表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/19

③ ◇混沌◇

 あれから一ヵ月が経ち、北條診療内科には先生と彼女に会う為、そして暗転現象が抑えられるようにと、週に一度は通っている。幸いにも私が今働いている職場はシフト制。通院治療が水曜日になったと言って休みにしてもらっている状態だ。仕事は相変わらず、特に仲間意識も持たず周囲の人間とは業務上の会話以外はシャットダウンする日々。このままでは何も変わらない事、自分の殻を破れない事は分かってはいるが、中々心を開けないのが現状。だが北條診療内科へ行ったあの日以降は少し視界に霧がかる事はあるものの違和感といった程度で、動けなくなる程の暗転は影を潜めていた。

 しかし、幼馴染の大きすぎる裏切りは常に脳裏によぎりモヤモヤしたまま。彼の本当の気持ちはどうなのだろうか。本心なのか、何かそう言わざるを得ない理由があったのではないかと、不思議なものでこんな時でも人間は自分の都合の良い様に解釈しようとする。

 私が病院に運ばれた頃ニュースで日々報道していた、京都の小さな駅の多目的トイレにて女の死体が発見されたという事件も日に日に報道は薄くなっていき世間からは忘れられそうになっているが、犯人、露崎裕壱の供述の真相や、彼がその後どうなっているのかが気になりその件でもモヤモヤが加速する。そして悪夢の様にフラッシュバックする暗転現象。そもそも暗転症候群に終わりは来るのだろうか、色々な負の感情は混沌を産み明日を遮ろうとする。それらを振り払うかの様に北條先生や彼女の言葉を思い出し、気を強く持てと自身を奮い立たせるのがやっと。

 そしてある水曜日の事だった。いつも通り北條診療内科に行くと、先に来ていた彼女がソファに座っていたのだが様子がおかしい。いつもの明るい雰囲気はこれっぽっちも無く、あの眩しい笑顔も影を潜めている。先生が出してくれている煎れたてのコーヒーにも全く手をつけておらず、両手で顔を覆い机に肘を付いたまま動かずにいる。

 すると診察室のカーテンが開き「おはようさん幡西君、具合はどう?ちょいと深月ちゃんの横に座ってあげてくれないか」と、先生のいつもの優しい喋り方と笑顔。だが目の奥が笑っていない事にすぐに気付いた。

 

「おはようございます。深月ちゃん、大丈夫?何かあったの?」

 

 状況を把握しようと彼女の横に腰掛けた。

 

「深月ちゃん、昨日数ヶ月ぶりに暗転現象が起こったみたいやね。久しぶりやのに暗転が解けるまで結構な時間がかかったみたいで、ずっと独りで家から出られなかったそうなのよ…」

 

 先生が代わりに今の状況を説明しながら、私にコーヒーを差し出しソファに座った。

 

「数ヶ月ぶりだからか、ダメージが大きいみたいなのよ。幡西君はどう?変わりなく過ごせてるかな?」

 

「はい。僕は視界が軽く霞む程度が数回で今のところは落ち着いています。それより深月ちゃんが心配ですね」

 

 自分が発した言葉に自分が驚いた。ここ数ヶ月、周りを見る事が出来ず自分の身に起きている事しか考えられていなかった。むしろ他人を拒絶する癖ができていた為に他人の事を気にかけるつもりなんて甚だ無かった。それなのに今、目の前の彼女を心から心配する事が出来ている。先生が言っていた〝同志が居れば何か変わるかも知れない〟というのはこういう事なのかと胸が熱くなった。

 依然としてソファに座り、俯いたままの彼女はずっと小刻みに震えている。過去を思い出し怒りに震えているのか、久しぶりの暗転現象による恐怖が身体を震えさせているのか、初めて見る彼女の弱りきった姿。居ても立っても居られず私は周囲を見渡し、ソファの端に畳まれていたブランケットを手に取り、広げてそっと彼女の肩に掛けた。

 そして立ち上がり先生を診察室の方まで呼び「先生今日は帰ります。深月ちゃん、きっと今は一人の方が気持ちの整理もつくと思うし、僕も暗転現象が解けた後暫くは人と接したくなかったので。それに先生と二人の方が話し易い事もあると思うから。何か聞かれたら野暮用を思い出したとでも言っておいてください」と、彼女に聞こえない様に小さな声で先生に伝えた。

 

 すると先生は微笑みながら「たったひと月程しか経っていないのにすごい変化やね!嬉しい限りや。その想いやりは深月ちゃんにきっと伝わっているよ」と、負けじと小さな声で返し、私の背中をポンと叩いた。私は少し照れながらも「また来週お願いします」そう言って部屋をあとにした。

 

