⑧ ◇鬼哭◇ 上
自身の中で暗転症候群と向き合う気持ちは徐々に変化し始めており、拒絶していた絵を描く事さえも呼び戻そうとしていた。彼女と話した、私の夢の続きを夢見ては想像を膨らませてスケッチブックに描く。そのほとんどが彼女の姿、それを遠くから映す風景ばかり。
ただ一つ気掛かりなのは、黒色のインクでしか絵が描けなくなっていること。
あの日以降、指の力が入らないながらも何枚もの絵を描いてみたのだが、黒一色の絵ばかりで色を使おうとすると何故か手が止まり描けなくなってしまう。これも暗転症候群の所為なのかもしれない。ただ『黒一色だけでも描くことが出来るようになったんだ。それだけでも少し前進しているから今は特に気にする事はない。むしろ前向きに考えよう』そう言ってくれる彼女と先生のおかげで、考えすぎず思ったままに絵を描くことを続けている。そんな日々を過ごす中、またもや信じられない出来事が起こってしまう。
健太が死んだのだ…。
あまりにも急に、近すぎる存在だった人が死んでしまった。それ自体が悲しく信じがたい出来事なのに、なんとそれをテレビのニュースで知ってしまった。
ある日の仕事終わり、いつものように寄り道する事なく帰宅しテレビをつけた。特に何かを観たいわけではなく、帰宅後の洗濯や食事のBGMとしてつけただけだった為に、画面は観ずに脱衣所まで行こうとしたその時だった。
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速報です。先日報道しました京都府久瀬郡久御川町の河川敷で、高架下に死体のようなものがあると通報があり確認したところ、頭部に殴られたような跡が数カ所ある遺体が発見された事件ですが、その後の捜査結果により発見された遺体の身元は、京都府の会社員、長野健太さん二十九歳だと判明しました。そして長野健太さんを殺害、遺棄したとして犯人と特定された人物は、今年の三月に起こった京都府みやこ本線淀野駅の多目的トイレにて外傷無しの女性の死体が発見された事件の犯人として、既に逮捕されている露崎裕壱容疑者の犯行だった事が判明しました。警察は露崎裕壱容疑者を殺人、死体遺棄の罪で再逮捕し、更なる余罪が無いか引き続き詳しく捜索を続けるとのことです。
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健太が……殺された?信じられない報道を聞き一気に悍ましい程の吐き気が襲いトイレに駆け込む。
健太の死?それも殺人事件?犯人は名前すらも忘れかけていたあの露崎裕壱?悪夢ならばどうか早く覚めてくれ…そう無理矢理心で願ってみてもこれは現実に起きている。
トイレに入り蹲ったまま動く事も出来ず、途轍もない恐怖が全身を駆け巡る。健太の事件については、露崎裕壱の犯行動機や供述等はこのニュースではわからなかった。もしやまた暗転現象が起こったのか?いいや、そもそも三月の多目的トイレ殺人事件の時に言っていた『視界が真っ黒で何も見えなかった』という供述も本当は露崎裕壱の出鱈目だったのではないか?健太の死に対する不信感と疑問だけが残る。
そして健太が死んでしまい、健太自身が本当に私を嘲笑し踏み躙っていたのか真相を知る事も出来なくなってしまった。こんな事になるならばあの日デパートで偶然会った時にでも話し合うなり、それが出来ないのなら電話をかけるかメールを送ってみればよかった…。
再び耳にした露崎裕壱という名前と健太の死は、いとも簡単に前を向いていた私の心を完全に振り出しに戻し容赦無く深い奈落の底へと突き落とした。
その後、何も考える事が出来ずに私の視界は完全に真っ黒に染まった。
やはりと言ったところか、再び私の舞台は暗転した。
台本も無く、前振りも無く、足音も無く、苦汁を撒き散らしながら近づき、燻っていた希望の光が少し見え始めた途端に私の視界を奪った。
何時間経ったのだろうか、トイレで蹲ったままだったっけ…ガタガタと震える身体、怯えてしまって声も出ない。今回ばかりは暗転だけでなく早く気を失ってくれた方が楽なのに。
『鬼哭啾々』とはこの事を言うのだろうか……。
暗転の中、健太の亡霊か、恨めしそうな泣き声と迫り来る怨嗟に満ちたような恐ろしい気配がする。
もういっそのこと死んでしまおうか?そうすればまた昔みたいに何も気にせず健太と笑い合えるかな?なんて初めて自ら死を考えてしまう程、私の心は狂いそうになっている。まあいいか、此処でずっと独りでいれば……
