⑤ ◇連鎖◇ 下
梅雨が明け、気付けば本格的に夏を告げるかのように蝉達が大きな鳴き声を世に放ち始めていた頃、それは夏特有の急なゲリラ豪雨を降らす雲の様な、新たな苦しみの雨雲が浮遊し始めていた。
彼女が今年に入って二度目の暗転現象に襲われたのだ。
先週、先々週と彼女は北條診療内科に顔を出さなかった。その期間私の方からメールをしても返信が無く、もしやまた暗転が起こったのか?と思ってはいたのだが、昨夜に先生から電話で知らせがあった。少し前にまた暗転現象が起きてしまい、昨日はいつも彼女が通院する水曜日では無かったが急に北條診療内科に顔を出したらしく、やはり前回の暗転現象後同様、いつもの明るく強く優しい笑顔の彼女では無かったそうだ。
今年に入って久しぶりの暗転現象からなんとか立ち直ったばかり。それからまだ全然時間が経っていない…彼女に一体何が起こったのだろうか?私は心配で胸が張り裂けそうになっていた。
メールを送るか、電話をかけるか相当に悩んだ挙句、私が次に北條診療内科へ行く水曜日、その時に会えなければ連絡をしてみよう…そう思い彼女の状態を知りたい気持ち、そして何より声を聞きたい気持ちを抑えてその日まで待つ事にした。
三日後の水曜日、いつもより早く北條診療内科へと向かう。いつも通りのノック、いつも通りのコーヒーの匂い、いつも通りの先生の優しい微笑み。いつも通りの水曜日。彼女だってこの様な、いつも通りの穏やかな時間を過ごしたいだけなんだ。私も彼女も多くを望んでいないはずなのに、どうしてここまで追い詰められなければいけないのか…彼女の居ない、そして来るかもわからないそんな院内を見て涙を溜める。
「幡西君おはようさん。今日も早いねえ、深月ちゃんまだ来てないのよ、今日も来てくれるといいんやけどね」
「先生おはようございます。昨日の深月ちゃんの様子はどうでしたか?短い期間で二度目の暗転現象…かなり憔悴してたんじゃないですか?」
「うん…前よりも少し痩せたというか、窶れたというか…何せ、またご飯も食べられていないだろうからね」
「そうですか…今回の暗転現象の原因はまだ何も聞いていませんか?」
「うん、それが僕にも分からないのよ。できればまた幡西君に話聞いて欲しいだろうね」
「そうですね…彼女の気持ちが整理出来るまでいつまでも待とうと思います。あの先生…次は僕がキッチン使ってもいいですか?この前のお礼に何か作って待ってみようかと…もしかしたらまた此処だったらご飯食べられるかも知れないと思って…」
「もちろん使ってくれて構わないよ、きっと喜んでくれる。買い出しは行けそうかい?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。では早速買い出しに行ってきます」
「うん。気を付けてね」
彼女が此処へ来るかは分からないが、自分が今出来る最大限のことをしたかった。とは言え料理…息巻いて買い出しに出たのだが何を作ればいいのだろうか、一人暮らしの為簡単な自炊はしてきたのだが、自分が食べるものを自分の為に作ってきただけで味も見栄えも気にした事が無い。ましてや人に食べてもらった事なんて一度も無いしこれから先も無いと思っていた。頭を悩ませながらスーパーに入り、とりあえず店内を一周する。