ浮かれていた。
まだ凍える風が吹くけれど、心の奥では、なにかがゆっくりと芽吹きはじめていた。
私たちは、自然と一緒にいる時間が増えていった。
大きな出来事はないけれど、誰かと過ごす毎日は、こんなにもきらめくんだと、初めて知った。
午後の陽差しが優しく降り注ぐカフェの窓際席。カップから立ちのぼるコーヒーの香りが、ほのかに甘く香ばしい。
外の通りでは、風に乗って小さな笑い声や自転車のベルの音が、遠くで響いていた。
「遅くなってすみません」
そう言って春菜が席に着くと、雪斗は軽く首を振りながら微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ちょうどいいタイミングでした」
その言葉とともに、テーブルの上にそっと紙袋が差し出される。
「これ、よかったら。なんとなく、甘いものが好きかなって……違ったらすみません」
春菜は一瞬驚いたように目を丸くし、それから小さく笑って包みを受け取った。
「……当たりです。ちょっと疲れたときとか、食べたくなるんです。どうしてわかったんですか?」
「たぶん、話し方や表情からかな。あとは、甘いものが好きそうな雰囲気が……思い込みだったら恥ずかしいですけど」
「ううん。なんだか嬉しいです。そういうの」
彼女は、ほんの少し頬を赤らめながらそう言った。
その瞬間、店内に流れていた音楽がふっと耳に入った。
軽快で、だけどどこか切ないリズム。
《音の中で 君を探してる
霧の中で 朽ち果てても彷徨う
闇の中で 君を愛してる
刻む 一拍の永遠を》――星野源の「Pop Virus」だった。
春菜はそれに気づいて、ふと笑った。
「……この曲、いいですよね。音が静かに心に染みてくるような感じで」
「俺も、です」
雪斗もまた、目を細めながら頷いた。
まるで二人の会話に重なるように、歌のメロディがゆっくりとカフェの空間に広がっていく。
言葉より先に、お互いの“温度”だけが、ゆっくりと伝わっていくような感覚。
「……不思議ですね。なんか、じんわりしてて」
「Pop Virus、みたいに?」
春菜はくすっと笑った。
「うん。そんな感じ、かも」
カフェの窓の外では、春の風が木々を揺らしていた。
午後の光と音楽、そして焼き菓子の香りに包まれながら、ふたりはまだ名前のついていない時間を、静かに共有していた。
その穏やかな空気のなか、春菜の胸の奥に、小さなざわめきが広がり始めていた。
視線を交わした瞬間、雪斗の瞳がふっと曇るのを見た気がした。ほんの一瞬の出来事だった。
彼はすぐに笑顔を作り、明るく話し続けたけれど、そのわずかな影が心に残る。
春菜はその瞬間、なんとも言えない違和感を覚えた。
まるで風に揺れる木の葉のように、彼の表情の奥で微かに揺らぐ影があった。
それは、普段の彼なら見せないような一瞬の戸惑い、あるいは、どこか遠くに気を取られているようなそぶりだった。
会話の合間に、雪斗が手元のカップを少し強く握りしめる様子や、言葉を探すように間を置く様子も見えた。
いつもは穏やかで自然な彼の動きが、今日はどこかぎこちなく感じられた。
「……何か、考え事でも?」
思わずそう尋ねた春菜に、雪斗はすぐに首を振ったが、その目の奥には隠しきれない何かがちらりと見えた気がした。
店内の陽射しが差す窓ガラスに映る二人の姿は、まるで光と影が入り混じるように揺らいでいた。
外の街路樹の葉もそよ風にざわめき、カフェの静かな空気の中に、わずかな緊張が潜んでいるのを春菜は感じ取っていた。
まだ言葉にはできないけれど、この違和感は、いつか二人の関係を揺るがす何かの兆しかもしれない——そう、胸の奥がざわついた。
春菜は静かに息をつき、ふと窓の外に視線を移す。
そこには透き通った空と揺れる緑があった。
温かな日差しの中で感じるこの小さな不安も、今はまだ愛おしいものに思えた。