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
何処からか小さな振動が起こっている。きっと少しずつ、私の心が地震の如く揺れて崩れ去る音だ…。
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
いいや、違う、携帯のバイブだ。トイレに駆け込んだ時に落としてしまったのだろうか、少し離れた床の方から鳴っている。あの振動の長さは電話だ、誰だろう?深月ちゃんかな…?床に這いつくばったままバイブの鳴る方へ行き、手探りで携帯を手に取ることができた。だけど暗転して画面が見れず電話に出ることが出来ない。今この状態で一番声が聞きたくて一番会いたい人からの着信なのに、暗転して何も出来ない。その後何度かバイブの音だけが小さく鳴る静かで真っ黒な夜を過ごす。
「オマエハヒトゴロシ」
「マヌケナハンザイシャ」
「エイエンノハンザイシャ」
「モラルモナイタダノハンザイシャ」
「シシテシヲシレ」
「ヌカルミノセカイヘヨウコソ」
薄暗い闇の中、痛々しい怨念の声。それは報復を正当化するかのように聞こえる忌わしい声。あたかも私が健太を殺したかのように聞こえるのは何故だろう。そして徐々に自分の首が何者かの手によって絞め付けられていく感覚。私は亡霊に呆気なく殺されてしまうのか?舞台の明かりが再び灯る事も無く、暗転したまま誰かに気付かれる事も無く、看取られる事も無く、孤独の中で静かに殺される……あれ……?だけど一体なんだろうこの感触は。何かを包んでいる自分の両手……いいや違う、私が誰かに殺されるのではなく、私が誰かを殺そうとしている……?
少しずつ暗転が薄くなり、僅かながら戻る視界。瞳に映るのはなんとも悍ましい光景だった。
私が彼女を殺そうとしていた・・・。
違う、駄目だ、彼女を殺してはいけない、彼女は私の大切な人なんだ。これから先も共に生き幸せを分かち合い、生きる意味を、生きる価値を見出してくれる唯一の大切な人なんだ……。
そう叫んでも叫んでも、思考とは反してどんどんと強くなっていく彼女の首を絞める力。声にならない声を絞り出し、苦しみ悶える、今にも息の根が止まりそうな彼女の顔と僅かに耳を劈く、聞くに耐えない恐ろしい断末魔。
ダメだ、もう死んでしまう……。
どうしてこうなった?この人と手を取り合い、共に幸せに手を伸ばすのではなかったのか?何故自らの手で彼女の呼吸を止めようとしているのだろうか…きっとこれは夢だ、悪夢だ。嫌だ。嫌だ。私は悪くない。悪いのはきっとこの傲慢な世の中だ……。
ちょっと待て、さっきの痛々しい怨念の声が再び頭の中で重複している。
オマエ…
マヌケ…
エイエン…
モラルモナイ…
シシテシヲ…
ヌカルミ…
オ、マ、エ、モ、シ、ヌ?
そうか、この『幡西鷹斗』という名の舞台の結末、それは結局、次々に訪れる絶望と暗転現象に耐えきれず、夢を約束した彼女を自らの手で殺してしまい私も自ら死ぬというオチか。夢は夢でしかなかった。運命に抗うことを、幸せを望む事を神は許してはくれなかった。幸せを欲しがってはいけなかった。別に多くを望んではいないはずなのに。
嗚呼神様、運命とは一体何なのでしょうか……あれ?また目の前が黒色に染まっていく。更なる暗転か。もうこの心臓をどうか止めてください神様。
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
もう私は死んでしまったのか?死んでも尚、携帯のバイブが鳴っている気がする。最後に一度だけでもあの温かく心地良い声を聞きたかったと、余程彼女が名残惜しいのだろう。それもそうか、川北深月という人間は、私が唯一心を許して心から好きになった人。初めて自分よりも誰かを幸せにしたいと思えた人だった。まだ途中だった彼女の絵もあったのに。せめて描き終えて彼女に渡してから死にたかった……。
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
ゆっくりと蘇る視界、割れそうな程の頭痛と全身を襲う鈍痛に眉を顰める。
薄い膜が張っているようだが暗転ではない、見覚えのあるトイレ、半開きの扉、廊下、部屋、空間、蛍光灯の色、芳香剤の匂い、着ている服、自分……。死んでいない、不快で深い夢だったんだ。
「ンンーーーン…ンンーーーン…」
「そうだ電話……」