 家に帰るまでの時間は何故かいつもより長く広く感じた。遥か昔に投げ捨てた人を想い慈しむ感情と、穢い言葉を見つけては具現化する人を拒絶し絶望する感情が左心房を揺さぶり、また新たな混沌を産む。殺伐とした帰り道の中、どちらが尊く、儚く、重たいものなのか。それを手探るように、思い出すように、ふわりと浮遊しているみたいだった。

 家に着き、朝から何も食べていない事に気づいて軽く食事をとったのだが、その時でさえ〝深月ちゃんは何も食べていないのではないか〟と彼女の事を心配する自分がいる。間違い無く以前とは違い、何か気持ちに変化が出ている。このまま先生、そして彼女と共にいれば孰れ暗転現象に終わりを告げられるのではないか?そんな根拠の無い一筋の光を想像してしまう程気持ちが前に、まだ見ぬ未来に進んでいるみたいだ。

 

 それから、彼女への心配が先行したまま翌週の水曜日の朝を迎える。たった一週間がこれ程長く感じる事は無かった。仕事の時も食事中も、寝る時でさえ彼女の弱りきった姿が鮮明に浮かび私の胸を締め付けていた。彼女への気持ちが前のめりになりいつもより少し早く北條診療内科へと向かった。

 

「おはようさん幡西君、今日は一段と早いね、さあさ入りなさい」

 

「おはようございます。深月ちゃんが気になってしまっていつもより早く来てしまいました…あれから深月ちゃんは来てないですか?」

 

「うん、あれからは来てないよ。連絡も無くて心配してるのよ」

 

「そうですか、心配ですね…深月ちゃん今日は来ますかね?」

 

「どうやろねえ…あ、そうや、僕の連絡先を幡西君にも教えておこうかな?それとついでに深月ちゃんの番号とアドレスも教えるから、どうしても心配なら一回連絡してみたらどう?」

 

 先生はニコッと笑い徐に携帯電話を取り出した。

 

「ありがとうございます。だけど深月ちゃん、僕に連絡先知られたく無いとか思っていませんかね…」

 

 こういった連絡先の交換は全くと言っていい程慣れておらず、また相手が女性ということもあり躊躇ってしまう。そんな私を見て先生はまた微笑んだ。

 

「真面目やね幡西君は。そんな心配は必要無いと思うよ?先週深月ちゃんを気遣ってすぐに帰ったでしょ?深月ちゃんね、あの後もずっとソファから動かず俯いたままやったのよ。やけど一つだけはっきり言葉に出して感情を露わにしとったよ?『鷹斗帰っちゃった?あたし気を遣わせちゃったね、本当はあたしがあの子の話聞いたり笑顔を見せてあげたりしないといけないのに、後ろ向きな気持ちにさせたね、申し訳ない事しちゃった。まさかこのタイミングで暗転すると思わなくて…久しぶりに誰かに頼りたいって気持ちになっちゃった。こんなことなら鷹斗に電話番号かアドレスでもいいから聞いておけばよかった…この痛みを理解してくれる人なんて今まで居なかったし今後もずっと居ないと思ってた。誰かに理解して欲しいとも思ってなかったから鷹斗みたいな子と出会えるのって、やっぱ嬉しくて安心するものだね、先生』ってね」

 

 私は先生の話を聞きながら、彼女を思い浮かべて涙が溢れ落ちた。彼女は幾度となく絶望の淵に立たされても尚、人としての希望を失っていない。出会って間も無いこんな私を気にかけ、手を伸ばし続けてくれる。そして出会った事自体を嬉しいとまで思ってくれていたのだ。溢れるのをやめない頬を伝う涙。その久しぶりすぎる温かい滴を手の甲で拭い、自分の携帯電話を手に取った。

 

「先生、僕も深月ちゃんに連絡してみたいです。返信が無くても。それでも今の気持ちを今のうちに形にして行動に移したいです。こんな気持ちになったのは本当に久しぶりなので」

 

「うん、それがいいと思うよ。二人にとって今までに無いプラスの出会いだと思うからね。勿論僕もそう思っている。もはや医師の僕では治す事が出来ないものまで治せるかもしれない、それ程の可能性を二人は秘めている。今一度礼を言うよ幡西君、此処へ来てくれて本当にありがとうね」

 

 先生の今まで以上に顔をくしゃっとさせた笑顔と言葉に、また頬を濡らしてしまう。

 

「とりあえず座りなさい。コーヒーはいつものブラックでいいかな?」

 

「はい、ブラックでお願いします」

 

 もう一度頬を伝っている滴を拭い鼻を啜る。笑顔に似合う涙なんてあったのか…喜びの涙に感動すら覚えてコーヒーを口にした。しかし喜びの涙も束の間、あっという間に時間が経ち、窓の外は陽が沈み夕闇になっていた。結局、この日も彼女は北條診療内科に姿を見せることはなかった…。

