⑨ ◇鬼哭◇ 中
およそ一カ月の心の休養。北條診療内科へ行き始めてからは、こんなに先生とも彼女とも会わずにいたのは始めてだった。もちろん会いたくなかったわけでは無い、むしろ会いたくて仕方がなかった。だがどうしてもあの悪夢がちらついてしまっていた健太の事件後、そんな状況で会ってしまうと些細な事にも気が付いて配慮を忘れない彼女を間違いなく心配させてしまうだろう、そう思い会うことを躊躇してしまっていた。だけどもう大丈夫だ。心を整理している間に完成させる事が出来た二枚の絵を彼女に見せてみよう。そしてプレゼントしよう。一枚は彼女の笑う横顔の絵、もう一枚は私が夢で見たような、緑の自然の中でゆっくりと過ごす彼女の絵。こんなに気持ちが昂るのはいつぶりだろう…。
彼女には心配かけないように、この三週間北條診療内科に顔を出さなかったのは絵を完成させて渡したかったからだとでも言っておこう。なんて、そんな暢気な言い訳や久しぶりに彼女に会った時の事も考えられるまでになっていた。
完成させた二枚の絵は結局黒と緑の二色でしか描けなかったが、生い茂る自然の緑を我ながら美しく表現できたと自負している。そして、その緑以上に美しい彼女の姿を描けた喜びは計り知れない。次に描く時は一色でも彩りを増やせる事が出来たらいいな…そんな淡い思いを馳せながら、一皮剥けたような気分で久しぶりの北條診療内科へ続く道を歩いた。
しかし雑居ビルの前まで来た時に何となくいつもの雰囲気とは違う感覚がした。だがおよそ一カ月此処へ来ていない。きっと久しぶりだからだろうと、特に気にする事無く四階へ上がりいつものドアの前。
コンコンコン…コンコンコンコン。
いつものノック、もうすぐいつもの先生の声がするはず…なのに、返事が無い。先生はこの時間たまに寝ている時があり、私と彼女が来ても開けて入れるようにと、いつも鍵は掛かっていない。今日はまだ寝ているのだろうとドアノブを捻り入ろうとしたその時、一つの違和感に気付く。あのお世辞にも綺麗とは言えない看板代わりの北條診療内科と書かれた張り紙が無いのだ。それに鍵も掛かっていて入る事も出来ない。今の時刻はいつも通りの朝九時半頃、早すぎるわけでもないのにどうしてだろう?こんな事は今まで無かった、もしかすると先生や彼女に何かあったのか?不安になりまずは先生に電話をかけてみたが繋がらない。次に彼女に電話をかけたのだが彼女も電話にでない…。
ドアの前にもたれて、汚れない様にクリアファイルに入れてきた彼女の絵を見ながら少しばかり待つ事にしたのだが、彼女がくる気配も電話がくることも無く時間は過ぎていく。暫くして時計を見ると、到着してから一時間以上待っている事に気が付く。もうすでに朝十時半を過ぎていた為、今日はもう帰ろうとドアから離れ歩き始めた時にポケットの中で携帯が鳴った。
先生かな?深月ちゃんかな?徐に電話を取り出し画面を確認すると、刑事の長谷川さんだった。少し肩を落としながらも立ち止まり電話にでた。
「はい、もしもし」
「幡西さん、おはようございます長谷川です。体調は大丈夫ですか?今お仕事中でしたか?」
「おはようございます。いいえ、今日は休みです。体調は随分と良くなりました。どうかされましたか?」
「お休みのところ電話してしまい申し訳ありません。せっかくのお休みですのでまた後日改めて電話させていただきますね」
「たった今予定が無くなったところだったので全然今日で大丈夫ですよ。何かありましたか?」
「そうでしたか、いつも快く協力していただき本当に感謝いたします。実はですね、幡西さんに色々とお話を聞かせていただいた後、例の事件が大きく動く可能性が出てきまして。それについての説明をさせていただければと思いまして」
「そうなんですか、全然いつでも大丈夫です。今からそちらに向かいましょうか?」
「ありがとうございます。前回お話した部屋に直接来ていただければ大丈夫ですので、では後ほど」
「失礼します」
「おはようございます幡西さん、せっかくのお休みに御足労かけまして申し訳ありません。毎度ご協力感謝いたします。どうぞお座りください」
「いえいえ、それで何かあったのですか?」