バイブが鳴り続けている事にようやく気付き、すぐに手に取り画面を見る事もなく通話ボタンを押した。
「もしもし?深月ちゃん?」
だが、返ってきた声は思っていた声では無かった。
「もしもし?幡西鷹斗さんの携帯電話でお間違い無いですか?」
「え……はい…どちら様ですか?」
「はじめまして。わたくし京都久御川警察、刑事部捜査一課の長谷川と申します。お忙しいところ何度も電話してしまって申し訳ありません。今少しだけお時間いただけないでしょうか?」
「はい……?刑事さんが私に何の用ですか?」
「実は京都で起きた連続殺人事件の事で少しお話を聞きたいのです。もちろん犯人は既に捕まっていますし、幡西さんを疑っているなんてことは全くありません。そこだけはご理解ご安心ください。むしろ私達の捜索に協力してもらえないかというお願いでして」
「捜索の協力といっても、もう犯人は逮捕されたのではないのですか?」
「はい、そうなのです。捕まってはいるのですが、容疑を否認し続けていて我々には少し理解し難い供述もしていまして…。それらの解決が未だ出来ていないのです。そこで幡西さんにお聞きしたいことがありまして」
「なるほど、少し話が見えてきたような気がします。それで、そちらに伺った方が良いという事ですか?」
「ありがとうございます。お手を煩わすのも申し訳ないのでこちらから伺いましょうか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。昨日まで体調を崩していて、念の為に今日も仕事を休もうと思っていたので。会社に欠勤連絡を入れてからそちらの方に伺います」
「体調が優れないのに電話してしまい申し訳ありません、本当にありがとうございます。ご協力感謝します。では本日京都久御川警察署でお待ちしております。何時でも構いませんので、入ってすぐに誰かに声をかけていただいて、長谷川に呼ばれた旨を伝えてもらえればすぐに私が向かいますので」
「承知しました、では失礼します」
鳴り続けていた電話が勝手に彼女からの着信だと思い込んでいた為に気分が完全に沈みきってしまった。だがあの悪夢の様な暗転から覚めて安心したのか、頭痛は少しずつ和らいでいる。刑事さんは何故私の電話番号を知っているのだろうか?会社に欠勤連絡をして警察署に向かった。
「すみません、先程長谷川さんという刑事部の方から連絡がありまして、こちらに来ることになった幡西と申します」
「はいはい幡西さんですね、遠くまで御足労おかけして申し訳ありません。すぐに長谷川を呼びますので座ってお待ちください」
まさか自分が殺人事件のことで警察署に呼ばれるなんて思ってもいなかったが、まずは一晩で暗転が落ち着いてくれて本当に良かった。いいや、そんなことよりもあの悪夢…何故か私は彼女を殺そうとしていた。どうしてあの様な不吉な夢を…
「幡西さんですか?」
「あ、はい、幡西鷹斗です」
「どうもはじめまして長谷川です。体調の方は大丈夫ですか?急に呼んでしまって本当にすみません。ご協力頂きありがとうございます」
「大丈夫です。それで、捜査の協力というのは?」
「此処で立ったままでは申し訳ないので上の部屋でお話させていただいてもよろしいですか?」
「はい、わかりました」
長谷川さんの後を付いて階段を登り、何らかの資料だろうか、ファイルなどが本棚いっぱいに並べられた部屋に招かれる。取り調べ室ではないようだ。
「すみませんね、散らかった所ですけどまあ楽に座ってください。幡西さんコーヒーいかがなさいます?」
「ありがとうございます。ブラックでお願いします」
ささっと机の上を綺麗に片付けコーヒーを用意する刑事の長谷川さんは私より一周りくらい歳上だろうか、見た感じ少しふくよかで、電話で聞いた声の印象通りのとても物腰柔らかそうな人だ。
「幡西さん、さっそくなのですが今年の三月に起こった京都みやこ本線淀野駅の多目的トイレにて女性の死体が発見された事件、それから先週の、同じく京都府久御川町の河川敷で起こった殺人および死体遺棄事件はご存知ですか?」
「はい。どちらもニュースで観ました」
「ニュースを観たのでしたら、この二つの事件が同一犯ということもご存知ですかね?」
「はい、露崎裕壱……ですよね?」
「すごい、名前まで覚えていらしたのですね。実はですね、今回幡西さんにお聞きしたい事がいくつかありまして、答えられる範囲で構いませんので。まずは何故私が幡西さんの電話番号を知っているのか、という点について先に説明させていただきますね。今回の二つの事件の容疑者、露崎裕壱の…」
