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Last Song  作者: TD Coh
2/13

第一楽章 Honesty

“Honesty is hardly ever heard

And mostly what I need from you”

正直さは 滅多に見つからない

そしてそれは 私たちが誰かに求めているもの


──Billy Joel「Honesty」


 


冬の夜。吐く息が白くなるほど、空気は澄みきっていた。

12月の終わりが近づく街には、クリスマスの余韻と年の瀬の静けさが同居していた。

 

濡れた石畳は雪を受けて仄かに光り、淡く滲む光が歩道を照らしていた。

通りを歩く人はまばらで、肩をすぼめながら足早に通り過ぎてゆく。

どこか寂しげで、それでも心のどこかが安らぐような、そんな冬の夜。


 


春菜は夜勤明けの帰り道だった。

看護師という仕事は、人の痛みに寄り添う仕事だ。

それはやりがいであり、使命でもある。

けれど、ときに──いや、しばしば、その重さは胸にのしかかる。

感情を表に出せないまま、微笑みながら誰かの不安を受け止め、

強くあろうとする自分に、ふと、疲れてしまう瞬間がある。


 


「大丈夫ですか?」と声をかけながら、

「自分は大丈夫じゃないのに」と思う夜がある。

それでも、誰にも言えない。

正直に弱音を吐ける場所が、もうどこにもないような気がしていた。


 


そんな帰り道。

春菜の耳に、ふと旋律が流れ込んできた。

小さな音だった。けれど、凛としていて、なぜだかまっすぐだった。


 


商店街の一角──

時代に取り残されたような古びたアーケードに、ぽつんと置かれたストリートピアノ。

鍵盤の上を静かに滑る指が、冷えた空気に音を溶かしてゆく。

その音は、春菜の心の奥に触れた。

いつのまにか、彼女は足を止めていた。


 


そのピアノの前にいたのは、ひとりの青年。

顔ははっきり見えない。けれど、背中に、迷いや躊躇いのようなものが滲んでいた。

それでも指先から生まれる音には、何かが宿っていた。

誇らしさや技巧ではなく、もっと深く、正直な何か──それは、まるで“正直さ”そのものだった。


 


彼が弾いていたのは、Billy Joelの「Honesty」。

旋律が春菜の耳に、胸に、染み渡る。

歌詞を思い出すまでもなく、音だけで十分だった。


「正直さは 滅多に見つからない」──

まるで、自分の中の声を代弁されているような気がした。

看護師としての仮面の裏にある、本当の自分。

誰にも見せられない不安、無理を重ねて笑う日々。


 


“誰かに、ありのままの自分を見てほしい。”

そんな気持ちは、きっと弱さじゃないのだと、あの旋律が教えてくれる気がした。


 


コートの裾をきゅっと握りしめ、春菜はその場に立ち尽くしていた。

ピアノに向かう彼の背を、静かに見つめていた。

声をかけることもなく、ただそこにいた。


雪斗もまた、春菜の存在に気づいていた。

けれど、視線を向けることはなかった。

まるで、お互いの時間を邪魔しないようにするかのように。


 


この夜、ふたりのあいだに言葉はなかった。


けれどその夜、雪斗は久しぶりに、

“誰かと音楽で繋がった”という感覚を味わった。


 


ピアニストになる夢を失った自分と、

医療の現場で疲れ切った心を抱えた彼女。


違う場所にいた二人が、

たった一つの曲を通して、静かに呼応していた。


 


そしてそれは、雪斗が自分自身に、もう一度“正直”になれる

きっかけのような気がした。


 


──ほんのひとときだけ、

冬の街角に生まれた、音と心の共鳴。

それが、ふたりのすべての始まりだった。

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