「はい。実はですね、前回幡西さんからお話を聞かせていただいた後に私が所属する刑事部捜査一課の方で、露崎の供述にもあるような視界が黒くなって見えなくなる症状に悩まされている例が他にもある為〝露崎の言うことが本当だった場合〟という線でも捜索をした方がいいのではないかと上層部に話を持ちかけたところ、許可がおりたので水面下で捜索を続けておりました。それと同時に検死、司法解剖の際に判明した死亡原因が本当に毒殺による急性砒素中毒以外に考えられないのかを再度確認してもらっていたところ、新たな可能性が浮上しまして。死んでしまった女性は肺がんを患っていたことが新たに分かったのです。今の時点では患っていた肺がんが直接死の原因になったとまではわかっていませんし、肺がん自体がどの程度重症化していたかでも話が変わってくると思います。その件につきましては現段階、新法解剖にて追求を進めています。ですのでまだ何とも言えないのですが、露崎が言い続けている『視界が黒く染まって見えない状態で人は殺せない、自分は絶対に殺していない』という言葉に少しずつ信憑性がでてきたのではないかと思っています。まだまだ捜査中で、腑に落ちる解決までは時間がかかりそうですが、ここまで前進して新たな事実を公にできたのは幡西さんのおかげです。今日は現段階の報告と、改めてお礼をしたくお呼びした次第です。本当にありがとうございます」
長谷川さんの事件に対する気持ちの強さ、そして北條先生以外、医者にすら苦しみを分かってもらえなかった暗転現象に対しての向き合い方を見て、自分が出来る事や話せる事があるならこの人には何でも協力しよう。そんな思いで此処へ来ている。だけど自分が口を挟んだ事によってここまで事件の真相が大きく動こうとしているのを知った途端に少しの不安と恐怖が入り混じったような気持ちになってしまい言葉に詰まる。
返事をしようとしても何と言っていいのか分からず、とにかく頷くことしか出来ずにいた。
「幡西さん、私の所為で心身共に色々な負担をかけてしまってすみません。あなたは私に協力をしてくれている謂わば仲間の様なものです、本当に何も気負うことはありません。こちらの関係者に何か言われたとしても必ず私が守りますのでどうかご心配なさらないでください」
「はい…ありがとうございます。僕が口を挟んだことによって事件の真相が大きく動くことになるなんて思ってもいなかったので、少し不安というか恐怖を感じてしまって…それと一つ、ちょっと気になった事があるのですが。当初、女性の死因は急性砒素中毒だったと仰っていましたよね?だけど肺がんを患っていたことが新たに分かったと…それって素人の僕からしたら、すごくかけ離れているものだと思ってしまうのですが、毒による死と、肺がんによる死…何か接点があるのでしょうか?すみません、素人が知った様な口を聞いてしまって」
「いえいえとんでもないです、幡西さんのおかげで水面下での捜索が実ろうとしているのですから。やはり幡西さんは勘が鋭いですね。その通り〝毒殺〟と〝肺がん〟私も聞いた時はさっぱり意味が分かりませんでした。ですが法医学者の見解等の資料に目を通した時に驚きましてね…。当初、急性砒素中毒と断定した理由は、司法解剖で女性の体内から無機砒素が検出された為でした。無機砒素は所謂、毒そのもの。検出された時点で、ましてや急性砒素中毒と判断されれば毒殺と想像することはとても容易い事です。死体で発見された女性に争った形跡、暴行を受けた形跡が無かったのなら尚更です。もちろん私もそう思っていました。ですが無機砒素というものは、実は日常生活において簡単に体内に入り得る毒なのです。例えば普段よく食卓に並び口にするであろう海藻や魚介類も然りです。海水に溶け込んだ無機砒素を藻類やプランクトンが取り込むと濃縮、有機化するそうで、それを魚類が摂取する。このような食物連鎖で海藻や魚介類には砒素が含まれているのだそうです。今言ったような、海洋生態系に取り込まれた無機砒素は代謝されるそうで、魚介類は有機砒素、藻類では無機砒素を含むものもあるとのこと。その他、農産物では米から砒素を体内に摂取していることが充分に考えられる、とのこと。