表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Last Song  作者: TD Coh
11/13

第十楽章 恋をしたから

恋をしたから 空が綺麗と思えた

恋をしたから 明日が大好きだった

恋をしたから 貴方を知れた


──あいみょん「恋をしたから」



 静かに、冬が終わろうとしていた。

 灰色の空は低く垂れ込め、凍えるような風が街の角を曲がっていく。冷たく濡れたアスファルトの上を、誰かの足音が遠くに消えていくたび、春菜の耳には雪斗のピアノの音が思い出のように響いた。


 火葬場の煙突から立ちのぼる白煙は、雲の一部と混じり合って見えなくなる。

 まるで、彼が本当にどこか遠くへ還ってしまったようで。

 春菜は、目を閉じてその光景から目を逸らした。


 祭壇の写真に映る雪斗は、少し不器用な笑みを浮かべていた。

 その微笑みの意味を、春菜はもう知っていた。

 悲しみではなく、温もりの記憶として、それを胸の奥にそっと仕舞い込む。


 葬儀の翌日。

 春菜は静かな部屋の中、窓際の光を浴びたまま開かれたままだった楽譜ノートを見つけた。

 そのページの間に、丁寧に折られた一枚の便箋が挟まっていた。


 気づかないふりをしていたかもしれない。

 でも、きっとどこかでわかっていた。

 これが、雪斗の最後の“音”だと。


 封もされていないその手紙には、見慣れた筆跡で、「春菜へ」とだけ記されていた。


 指先が震えた。

 紙を開く音が、部屋に大きく



春菜へ


これを読んでいるということは、

僕はもう、君のそばにいないんだと思う。


どうか、涙を流さないで──

なんて、そんなことは言わない。

君が泣いてくれるくらい、僕は君の中で生きていられたんだって、

そう思えるだけで、十分だから。


春菜。

君と出会ってからの毎日は、本当に不思議なくらい鮮やかで、

あたたかくて、優しくて、

まるで音楽みたいだった。


君のお陰で、音を失っていたピアノも音を取り戻し、輝くことができた。

もう一度、音楽と向き合えたのは、君がいてくれたから。


君の声が好きだった。

笑った顔も、怒った顔も、泣きそうな顔も──

どれも、全部。


君のすべてを、愛してる。


僕は、君と恋ができて、幸せでした。

本当に……ありがとう。

君の明日が、優しくて、あたたかくありますように。


雪斗



手紙を読み終え、春菜はしばらくの間、静かにその場に佇んでいた。

外の光はすでに柔らかな夕暮れ色に染まり、淡く揺れる影が部屋の隅々まで広がっている。


窓の外には、風に揺れる木の葉がほんのりと黄金色に輝き、

遠くで子どもたちの笑い声がかすかに聞こえた。

この世界は、いつもと変わらない日常のはずなのに、

そのひとつひとつの景色が今は、どこか特別に感じられた。




西の空が茜色に染まる頃、風が少し冷たくなった。

街灯がひとつ、またひとつと灯っていくたび、

あなたと歩いた夕暮れが、胸によみがえる。


あの日も、こんなふうに空は優しくて、

風は穏やかで、光は柔らかかった。

あなたの横顔をオレンジ色に染めた夕暮れが、今も焼きついてる。

「綺麗だね」って言った私に、

「春菜がいるから、そう思えるんだよ」って、あなたは笑った。


その笑顔ひとつで、世界があたたかくなった。

空が変わって、風が変わって、私の心まで色づいていった。

恋って、こんなふうに景色を変えるんだね。


あなたと出会って、私は初めて、

明日が楽しみだと思えた。

朝が待ち遠しくて、夜がやさしくて、季節の変わり目が愛しくなった。

未来が、あなたとなら歩いていけるものに思えた。


でも今、ひとりきりの帰り道、

ふと見上げた空が、やけに広く感じる。

風が、少しだけ遠く吹き抜けていく。

沈む夕日に、あなたの影を探してしまう。

空も、風も、光も――

あなたのいない世界が、少しだけ冷たい。


それでも私は、

あなたに恋をして、幸せだったと思う。


あなたに恋をして、私は変われた。

あなたに恋をして、私は強くなれた。

名前を呼びたくなる夜が、これからもあるかもしれない。

でもそのたびに、私はきっと、

あなたがくれた優しさを思い出して、また前を向ける。


――雪斗。

ありがとう。

あなたに恋をして、私は本当に、幸せだよ。



玄関を開けた瞬間、ふわりと春の匂いがした。

まだ冷たい風の中に、どこか土の香りと、やわらかな光の気配。

冬のあいだ閉じていた心の窓にも、ようやく風が通り抜けるような、そんな朝だった。


もう、何度も見送った季節の移ろい。

でも今日は、ほんの少しだけ、違って見えた。

雪斗がいた時間は、確かに過去になっていく。

それでも――消えてしまったわけじゃない。


リビングの片隅に置かれたままの、雪斗の楽譜ノート。

擦れた表紙にそっと手を添えると、薄く色褪せたページの間から、小さな五線譜が滑り落ちた。

そこには、彼が最後に書き残していた旋律の断片。

春菜はゆっくりとそれを拾い上げ、目を細めた。


たとえ言葉を残せなくても、

音は、まだここにある。

彼が遺してくれたものが、確かに息をしている。


春菜は静かに立ち上がると、リビングのピアノの前に座った。

鍵盤に手を伸ばすのは、あの日以来だった。

音を鳴らすことが怖かった。

雪斗のいない音が、怖かった。


でも――

白鍵に触れた指先が、一音を紡ぎ出す。

弱くて、たどたどしくて、震えるような音。

それでもその音は、確かに彼の旋律と重なっていた。


風がカーテンを揺らす。

朝の日差しが床に伸びて、光と影が静かに揺れる。

そこに、雪斗の気配を感じた。


「――ただいま、雪斗。」


返事はない。

けれど、その静けさの中に、あたたかさが宿っていた。


そのときだった。

春菜の身体の奥で、ふと違和を感じた。

胸の奥に生まれた、淡くくすぐったい感覚――


鼓動とは違う、でも確かに“何か”がそこにある気がした。


気のせいかもしれない。

でも、春菜は自分の腹にそっと手を添えてみる。

あたたかい。


「……もしかして……」


声にするのが、少し怖かった。

でも、確かにその気配はあった。

ほんのわずかに、でも確かに――命の気配。


春菜は静かに、目を閉じた。

雪斗の音が、未来へと続いていくように思えた。

胸の奥にあった痛みが、少しだけあたたかくほどけていく。


このあたたかさが、彼から受け取った最後の贈り物なら——私は、守りたいと思った。


春が、始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