結局自分では何を作ればいいのか思い付かず、この間彼女が作ってくれたものを作ろうと、食材を選び買い物を済ませ北條診療内科へと戻った。時刻は午前十時過ぎ。やはり彼女はまだ来ていない。そもそも来るか分からないが、来てくれた時に少しでも笑顔になってほしいと思いながら入念に手を洗い支度を始める。彼女が作ってくれたものを真似て、スクランブルエッグとサラダ、ウインナーとほうれん草のソテー。もちろん彼女が作ってくれたものより見栄えも悪く、味の保証も出来ない。だが食べてくれなくても全然構わない。彼女の心が少しでも晴れてくれればそれだけでいい。そんな気持ちで皿に盛り付けた後ラップをし、冷蔵庫へと保管する。パンは焼かずに置いて、夕方までは待ってみようとソファに座り先生と話をしながら時間を潰す。数時間が経ち、昼を過ぎたが彼女はまだ来ない。きっと彼女の心はまだまだ苦しく不安定なはず、気長に待とう。そしてメールだけでも送ろうと携帯電話を取り出し文を打ち始めた時だった。
コンコンコン・・・コンコンコンコン。
入り口の方から弱く小さなノックが数回鳴り、机でパソコンと向き合い業務をしていた先生と目を合わせる。
「深月ちゃんかな?」
同時に二人の声が揃う。扉が開く音を聞き私と先生は立ち上がり入り口へと向かった。
「深月ちゃん…」
「おはよう…」
何とか聞き取れるくらいの弱りきった声。立て続けに起こった暗転現象の苦しみを物語るような虚ろな瞳に蒼白く窶れた顔。いつも綺麗に梳かしている髪の毛も乱れてしまっている…。そして彼女は私達を見て無理に笑って口を開いた。
「鷹斗、連絡くれてたのに返事出来なくてごめんね。短期間で二度も暗転するとさすがに参っちゃうね…メールはしっかりと見てたんだよ。ありがとう、本当に嬉しかった」
ここまで苦しんでいるのにまだ私を気遣い、心配かけないようにと無理に笑顔を作ってくれている彼女のどこまでも周囲への配慮を忘れない姿に胸が締め付けられてしまう。
「ううん、謝らないで。とりあえず中へ入ろう?ソファに座って一緒にコーヒー飲もう」
「うん…」
ソファに腰掛けて俯く彼女、余程眠れない日々が続いたのだろう、目の下には大きな隈ができている。
「…深月ちゃん、ずっと寝れてないでしょ?少しだけでも横になる?」
「うん、少し横になろうかな…」
彼女はそう言って、座った姿勢のまま横に倒れ込み目を閉じると、安心出来たのかすっと眠りについた。此処へ来て、良い意味で少し気が抜けたのだろう。そんな姿を、憔悴しきっている彼女を見て、私は気付けば下唇を噛み、掌に爪の跡が残る程拳を握りしめていた。
世の中は不平等で不条理
悪戯に人を弄ぶ悪夢
満ち溢れる怒りと悲しみに震えながら
誰かが言った言葉を思い出す
―――――――――――――――
苦しみから抜け出す方法はただ一つ
他者を喜ばせること。
―――――――――――――――
私もその通りだと思っていた。
そして彼女もその通りだと思っていたはず。
そうであるべきだと思い、
私達は支え合い踏ん張ってきた。
だが偉人が世に残した言葉すら
我々の運命には抗えないのか?
怒りは憎しみを産み
憎しみは孤独を産む
孤独は絶望を呼び起こし
絶望は悲劇を産み落とす
一つ乗り越えれば
また新しい苦しみの連鎖
やはり私達は
誰も、何も信じてはいけないのか?
どうして笑って生きることすら許されないのか?