ただ、今説明したような事を私が資料で見ていた時に法医学者は、あくまでそういった食物連鎖等で簡単に体内に入り得るというだけで、そこまで深刻な事では無い、我々も毎日の様にひじきや魚、米を食べているが何ら問題は無いと言っていました。長々と喋ってしまいすみません。結論、死んでしまった女性の死因が毒では無く肺がんだった可能性が浮上した事については、女性の家系や体質、どんな生活をしていたかなどを調べる必要があるものの、裏を返せば知らぬ間に体内に蓄積され続けた無機砒素により肺がんを患い、知らぬ間に悪化の一途を辿っていたということも大いに考えられます。つまり露崎裕壱が一貫して言い続けるように、本当に殺していない可能性も充分にあるという事なのです。それともう一つ、女性の遺体は、殆ど腐敗が進んでいなかった。その点も引っかかっています。腐敗が進んでいないのはおそらく体内外に付着した砒素の所為だと言えるそうです。おかしな話ですが、無機砒素は人を殺す事が出来てしまう反面、人の腐敗を遅らせる、つまりミイラの様にする事も容易いということになります。私はこれを知って更に、やはり女性は何らかの原因で長期間に渡り少しずつ無機砒素を体内に蓄積していた為に肺がんになってしまった、そしてそれが致命傷となり死んでしまった。と考える方が腑に落ちるのではないかと…もし仮にそうだとすれば急性砒素中毒という死因は矛盾が生じてしまう為、一気に露崎の犯行ではない可能性が大きくなると言えます。幡西さん、少し休憩しましょうか。聞き慣れない単語ばかりで頭が痛くなりますね。今コーヒー淹れてきますね」
言葉に詰まること無くスラスラと説明に説明を重ねる長谷川さん。その姿に感心しながらも、私は次々に並べられる難しい言葉達に途中目眩を起こしそうになっていたが、それでも必死にしがみつき話を聞き続けた。まるで自分がドラマや映画の世界に迷い込んだかのような感覚、異様な光景、異常な現実…。
と、ここである重大な事に気付いた。今、私が聞いているのは三月に起きた多目的トイレ殺人事件の話ばかり。もちろんそのニュースと露崎の供述を聞いた時は、自分の身に起こっている謎の暗転現象と丸っ切り同じ症状を訴えていた為に衝撃であった、そして頭の片隅にはどこか気になっている部分もあった。だけと所詮は知らない人の事件だ。
私が本当に真相を知らなければいけないのは健太が露崎に殺された事件の方ではないのか…そう頭では考えるのに、何故か心はそれを差し置いて三月の事件の真相を追ってしまう。もう健太の事は吹っ切れたのか?いや、そんなはずはない。なのにどうして関心を持てないのだろうか…。
「幡西さん?大丈夫ですか?少し顔色が良くない気がするのですが…。一気に色々と喋りすぎましたかね、申し訳ありません。気分転換にコーヒーどうぞ」
「…そうですね、ありがとうございます。少し頭がパンクしそうなので今日の所はこの辺にしていただけませんか?」
「もちろんです、無理させてしまい申し訳ありません。とにかく今日は水面下での捜索の進捗と、何よりも幡西さんの助言によって事件が大きく動くかもしれない所まで来ているのでどうしても直接お礼を言いたかったのです。貴重なお休みの時間を割いていただき本当にありがとうございました」
「はい、また何かあれば電話ください。では今日はこれで失礼します」
二度目の警察署での話は想像以上に重大な事だった為か、署を出るまでずっと息苦しさを感じていた。一時間も無い程の短い時間だったのにすでに疲労困憊、外の空気を大きく吸って気持ちを落ち着かせる。
「はあ…深月ちゃんに会いたいな…」
溜め息に混ざる今の素直な想いは薄く小さく弱く、微かな声に成り空気に溶ける。そこでもう一度彼女に電話をかけてみたのだが、やはり何故か繋がらない。本当なら今頃、北條診療内科で先生と彼女とテーブルを囲んでコーヒーを飲みながら話をしたり、完成した彼女の絵を見せてみたり、彼女と先生の息の合った会話を聞いて笑ってみたりしていたはずなのに…。
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
ポケットの中で着信のバイブが鳴る。また長谷川さんかと思いながら何となく手に取り画面を見ると、やっと彼女からの着信だった。私は急いで電話に出る。