 

 その夜、先生に教えてもらった彼女のアドレスを入力し、メールを送ろうと文章を打ったり消したりしながら携帯の画面と睨めっこをしていた。心配するのは勿論大切な事。しかし滅多矢鱈に励ましたりするのは良くないと思い、まずは連絡先を先生から教えてもらったという旨を文に纏め、あとは送信するだけのところまで来た。だがその時急に私の携帯電話が鳴った。画面を見た私の胸はすぐに熱くなった。画面にはまさかの〝深月ちゃん〟の文字、なんと今日登録したばかりの彼女からの着信だったのだ。彼女から連絡が来るなど微塵も思っていなかった。まさかの展開に頭が真っ白になりながらも、一度深呼吸をし平然を装って電話に出た。

 

「もしもし、深月ちゃん?」

 

「うん、もしもし…」

 

 未だ弱りきっていて今にも擦り切れそうな微かな声が返ってくる。間違い無く彼女の声だ。私は明るい声で話そうと瞬時に思った。手探りではあるが嬉しさもあり案外すっと会話に入る事が出来た。

 

「鷹斗です。僕も今日先生から深月ちゃんの連絡先を聞いたんだ。それで今ちょうど深月ちゃんにメールを送ろうと思って送信を押そうとしたら電話がきたからびっくりした…連絡が取れて本当によかった」

 

「それ本当?じゃあメール来るまで待ってたらよかった、先に連絡来た方が嬉しかったのに…」

 

 まだ、いつもの明るく強い彼女では無い。だがそう言ってほんの少しだけ笑ってくれた。それだけで胸が熱くなり、嬉しくなった。少しでも、小さくても笑う声が聞けて本当によかったと、何故か目に涙が溜まり言葉に詰まってしまう。

 

「…え?泣いてるの?ちょっと、どうして鷹斗が泣いているのよ」

 

 照れ隠しするように、だけど少し嬉しそうに彼女は言う。

 

「いやその…声が聞けたから少し安心して。ごはん食べれてないんじゃない?」

 

「うん、なんか食べる気にならなくて」

 

「やっぱり…僕も暗転現象が起きた直後は何も口に出来なかったから。ちゃんと食べないとダメだって言いたいけど気持ちがわかるからさ…」

 

 そう言葉にすると少しの沈黙が広がる。だがすぐにそれをかき消す様に私は問いかけた。

 

「じゃあさ、無理はせず時間をかけて、少しなら食べれるかもって思えるようになったら僕と一緒にごはん食べない?一口でもいいから」

 

 何故か遠慮も無く咄嗟に出た言葉。それには自分自身が一番驚いた。人を想う事をずっと忘れていた自分、人に裏切られ、人を拒絶する事で新たな傷を増やさない様にしてきた自分にとって、誰かを想い慈しむ事は遥か彼方見えない所まで消えてしまっていた。それなのに今、躊躇う事無く真っ直ぐに彼女に寄り添っている。本当に何かが変わり始めている。だが自分自身の力で変わり始めた訳じゃない。きっと先生、そして彼女が変えてくれているのだ。そう感じた今、彼女に対しての色々な想いが溢れる。そして彼女も鼻をすすりながら、喜んでくれているような泣いているような声で応えてくれた。

 

「ねえ…もしかして今あたしデートに誘われてる?まあ鷹斗なら、この深月お姉さんがデートしてあげてもいいよ?」

 

 またもや照れを隠すように、嬉しそうに、揶揄うように言い返す彼女は、電話を始めた時よりも少し声が明るくなった様に感じて自然と私の顔も綻ぶ。

 

「いや、あの、えっと…そうですね。じゃあデートという事にしましょう。深月ちゃんを食事デートに僕が誘いました。それでいいですか?」

 

「ちょっと何よその言い方、こんな美人とデートできるのよ?もっと喜びなさいよ」

 

「僕は世界一の幸せ者です。これでいいですか?」

 

 彼女に対してふざけてみせたり冗談を言い合ったり、そんな初めての時間は喜び以外の何物でも無く、互いが互いを安心させる、そして安心させてくれる、そんな関係になれそうだと心が喜んだ。

 その後電話は夜中まで続き、まだぎこちないながらも彼女は少しずつ笑う回数が増えて声もよく聞こえるようになった。気付けばもう夜中ニ時を超えており、そろそろ寝ようかと電話を終えようとした時だった。

 

「ねえ鷹斗、本当にありがとう。こんなに楽しかったのも、こんなに嬉しかったのも初めてだよ。鷹斗やるじゃん」

 

 彼女は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた。

 

