第三楽章 Gentle Rain
"We both are lost and alone in the world
Walk with me in the gentle rain Don't be afraid"
世界でたった一人取り残されたって
思ってきた僕たち
優しい雨の中 一緒に歩いて行ってみないかい?
何も怖がらなくていいよ
── Astrud Gilberto「Gentle Rain」
年末の街は、色とりどりの灯りでにぎやかだった。
でも、ふたりで歩くこの道は不思議と静かで──雨上がりの空気が、世界をまるごと洗い流したようだった。
ふたり並んで歩いている途中、少しだけ沈黙が続いたあと――
春菜が、ぽつりと言った。
「ねえ……手、つなげたらいいなって思ってるの」
雪斗は少し驚いたように春菜を見た。けれどすぐに、優しく微笑んで、言葉を返す。
「俺も……実はそう思ってたんです」
照れたように笑い合う。
次の瞬間、自然にふたりの手が重なる。
その繋いだ手は、ぎこちないけど、ちゃんとあたたかかった。
お互いの体温が、じんわり伝わってくる。
「……わたし、こんなふうに“手をつなぎたい”って思ったの、すごく久しぶりかも」
春菜が少しうつむきながら言うと、雪斗は歩調を合わせるように言葉を続けた。
「うれしいです。たぶん俺も……同じかもしれない」
無理に会話を続けようとせず、けれど途切れた沈黙が気まずくなることもない。
ふたりの間に流れる時間は、どこかやわらかで、心地よかった。
ふと、春菜が言う。
「……なんか、自然ですね。こうしてるの」
「はい。俺も、そう思ってました」
言葉の調子は敬語寄りなのに、どこか親しげでやさしい響きが残る。
まるで、お互いに“最初からこうだった”みたいな錯覚すら覚えるような、
それくらい穏やかな気配が、ふたりを包んでいた。
ふたりの足音だけが、濡れた道に溶けていく。
やがて、春菜が足を止める。
「……このあたりで、大丈夫です。家、もうすぐそこなんです」
雪斗は一瞬驚いたような表情を見せたけれど、すぐに頷いた。
「そうなんですね。ここまで一緒に歩けて、よかったです」
「ありがとうございます。楽しかったです」
「こちらこそ」
ふたりはゆっくり見つめ合い、小さな笑みを交わした。
春菜は少し躊躇いながらも、口を開いた。
「じゃあ、ここで。」
「うん、わかった。気をつけて」
「はい。また、会えますか?」
「もちろん。きっと」
約束の言葉は交わさなかったけれど、その“きっと”の中には強い確信があった。
春菜は傘の下からゆっくりと手を離し、角を曲がる。
少し濡れた路面を踏みしめながら、ゆったりとした足取りで家の方へと歩き始めた。
街灯の光に照らされたその背中は、小さく揺れているように見えた。
ふいに、春菜の胸の奥で、今日の出来事が反芻される。
雪斗と手をつないだ瞬間のぬくもり。
沈黙の中で交わした言葉たち。
どれもが、不思議なほど自然で温かいものだった。
歩きながら、ふと立ち止まって、後ろを振り返る。
雪斗はもう見えなかった。
だけど、手のひらに残った感触がまだはっきりと温かくて。
「……さっきの、嘘じゃないよね」
静かな夜の空気に、小さな声が溶けていく。
足音だけが響く濡れた路地を進み、家の灯りが見えたとき、
春菜は深く息をついた。
それは新しい一歩を踏み出したような、そんな安堵と期待の混じった呼吸だった。
玄関の扉を静かに閉めたあと、春菜は壁にもたれて立ち止まった。
部屋の中はまだ暗くて、さっきまでの雨音の余韻だけが残っていた。
手のひらに、ぬくもりが残っている。
――雪斗さんの手、あったかかったな。
ふいに浮かぶその感触に、胸がふわりと波打つ。
言葉にはしなかったけれど、たぶん、あれは“恋人つなぎ”だった。
誰かの手を、あんなふうに自然につないだのは、いつぶりだろう。
そもそも、自分から「つなぎたい」なんて言ったのも、はじめてかもしれない。
ソファに腰をおろすと、まるで夢みたいに感じられて、思わず笑みがこぼれた。
(まだ……言葉にしてないのにね)
「付き合ってください」とも、「好きです」とも、まだ誰も言ってない。
でも、きっと、そんな言葉より確かな何かが、今日のあの傘の下にあった。
不安がまったくないわけじゃない。
あの人のこと、まだ全部わかってるわけじゃない。
でも、知りたいと思える自分がいる。
知っていきたいと思える誰かに、また出会えたことが、少しだけ怖くて、すごく嬉しかった。
春菜は、そっと自分の肩に触れた。
雨に濡れたシャツが、まだ少し冷たい。
けれどその下には、ぽっと灯った小さな温もりがあった。
(ねえ……これって、もう「好き」なんだよね)
声に出さなくても、胸の奥ではうなずいている自分がいた。
雪斗がくれた静かな優しさ。
手のひらから伝わった、名前のない約束。
――たぶんもう、わたしたちは、恋をしてる。
そんなふうに思える夜だった。