「深月ちゃん?何かあったの?無事?」
「…え?鷹斗どうしたの?あたしはいつも通りだけど、鷹斗の方こそ何かあったの?大丈夫?」
「え…っと、今は大丈夫だけど、先生は?」
「ん?先生?此処に居るけど?いつもならもうとっくに来てる時間なのに全然来ないから、まさか暗転したんじゃないかと思って心配してたんだよ…何があったの?」
「…え?どういう事?僕も朝いつもの時間に北條診療内科に行ったんだよ?だけど鍵も掛かっていて、何かあったのかと心配になって先生にも深月ちゃんにも電話したけど繋がらなかった…着信あったでしょ?」
「朝?あたしもいつもの時間に此処に来たよ?朝から先生もいたし携帯に着信も無かったよ?〈ねえ先生、鷹斗が朝電話したって言ってるんだけど着信あった?うん、そうだよね……〉やっぱり先生も着信は無かったって言ってるよ?もしかして間違えて誰か違う人に掛けちゃったんじゃない?あたしは鷹斗から電話が来たら嬉しくてすぐに取っちゃうもん。それより本当に大丈夫なの?今日は来れそうにない?」
「…ううん、大丈夫だよ。寝ぼけてたのかな?今から急いでそっちに向かうから待っててね」
一体どういう事だ?何故だ?何が起きている?私は間違い無く朝いつもの時間に北條診療内科を尋ねた。その時、確かに張り紙は無くなっていたはずだ。先生と彼女に電話もかけて、入り口のドアも開けようとしたが鍵が掛かっていて入れなかった。それなのに先生も彼女もいつも通りあの場所に居た?色々と疲れが溜まっているのかな…訳がわからず、どうも腑に落ちない。だけど彼女がいつも通り居るのならすぐに北條診療内科へ行かなければ。彼女の絵を入れた手提げカバンを握り締め急いで北條診療内科へと向かった。
私はパニックになりながらも北條診療内科へもう一度行き、いつものドアの前まで来た。其処でまた頭が混乱してしまう。いつも目にする北條診療内科と書かれた紙がいつも通りに貼られている…確かに今朝来た時は張り紙が消えていたはずなのに…。そして恐る恐るドアノブを捻ると、鍵が掛かっていたはずの扉もいつも通り簡単に開き、中の方から聞こえるのは何かトラブルがあったとは到底思えない様ないつも通りの先生と彼女の笑う声だった。
不思議な気持ちなのに、その声を聞いた途端に安心してしまい身体の力が抜ける。だがやはりそれと同時に、今朝此処へ来た時の私の記憶は恐怖を呼び寄せ全身を震わせている。
一体何がどうなっているんだ…。
混乱する頭を、何とかして元に戻すように顔を大きく左右に振り、両手で頬を軽く叩いて中へ入った。
「やっと来た、鷹斗大丈夫?顔色悪いよ?」
「おはようさん幡西くん。本当に大丈夫かい?」
「おはようございます先生、おはよう深月ちゃん。どうしてだろう、疲れてるのかな…今朝もいつも通りの時間に此処へ来たけど鍵が掛かっていた気がして。先生、朝は戸締りをして何処かへ出かけておられましたか?」
「いいや、今日は朝八時くらいに起きてずっと此処に居たよ。幡西君、何か苦しい事があったの?酷く疲れているみたいやし、ここ最近顔を見せてくれなかったから二人で心配しとったのよ」
「少し疲れが溜まっているのかもしれません。だけど大丈夫です。先生と深月ちゃんと久しぶりに会えたので」
混乱している事に気付かれないように、二人に心配かけないようにとなんとか気丈に振る舞う。
「鷹斗、絶対無理してるでしょ。あたしには分かるんだからね。だけど良かった、久しぶり鷹斗と会ったら安心しちゃったよ。はやくこっちに座ろうよ」
久しぶりの彼女の笑みに少し落ち着きを取り戻す。やっと会えた…ずっとずっと会いたかった人。彼女の向かいのソファに腰掛け北條診療内科を見渡すと、健太が死んでしまった事、その後急に吐き気がしてトイレに駆け込みそのまま暗転して悪夢に襲われていた事、刑事からの連絡、警察署に行って話をした事、忌々しい直近の出来事が遥か遠い昔の様に感じてしまう程に心が落ち着きを取り戻していくのが分かる。
「幡西君、暫く来ていなかったけど、その間は体調大丈夫だったの?」
