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Last Song  作者: TD Coh
3/13

第二楽章 キスから始めよう

心がもつれあう方へ

その身を委ねただけなのに…

──CHEMISTRY「キスからはじめよう」


 


冷たい雨が降っていた。12月も半ばを過ぎ、街はどこかせわしない。

 

春菜は傘も差さずに歩いていた。久しぶりの休日。でも、どこか落ち着かない気持ちを抱えて、家にじっとしていられなかった。


夜勤明けの疲れは身体に残っていたけれど、それ以上に、静かに降る雨が心を揺らしていた。

濡れても構わなかった。ただ、誰かの温もりに触れたかった。


そんなふうに歩いていたとき、カフェの窓越しに見覚えのある後ろ姿が映った。


「……あの人は──」


あの冬の夜、ストリートピアノで聴いた旋律の主。

忘れようとしても消せなかった音色が、今また目の前にいた。


思わず立ち止まった春菜に、彼が気づく。

ガラス越しに目が合い、一瞬、時間が止まったようだった。


やがて、彼は立ち上がり、傘を手にカフェの扉を開ける。


「……あのとき、ストリートピアノの前で会いましたよね?」


雪斗が、外へ出てきて言った。

春菜は小さく頷いて、微笑んだ。


「はい。言葉は交わせなかったけど、あなたのピアノに惹かれました」


「俺、雪斗っていいます」


「春菜です」


名前を交わした瞬間、見えなかった距離が少しだけ溶けていった。


雪斗は傘を差し出す。


「よかったら。濡れてますよ」


「ありがとうございます」


ふたりはひとつの傘に入った。数センチの距離に、胸がざわついた。


「夜勤明けで、ちょっと散歩してたんです」


「そうだったんですね。……俺も、今日はふらっと歩いてただけで」


雪斗が少し照れたように笑った。


「……ずっと、また会えたらいいなって思ってて。

そう思ってたら、本当に会えました」


春菜は少し驚いたように彼を見た。けれど、そこに嫌悪や警戒はなかった。

むしろ、心の奥が静かに反応していた。


「……それ、偶然を信じたくなりますね」


「うん。俺、信じてみたくなりました」


 


しばらく歩いたあと、春菜がぽつりと呟く。


「ねえ……変なこと聞いてもいいですか?」


「うん。なに?」


少しだけ迷ったあと、春菜は前を向いたまま言った。


「昔、“好きだ”って言われて、キスされたことがありました」


雪斗は黙って耳を傾けている。


「でも……たぶん、私のことを大事に思ってのことじゃなかったんです。

“好き”の言葉の裏で、その人は、別の人のところへ帰っていったんです」


彼女の声は静かだった。けれど、その静けさが、かえって痛みをにじませていた。


「本当は分かってたんです。でも、気づかないふりをしてた。

“誰かの代わりでもいい。一緒にいられるなら”って、思ってしまって……」


「……」


「だから、“キス”が怖くなりました。

気持ちを交わすものじゃなくて、自分を黙らせる手段に思えてしまって……」


言葉の最後は、雨音に溶けていった。

雪斗は何も言わず、傘をそっと傾け直す。春菜の肩に落ちる雨粒を、ひとつでも減らすように。


それだけで、十分だった。


「……俺、そういう気持ち、少し分かる気がします」


彼の声は、濡れたアスファルトのように落ち着いていた。


「昔、ピアノを続けてた頃、誰かを救えるって思ってたんです。

でも、いつの間にか“誰かの期待に応えるため”だけに弾くようになってて……」


春菜がそっと、彼の横顔を見つめる。


「それでもやめられなかった。音を手放すのが怖かったんです。

“偽物でもいい”って、思ってました。

でもそれって、たぶん、自分を傷つけていたんだと思います」


彼は春菜の瞳をまっすぐに見つめた。


「だから、春菜さんの気持ち……分かる気がします。

“誰かを想うこと”って、そんなに綺麗なことばかりじゃないですよね。

でも、だからこそ、本当の想いはちゃんと届くんじゃないかって、思いたいんです」


沈黙が、やわらかな余白としてふたりを包む。

それは“言葉のない会話”だった。


やがて、春菜が小さく笑う。


「……キスって、どんなふうに始めるのが正解なんでしょうね?」


意外な問いに、雪斗は少し目を見開いたが、すぐに穏やかに言った。


「正解なんて、きっとないです。

でも、“続けたい”って思えたときが、始まりになるんだと思います」


春菜の頬を、雨なのか涙なのか分からない雫が伝った。

けれど雪斗は、それを拭おうとはしなかった。

ただ、静かに隣を歩き続ける。


ふたりの歩幅は、少しずつ、けれど確かに重なっていく。


──その夜、キスはしなかった。


けれど、心がふれた。

“傷を癒す”のではなく、“その傷ごと受け止める”という、静かな約束が、

雨の中で、確かにそこにあった。


そしてきっと、

“キスからはじめよう”という約束が、

まだ言葉にならないまま、静かに芽生えていた。

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