第二楽章 キスから始めよう
心がもつれあう方へ
その身を委ねただけなのに…
──CHEMISTRY「キスからはじめよう」
冷たい雨が降っていた。12月も半ばを過ぎ、街はどこかせわしない。
春菜は傘も差さずに歩いていた。久しぶりの休日。でも、どこか落ち着かない気持ちを抱えて、家にじっとしていられなかった。
夜勤明けの疲れは身体に残っていたけれど、それ以上に、静かに降る雨が心を揺らしていた。
濡れても構わなかった。ただ、誰かの温もりに触れたかった。
そんなふうに歩いていたとき、カフェの窓越しに見覚えのある後ろ姿が映った。
「……あの人は──」
あの冬の夜、ストリートピアノで聴いた旋律の主。
忘れようとしても消せなかった音色が、今また目の前にいた。
思わず立ち止まった春菜に、彼が気づく。
ガラス越しに目が合い、一瞬、時間が止まったようだった。
やがて、彼は立ち上がり、傘を手にカフェの扉を開ける。
「……あのとき、ストリートピアノの前で会いましたよね?」
雪斗が、外へ出てきて言った。
春菜は小さく頷いて、微笑んだ。
「はい。言葉は交わせなかったけど、あなたのピアノに惹かれました」
「俺、雪斗っていいます」
「春菜です」
名前を交わした瞬間、見えなかった距離が少しだけ溶けていった。
雪斗は傘を差し出す。
「よかったら。濡れてますよ」
「ありがとうございます」
ふたりはひとつの傘に入った。数センチの距離に、胸がざわついた。
「夜勤明けで、ちょっと散歩してたんです」
「そうだったんですね。……俺も、今日はふらっと歩いてただけで」
雪斗が少し照れたように笑った。
「……ずっと、また会えたらいいなって思ってて。
そう思ってたら、本当に会えました」
春菜は少し驚いたように彼を見た。けれど、そこに嫌悪や警戒はなかった。
むしろ、心の奥が静かに反応していた。
「……それ、偶然を信じたくなりますね」
「うん。俺、信じてみたくなりました」
しばらく歩いたあと、春菜がぽつりと呟く。
「ねえ……変なこと聞いてもいいですか?」
「うん。なに?」
少しだけ迷ったあと、春菜は前を向いたまま言った。
「昔、“好きだ”って言われて、キスされたことがありました」
雪斗は黙って耳を傾けている。
「でも……たぶん、私のことを大事に思ってのことじゃなかったんです。
“好き”の言葉の裏で、その人は、別の人のところへ帰っていったんです」
彼女の声は静かだった。けれど、その静けさが、かえって痛みをにじませていた。
「本当は分かってたんです。でも、気づかないふりをしてた。
“誰かの代わりでもいい。一緒にいられるなら”って、思ってしまって……」
「……」
「だから、“キス”が怖くなりました。
気持ちを交わすものじゃなくて、自分を黙らせる手段に思えてしまって……」
言葉の最後は、雨音に溶けていった。
雪斗は何も言わず、傘をそっと傾け直す。春菜の肩に落ちる雨粒を、ひとつでも減らすように。
それだけで、十分だった。
「……俺、そういう気持ち、少し分かる気がします」
彼の声は、濡れたアスファルトのように落ち着いていた。
「昔、ピアノを続けてた頃、誰かを救えるって思ってたんです。
でも、いつの間にか“誰かの期待に応えるため”だけに弾くようになってて……」
春菜がそっと、彼の横顔を見つめる。
「それでもやめられなかった。音を手放すのが怖かったんです。
“偽物でもいい”って、思ってました。
でもそれって、たぶん、自分を傷つけていたんだと思います」
彼は春菜の瞳をまっすぐに見つめた。
「だから、春菜さんの気持ち……分かる気がします。
“誰かを想うこと”って、そんなに綺麗なことばかりじゃないですよね。
でも、だからこそ、本当の想いはちゃんと届くんじゃないかって、思いたいんです」
沈黙が、やわらかな余白としてふたりを包む。
それは“言葉のない会話”だった。
やがて、春菜が小さく笑う。
「……キスって、どんなふうに始めるのが正解なんでしょうね?」
意外な問いに、雪斗は少し目を見開いたが、すぐに穏やかに言った。
「正解なんて、きっとないです。
でも、“続けたい”って思えたときが、始まりになるんだと思います」
春菜の頬を、雨なのか涙なのか分からない雫が伝った。
けれど雪斗は、それを拭おうとはしなかった。
ただ、静かに隣を歩き続ける。
ふたりの歩幅は、少しずつ、けれど確かに重なっていく。
──その夜、キスはしなかった。
けれど、心がふれた。
“傷を癒す”のではなく、“その傷ごと受け止める”という、静かな約束が、
雨の中で、確かにそこにあった。
そしてきっと、
“キスからはじめよう”という約束が、
まだ言葉にならないまま、静かに芽生えていた。