「知ってますよ。多目的トイレの事件の時、確かに意識はあるのに視界だけが真っ黒だった。死体で発見された女性とは面識があり、何らかのトラブルで恨みはあったものの殺してはいない。そもそも視界が真っ黒の状態で人を殺すことなど出来やしない。そう供述しているんですよね」
「……すごいですね、全て完璧に合っています。では私が幡西さんの電話番号を知っている理由も、もう説明の必要は無さそうですかね?」
「…そうですね、その露崎裕壱の供述にあるような症状の病気が本当に存在するのか、どれだけ調べても分からず捜索の中で色々な医師に話を聞こうと、いくつも病院をまわっていて伊無瀬病院に辿り着いた。そして心療内科の平田先生に話を聞いたところ、以前にも同じような事を言っていたパニック障害の患者がいたという事が分かり、その患者、つまり僕の連絡先等を伊無瀬病院から教えてもらって今に至る…。合っていますか?」
「お見事です、幡西さんは勘が鋭いのですね。申し訳ありません、勝手に電話番号を聞いてしまって…。どうしても幡西さんのお話をお聞きしたくて」
「いいえ、大丈夫ですよ。京都の多目的トイレで女性の死体が発見された事件、僕がニュースで観たのは伊無瀬病院のベッドの上だったので。その時、犯人の供述を聞いて衝撃を受けました。どこか他人事では無いような気がして…。長谷川さんは露崎裕壱が言うような症状や現象は全くの虚言だと思っていますか?」
「はい、ずっとそう思っていました。取り調べを始めた時、露崎はとんでもない虚言癖なのだと思い込んでいました。ですが取り調べをしていくにつれて、露崎が一貫して言い続ける〝意識はあるのに視界だけが真っ黒で見えなかった〟という発言の時の表情は真剣そのもの。訴えかけるような、信じてもらえずに悲しんでいるような表情をずっと浮かべていました。それで段々と嘘には聞こえなくなってきまして…。そう、もちろん露崎の精神鑑定も行いましたよ。統合失調症、自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群、それらの二次障害になり得る、強迫性障害、鬱。精神鑑定の結果は、そのどれにも該当しませんでした。つまり露崎は正真正銘、正気でその現象を訴えかけているというわけです」
「そうだったんですか…」
「幡西さん、今現在、露崎裕壱は殺人犯です。ですが今話した通り、私はただの精神病患者とも虚言者とも思っていません。いや、思いたくないのかもしれません。二人の人間が殺され亡くなってしまった事実、そして露崎の嘘とは思えない供述との辻褄を合わせて、初めて解決だと思っています。なので幡西さんの身に起こったことやその時の特徴、性質、どんな事でも構いません、どうか教えてほしいのです。苦しい思いをさせてしまうことは承知の上です、本当に少しの事でも構いません。お忙しいところ急に呼び出したと思えばこの様な勝手な事を言って本当にすみません……」
難しい言葉や病名が続き、軽く頭がパンクしそうにはなったものの、長谷川さんは至って真剣そのもの。そして何より暗転現象を経験した事の無い人で、真剣に話を聞いてくれて理解しようとしてくれる人は、後にも先にも北條先生しかいないと思っていた。だが長谷川さんも私と露崎が言い続ける信じ難い現象を頭ごなしに否定せず、本気で向き合おうとしているのが分かる。この人なら自分の事を、思っている事を、暗転症候群という病の事を、包み隠さず話しても大丈夫だろうと思えた。
「長谷川さんが聞きたい事を何でも聞いてください。うまく答えられるかは別として、どんな事でも包み隠さず話すつもりなので何なりと」
「ご協力感謝いたします。ではまず、幡西さんは露崎の供述は本当だとお考えですか?」
「そうですね…まず僕自身が経験して戸惑っていた現象と全く同じ事を言っているので、僕としては初めて聞いた時に嘘だとは思えませんでした」
「なるほど。その、視界が真っ黒になってしまった時はその他の感覚は完璧に残っているのですか?」
「残っています。意識はしっかりとあるので心の中でパニックになりますし、手を動かす事も出来ます。ですが視界が黒く染まっているので何に触れたのかは分からない、その後気づけば気を失ってしまった…という感じですかね」
「そうですか…露崎は多目的トイレの事件の時に何故その場に居たのかすら思い出せないと言っているのですが、その点はどう思いますか?」
