第十楽章 恋をしたから
恋をしたから 空が綺麗と思えた
恋をしたから 明日が大好きだった
恋をしたから 貴方を知れた
──あいみょん「恋をしたから」
静かに、冬が終わろうとしていた。
灰色の空は低く垂れ込め、凍えるような風が街の角を曲がっていく。冷たく濡れたアスファルトの上を、誰かの足音が遠くに消えていくたび、春菜の耳には雪斗のピアノの音が思い出のように響いた。
火葬場の煙突から立ちのぼる白煙は、雲の一部と混じり合って見えなくなる。
まるで、彼が本当にどこか遠くへ還ってしまったようで。
春菜は、目を閉じてその光景から目を逸らした。
祭壇の写真に映る雪斗は、少し不器用な笑みを浮かべていた。
その微笑みの意味を、春菜はもう知っていた。
悲しみではなく、温もりの記憶として、それを胸の奥にそっと仕舞い込む。
葬儀の翌日。
春菜は静かな部屋の中、窓際の光を浴びたまま開かれたままだった楽譜ノートを見つけた。
そのページの間に、丁寧に折られた一枚の便箋が挟まっていた。
気づかないふりをしていたかもしれない。
でも、きっとどこかでわかっていた。
これが、雪斗の最後の“音”だと。
封もされていないその手紙には、見慣れた筆跡で、「春菜へ」とだけ記されていた。
指先が震えた。
紙を開く音が、部屋に大きく
⸻
春菜へ
これを読んでいるということは、
僕はもう、君のそばにいないんだと思う。
どうか、涙を流さないで──
なんて、そんなことは言わない。
君が泣いてくれるくらい、僕は君の中で生きていられたんだって、
そう思えるだけで、十分だから。
春菜。
君と出会ってからの毎日は、本当に不思議なくらい鮮やかで、
あたたかくて、優しくて、
まるで音楽みたいだった。
君のお陰で、音を失っていたピアノも音を取り戻し、輝くことができた。
もう一度、音楽と向き合えたのは、君がいてくれたから。
君の声が好きだった。
笑った顔も、怒った顔も、泣きそうな顔も──
どれも、全部。
君のすべてを、愛してる。
僕は、君と恋ができて、幸せでした。
本当に……ありがとう。
君の明日が、優しくて、あたたかくありますように。
雪斗
⸻
手紙を読み終え、春菜はしばらくの間、静かにその場に佇んでいた。
外の光はすでに柔らかな夕暮れ色に染まり、淡く揺れる影が部屋の隅々まで広がっている。
窓の外には、風に揺れる木の葉がほんのりと黄金色に輝き、
遠くで子どもたちの笑い声がかすかに聞こえた。
この世界は、いつもと変わらない日常のはずなのに、
そのひとつひとつの景色が今は、どこか特別に感じられた。
⸻
西の空が茜色に染まる頃、風が少し冷たくなった。
街灯がひとつ、またひとつと灯っていくたび、
あなたと歩いた夕暮れが、胸によみがえる。
あの日も、こんなふうに空は優しくて、
風は穏やかで、光は柔らかかった。
あなたの横顔をオレンジ色に染めた夕暮れが、今も焼きついてる。
「綺麗だね」って言った私に、
「春菜がいるから、そう思えるんだよ」って、あなたは笑った。
その笑顔ひとつで、世界があたたかくなった。
空が変わって、風が変わって、私の心まで色づいていった。
恋って、こんなふうに景色を変えるんだね。
あなたと出会って、私は初めて、
明日が楽しみだと思えた。
朝が待ち遠しくて、夜がやさしくて、季節の変わり目が愛しくなった。
未来が、あなたとなら歩いていけるものに思えた。
でも今、ひとりきりの帰り道、
ふと見上げた空が、やけに広く感じる。
風が、少しだけ遠く吹き抜けていく。
沈む夕日に、あなたの影を探してしまう。
空も、風も、光も――
あなたのいない世界が、少しだけ冷たい。
それでも私は、
あなたに恋をして、幸せだったと思う。
あなたに恋をして、私は変われた。
あなたに恋をして、私は強くなれた。
名前を呼びたくなる夜が、これからもあるかもしれない。
でもそのたびに、私はきっと、
あなたがくれた優しさを思い出して、また前を向ける。
――雪斗。
ありがとう。
あなたに恋をして、私は本当に、幸せだよ。
⸻
玄関を開けた瞬間、ふわりと春の匂いがした。
まだ冷たい風の中に、どこか土の香りと、やわらかな光の気配。
冬のあいだ閉じていた心の窓にも、ようやく風が通り抜けるような、そんな朝だった。
もう、何度も見送った季節の移ろい。
でも今日は、ほんの少しだけ、違って見えた。
雪斗がいた時間は、確かに過去になっていく。
それでも――消えてしまったわけじゃない。
リビングの片隅に置かれたままの、雪斗の楽譜ノート。
擦れた表紙にそっと手を添えると、薄く色褪せたページの間から、小さな五線譜が滑り落ちた。
そこには、彼が最後に書き残していた旋律の断片。
春菜はゆっくりとそれを拾い上げ、目を細めた。
たとえ言葉を残せなくても、
音は、まだここにある。
彼が遺してくれたものが、確かに息をしている。
春菜は静かに立ち上がると、リビングのピアノの前に座った。
鍵盤に手を伸ばすのは、あの日以来だった。
音を鳴らすことが怖かった。
雪斗のいない音が、怖かった。
でも――
白鍵に触れた指先が、一音を紡ぎ出す。
弱くて、たどたどしくて、震えるような音。
それでもその音は、確かに彼の旋律と重なっていた。
風がカーテンを揺らす。
朝の日差しが床に伸びて、光と影が静かに揺れる。
そこに、雪斗の気配を感じた。
「――ただいま、雪斗。」
返事はない。
けれど、その静けさの中に、あたたかさが宿っていた。
そのときだった。
春菜の身体の奥で、ふと違和を感じた。
胸の奥に生まれた、淡くくすぐったい感覚――
鼓動とは違う、でも確かに“何か”がそこにある気がした。
気のせいかもしれない。
でも、春菜は自分の腹にそっと手を添えてみる。
あたたかい。
「……もしかして……」
声にするのが、少し怖かった。
でも、確かにその気配はあった。
ほんのわずかに、でも確かに――命の気配。
春菜は静かに、目を閉じた。
雪斗の音が、未来へと続いていくように思えた。
胸の奥にあった痛みが、少しだけあたたかくほどけていく。
このあたたかさが、彼から受け取った最後の贈り物なら——私は、守りたいと思った。
春が、始まろうとしていた。