「はい。実はその間ずっと絵を描いていました。どうしてだか、まだまだ色彩豊かな絵は描けないのですが、一色だけ思った様に使える色を増やす事も出来て。このまま何枚か描き終える事が出来そうだったので、ここ最近の水曜日もずっと家に篭って描き続けていました。ご心配おかけしてすみません」
「そうだったのか、よかった安心したよ。その間、深月ちゃんは此処へ来ても落ち着かずにずっとソワソワして幡西君の事気にしてたからね。彼の顔を見れて良かったねえ深月ちゃん」
「本当に心配で仕方がなかったよ、だけど良かった。絵も少しずつ描いてたんだね。すごいね鷹斗。どんな絵が描けたのか見てみたいなあ」
いつもと変わらない優しい空間。先生の温かいオーラと彼女の優しい微笑み。やっぱり彼女と居ると心が安らぎ苦しい事も忘れられる。改めてそう思いながら、ゆっくりと手提げカバンから絵を入れたクリアファイルを取り出す。
「実は今日持ってきたんだ。久しぶりに描けた絵はどうしても深月ちゃんに見てもらいたくて…大したものじゃないけどこれ…」
そう言って差し出した絵を手に取った彼女は、目を丸くしながら私が描いた絵をじっと見つめている。
「これって…」
「うん、深月ちゃんを描いてみたんだ。前に深月ちゃんにも話した事がある、僕が見た二人で過ごしていた幸せな夢がどうしても忘れられなくてさ。その夢で見た情景を思い出しながら描いていたらね、気が付いたら深月ちゃんを包む周りの木々や葉っぱ達を、緑を使ってしっかり描く事が出来てたんだ。すごく綺麗な緑でしょ?深月ちゃん…?」
いつもなら照れ隠しの様に揶揄ったりするのに、絵をじっと見つめて黙り込んでしまう彼女。落ち着いてよく考えてみると、知らないところで自分の姿を描かれていたと分かればいくらそれが仲の良い私でも気分を悪くしてしまったのではないかと、冷静になりとても申し訳ない気持ちになった。
「ごめん、勝手に深月ちゃんの絵…」
謝ろうとしたその瞬間、急に温もりが私の全身を包んだ。彼女は何も言わずに私を抱き締めてくれていた。
「深月ちゃん…ごめん。まずは深月ちゃんの絵を描いていいか先に聞かないといけなかったね、配慮が足りてなかった…ごめんね」
「ううん。違う、こんなに嬉しい事今まで無かったから気付いたら…思わず抱き付いちゃったじゃん。鷹斗がまた絵を描けるようになったってだけで嬉しいのにあたしを描いてくれたなんて。全く…泣かせたらダメでしょ」
彼女はそう言うとニコッと笑い、絵を大切そうに持ちながらソファに座り直すと、その後暫く絵をじっと見つめていた。
「すごいね、本当に綺麗な緑…あたしの周りの葉っぱが生きているみたいだね」
こんなにも胸が熱くなる褒め言葉を貰うのはいつぶりだろうか。彼女が嬉しそうに笑っている姿と相まって私の心は喜びで満ち溢れる。やはり此処に来ると、彼女と居ると、この先はもう大丈夫な気がする。幾度と無く訪れる絶望と暗転現象、全ては境遇の所為だと管を巻いていた自分と決別出来たようにも思える。
「深月ちゃん、ありがとう」
「なんで鷹斗がお礼を言ってんのよ、私の方こそありがとうでいっぱいだよ。ねえ、いつかこの絵みたいに二人で色々な所にお出掛けして、ずっとずっと笑っていたいね。そうなるといいな…」
「うん。僕もこれから深月ちゃんと色々な場所に行ってずっと笑っていたい。絶対にそうなるように頑張るね。だからこれからもずっとよろしくね」
彼女と笑い合う温かい空気の中、ふと先生を見ると、二人の世界を邪魔しないようにと言わんばかりに背を向けてテレビを観ていた。それに気付いた彼女はいつもの様に戯けながら先生の様子を伺う。
「先生、鷹斗が描いた絵とても綺麗だよ、すごく丁寧にあたしを描いてくれたの!羨ましいでしょ?先生も描いてもらったらどう?先生?さっきから何を真剣に観てるの?あたし達に気遣っていないでこっち来たらいいのに」
「いやあ、なんだか気になるニュースが流れていてね、耳に入ってきたから観てみたら僕らが他人事とは思えない内容だったものだから…どれどれ幡西君の絵は如何なものかね」
先生が言った『僕らが他人事とは思えない内容』という言葉に引っかかり、二人は目を合わせ、向かい合い同時に首を傾げる。
そしてテレビの前に移動し先生がじっと観ていたニュースを覗くと、本当に他人事とは思えない内容だった…。