「んー…確かに、僕も視界が真っ黒になって身動きが取れなくなった時、誰かが救急車を呼んでくれたみたいなのですが、救急車に乗ったという記憶は今も全く無いのです。気が付いたら病室に居て、病室を見渡して初めて自分が病院に運ばれたのだと理解しました。その認識をするまではどうやって病院まで来たのか、どうして自分がその場所に居るのか、何故か全然思い出せなかったですね。幸い、その時に多目的トイレのニュースを観て露崎の供述を耳にしてから、視界が黒くなるまでの自分がどうだったのか、というところを少しずつですが思い出す事が出来たという感じでした」
「聞いているだけで苦しくなりますね…。では露崎が言う『自分は殺していない』と言っている点はどう思われますか?逮捕に至ったのは駅の防犯カメラに露崎と殺された女性が一緒に歩いている姿が映っていた、そして女性の衣類と所持品から露崎の指紋が検出されたというのが決め手だったのですが」
「そうですね…例えばですけど、露崎が本当に視界が黒く染まっていて周囲が見えなかったのなら〝意識が朦朧としている間に気付かず誰かに犯行現場へと移動させられていた〟なんて憶測も出来ますし、あり得ない話では無いのかなと…それと〝女性に危害を加えていなくても誰かが露崎の手に女性の衣類や所持品を触れさせる事で露崎の指紋が付いてしまった〟という事も考えられない話では無いと思います。まあもちろん可能性の話ですけど…ちなみに女性の死因って何だったんですか?」
「なるほど…。もちろん私は幡西さんが適当な事を言っているとはとても思えませんので、しっかりその線での捜索も続けていこうと思います。女性の死因についてですが、司法解剖の結果は急性砒素中毒だったそうです。毒殺ということになりますね…。被害者女性からは争った形跡も、暴行を加えられた形跡もありませんでしたので。ただ被害者女性に重い持病があったのではないか?という見解も出てきておりまして。幡西さん、苦痛を思い出させる様な事を色々と聞いてしまって本当にすみません。今日のところはこれくらいにしておきましょうか?幡西さんの体調も心配ですし」
「いいえ、僕に出来ることがあれば。また何かあればいつでも聞いてください」
「はい。本当にご協力感謝いたします。また連絡するかも知れませんが、幡西さんのご都合がいい時で全然構いませんので。その時はどうかよろしくお願い致します」
三十分程で話を終えて警察署を出た。この二つの事件には何か目に見えない、とても深い所に真相が埋もれているのかも知れない。ただ私は刑事でも無ければ事件に関わっているわけでも無い。また長谷川さんから連絡があれば協力しよう、そのくらいの気持ちで家に帰った。
健太のニュースを観てからまだ一日しか経っていないというのに、遠い昔のように感じるのは何故だろう。仕事を始めてからは疎遠になっていたが、思い返すと健太には助けられてばかりだった。今になって健太が殺されてしまいもう二度と会えなくなってしまったという実感が湧き、底知れない悲しみが全身を覆う。
そして、どうしても頭から離れない前日の暗転、その時に私を襲った亡霊の怨嗟と残酷な悪夢の意味…。
交錯し合う苦々しい出来事で気持ちの整理が中々つかない。その後、彼女と連絡を取ることも無く、北條診療内科へも三週間行くことが出来なかった。
だがその三週間、彼女や風景の絵を描くことは欠かさなかった。前向きな絵を描くことで気持ちの整理をしようと、少し前にみた夢のような夢を、彼女との生活を想像して描き続けた。すると、何故か黒のインクでしか描けなかった絵に変化がでてきた。彼女の背景、木々が生い茂る自然を、気付けば緑色のインクで描けるようになっていた。たった一色、されど一色。綺麗な緑は自分の心にも安らぎをくれた。このまま少しずつ彩りを増やせていけるかもしれない。
彼女のように、また暗転が起きても、辛い事があっても、その都度這い上がってみせる。絵と共に心を整理する三週間は無駄では無かったと感じ、また次の休日から北條診療内科へ行こうと思えるようになっていった。そして今となっては、健太の本当の気持ちを知る事は出来なくなった。私を嘲笑していたのは事実なのかもしれない。だけど私を絶望の淵から救ってくれたのも紛れも無い事実。邪念は捨てて感謝は忘れずに〝天国でゆっくり過ごせるように〟と、ようやく空に向かって祈りを捧げる事が出来た。