彼女が目を閉じてから二時間程が経過した。ここ数日殆ど寝れていなかったのだろう…ぐっすりと眠っているみたいで少し安心した。
すると先生が
「今のうちに食事の準備しておいてみたらどうだろう?深月ちゃん、眠ったら少し気持ちが落ち着くかもしれないよ?」
そう言って私に微笑む。
「そうですね、静かに用意しながら目覚めるのを待ってみます」
そう応え早速準備に取り掛かる。
もう一度入念に手を洗い、一通りレンジで温め終え、トースターで焼いているパンの加減もあと少し待てば程良いところまできている。あとはテーブルを綺麗に拭いて箸やフォーク等を並べるだけ。だがその時にうっかりフォークを床に落としてしまった…
ふと見ると、やはりその音で彼女が目を覚ましてしまっていた。しまった…私が寝た方がいいと言ったのに、私が睡眠を邪魔してどうする。その時ばかりは心底自分自身を忌み嫌った。起こしてしまった彼女と目が合うと、彼女は横になったまま顔だけを少しあげて私をキョトンと見つめる。
「…何やってるの?」
「…本当にごめん、起こしちゃった」
申し訳無さそうにしている私を見て彼女は首を横に振って微笑み返してくれた。
「全然大丈夫だよ。気遣ってくれてありがとうね。久しぶりに深く眠れた気がするし、目が覚めて初めに鷹斗の顔見れて安心しちゃったよ」
そう言って両手を上に突き上げ欠伸をしながら起き上がる彼女。硬っていた表情が少しだけ緩んだのを見てホッと胸を撫で下ろす。そしてテーブルに並べられた、お世辞にも綺麗とは言えない料理と、タイミングよく「チン」と鳴るトースター、香ばしいパンの匂いに彼女が気付き、私を見つめる。
「これって…」
「うん。きっとまた何日もまともに食事出来ていないだろうと思って。もしかしたら此処でなら少しでも食べれるかなって…この前深月ちゃんが作ってくれたものを全部真似ただけで味の保証も全く無いし、むしろ勝手に作っちゃっただけだから無理して食べなくていいからね?僕がお腹空いてたというか…」
「……」
何故か軽いパニックを起こし、変に下手な言い訳をしてしまう私の横で、見栄えの悪い料理を見つめて黙り込んでしまう彼女。
「ごめん、見栄え良く作れなかった。ほんとに無理して食べなくていいから…深月ちゃん?」
彼女の顔をそっと覗き込むと、少し顔を背けて溢れそうな涙を見られないようにしている。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ…っていうかこの前あたしが作ったものばっかりじゃん」
濡れた目尻を誤魔化し隠すように微笑む彼女に、私と先生は目を合わせて笑った。
「一口だけでも食べれそう?」
無理をさせまいと気遣う私に、彼女は口を開く。
「うん。ありがとう、食べてみようかな。言っておくけど、あたし味にはうるさいからね」
いつもの照れ隠しの様な言葉と、久しぶりに見た彼女の笑みに私は嬉しくなり、最後にサラダと焼けたばかりのトースト、バターとジャムをテーブルに並べた。
「いただきます」
彼女は静かに口に運ぶ。
その後何も言わずに黙々と食べてくれていた。私も、彼女を伺いながら向かいに座り食事をする。どうも自分で作ったものは味気なく感じてしまい、彼女の口に合わないのではないかと不安に思っていたのだか、その心配をよそに彼女はゆっくりと食べ続けて完食してくれた。
「無理してない?誰かに作る事なんて無かったからどうかと思ったけど…食べてくれてありがとう」
「ごちそうさま。美味しかったよ。今度は一緒に作って食べよっか。こんな事までして元気付けてくれる鷹斗が傍に居るんだからあたしも負けてばかりじゃいられないね、ほんとにありがとね。もう大丈夫だから」
「どういたしまして。だけど無理は絶対にダメだよ?手が震えてるじゃん…これも、この前のお返し」
そう言って彼女の隣に座り、彼女の震えている手を両手でしっかりと包み込んだ。
「もう…泣かさないでよ」
此処へ来ても尚、私と先生に心配かけまいとずっと堪えていた涙。彼女は心を解放し、包み込んでいる私の両手に額を付け、大粒の涙を流した。
「どんな辛い事があったのか聞かせてくれないかな?約束したから。深月ちゃんの痛みを共有させて欲しいって前に言ったでしょ?ゆっくりでいいから教えて?」
彼女は無言で頷き、一度深呼吸をした。
「お父さん…死んじゃった……」
今までに無い震えた声で、見たことも無い程に取り乱し、彼女は泣き狂った。
想像以上の言葉に私も先生も言葉を失う。私は自分の事のように絶望を全身で感じ、泣きながら左手を彼女の手に添え、右手で背中をゆっくりとさすり続ける事しかできなかった…。
それから何分経っただろうか。その後少し落ち着いた彼女は、父親が亡くなってしまった原因と訳を余す事なく教えてくれた。そして泣き疲れたのだろう、私の膝を枕代わりにしてまた深く眠ってしまった。
私は目を腫らしながら、鼻を啜りながら彼女の頭を撫でた。
あまりにも残酷な父親の死。
彼女をここまで苦しめる二度目の暗転現象の訳は想像を絶するものであり、後退りしてしまう程の内容だった…。