第一楽章 Honesty
“Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you”
正直さは 滅多に見つからない
そしてそれは 私たちが誰かに求めているもの
──Billy Joel「Honesty」
冬の夜。吐く息が白くなるほど、空気は澄みきっていた。
12月の終わりが近づく街には、クリスマスの余韻と年の瀬の静けさが同居していた。
濡れた石畳は雪を受けて仄かに光り、淡く滲む光が歩道を照らしていた。
通りを歩く人はまばらで、肩をすぼめながら足早に通り過ぎてゆく。
どこか寂しげで、それでも心のどこかが安らぐような、そんな冬の夜。
春菜は夜勤明けの帰り道だった。
看護師という仕事は、人の痛みに寄り添う仕事だ。
それはやりがいであり、使命でもある。
けれど、ときに──いや、しばしば、その重さは胸にのしかかる。
感情を表に出せないまま、微笑みながら誰かの不安を受け止め、
強くあろうとする自分に、ふと、疲れてしまう瞬間がある。
「大丈夫ですか?」と声をかけながら、
「自分は大丈夫じゃないのに」と思う夜がある。
それでも、誰にも言えない。
正直に弱音を吐ける場所が、もうどこにもないような気がしていた。
そんな帰り道。
春菜の耳に、ふと旋律が流れ込んできた。
小さな音だった。けれど、凛としていて、なぜだかまっすぐだった。
商店街の一角──
時代に取り残されたような古びたアーケードに、ぽつんと置かれたストリートピアノ。
鍵盤の上を静かに滑る指が、冷えた空気に音を溶かしてゆく。
その音は、春菜の心の奥に触れた。
いつのまにか、彼女は足を止めていた。
そのピアノの前にいたのは、ひとりの青年。
顔ははっきり見えない。けれど、背中に、迷いや躊躇いのようなものが滲んでいた。
それでも指先から生まれる音には、何かが宿っていた。
誇らしさや技巧ではなく、もっと深く、正直な何か──それは、まるで“正直さ”そのものだった。
彼が弾いていたのは、Billy Joelの「Honesty」。
旋律が春菜の耳に、胸に、染み渡る。
歌詞を思い出すまでもなく、音だけで十分だった。
「正直さは 滅多に見つからない」──
まるで、自分の中の声を代弁されているような気がした。
看護師としての仮面の裏にある、本当の自分。
誰にも見せられない不安、無理を重ねて笑う日々。
“誰かに、ありのままの自分を見てほしい。”
そんな気持ちは、きっと弱さじゃないのだと、あの旋律が教えてくれる気がした。
コートの裾をきゅっと握りしめ、春菜はその場に立ち尽くしていた。
ピアノに向かう彼の背を、静かに見つめていた。
声をかけることもなく、ただそこにいた。
雪斗もまた、春菜の存在に気づいていた。
けれど、視線を向けることはなかった。
まるで、お互いの時間を邪魔しないようにするかのように。
この夜、ふたりのあいだに言葉はなかった。
けれどその夜、雪斗は久しぶりに、
“誰かと音楽で繋がった”という感覚を味わった。
ピアニストになる夢を失った自分と、
医療の現場で疲れ切った心を抱えた彼女。
違う場所にいた二人が、
たった一つの曲を通して、静かに呼応していた。
そしてそれは、雪斗が自分自身に、もう一度“正直”になれる
きっかけのような気がした。
──ほんのひとときだけ、
冬の街角に生まれた、音と心の共鳴。
それが、ふたりのすべての始まりだった。