「とんでもない、僕もこうしてただ楽しく会話できる人が居てくれるだけで本当に救われる。深月ちゃんと出会って前向きな気持ちになれる事が多くなったし、僕の方こそ本当にありがとう。一緒にごはん食べられる日を楽しみにしているね。遅くまでありがとう、来週も絶対に無理せず外に出る時は深月ちゃんのタイミングでね」

 

 私も真っ直ぐな気持ちでそう言い返し電話を切った。彼女と話せた喜びと安心感は急に眠気を呼び寄せ、私は電話を持ったまま眠りについた。

 

 初めて彼女と電話をした日から一週間後の水曜日、この日もまた朝から北條診療内科へと足を運ぶ。あの電話の夜以降、彼女とは特に今日まで電話やメールでのやり取りはしなかった。執拗に連絡をするとかえって彼女に気を遣わせ無理をさせるのではないかと考えたからだ。

とは言え、今日もまだ深月ちゃんは来れそうにないかな…そう考えながらいつもの時間に到着し、いつも通りノックをして扉を開ける。先生の反応は無いが、いつもと変わらない煎れたてのコーヒーの匂いは今日も自分にとって唯一心休まる日になるだろうと思わせてくれる。一度深呼吸をして中へ入ると、いつものコーヒーとは別の何か違う匂いもする。パンを焼いている様な香ばしい芳醇な匂いや何かをバターで焼いているような、そんな匂いもする。そう感じながら「おはようございます」と挨拶をした。すると先生がパッと出てきて「しーっ」と人差し指を口に当て小さな声で私を見る。

 

「え・・っと、おはようございます、先生どうかされましたか?」

 

 つられて私も小声になる。

 先生はニコっと笑い、人差し指を口に当てたまま忍び足で奥へ誘導する。とにかくそれに付いていき奥まで行った所で先生が急に立ち止まった。私は先生の後ろから見えるその光景に驚き、背筋を伸ばし大きく目を見開いた。

 そこにはエプロンを付け、トースターで焼いている食パンの加減を何度もチラチラと伺いながらキッチンに向かい、フライパンで一生懸命何かを作る彼女が居た。先生は後ろを振り返り、小声でそっと状況説明をしてくれた。

 

「幡西君とごはん食べるって張り切ってるのよ。昨日の夜電話が来てね、何かなと思ったら『鷹斗とごはん食べる約束したんだけど外で店に入ってっていうのはまだ出来そうに無いから、ここで朝ごはん食べさせてくれないかな?』ってね。昨日自分で頑張って買い出しもしてきたみたいでね、朝早く食材を持って来たのよ。深月ちゃんの中でも何か大きな変化が起きとるみたいで嬉しい限りやね。まあちょっとの間見守ってあげてよ。あ、そうそう僕は行きつけの喫茶店に朝ごはんを食べに出るから二人は此処で気兼ねなくゆっくり食べるんだよ」

 

 先生はそう私に伝え、二人に対する先生なりの分かり易く優しい心遣いで外へと出ていった。

 驚きで言葉が出なかった。そして愛おしいとまで感じる程彼女への想いが溢れて止まない。今は彼女自身が一番苦しい時期なのに、本来ならば誰とも関わりたくない筈なのに、どうして僕にここまでしてくれるのだろうか…そう思いながら暫く後ろから見ていると、彼女は急に振り向いて私に気が付いた。

 

「あれ?ちょっといつから居たのよびっくりするじゃないの…おはよう」

 

「今着いたばっかりだよ。それよりも具合は?大丈夫なの?」

 

「うん、少し良くなったかな。ごはんも鷹斗となら食べられるかもしれないと思ったから、仕方なく深月お姉さんが鷹斗に誘われていたデートを受けてあげようかと思って。簡単な物だけど今朝ごはんを作っているから座って待ってなさい」

 

 少し照れながら、微笑みながら、彼女はそう言って朝食の支度を再開した。今まで感じた事の無い温かい気持ちが全身を覆い尽くす。あまりの嬉しさを隠し切れず、顔が緩んでしまいながらも言われた通りにソファに座り待つことにする。

 暫く座っていたものの、彼女が無理をしていないか気がかりでソワソワが止まらず立ち上がったり座ったりを繰り返す。数分後、彼女は自身が付けるエプロンで両手を拭き「ごめん待たせちゃったね、鷹斗もしっかり手洗っておいで」そう言いながらソファの前のテーブルの上を綺麗に片付けていく。初めて見る彼女の家庭的な部分に少し見惚れてしまいながらも手を洗いに席を立つ。手を洗い終えソファに戻ると彼女が何回かに分けて作ってくれたものをテーブルに運んでいる。

 テーブルの上に並べられていく、綺麗に二人分に分けられた皿の数々。煎れたてのコーヒー、こんがりと焼き加減が完璧なトースト、その横にはバターとジャムが添えられている。小皿には瑞々しいのが見るだけで分かるレタスやトマト、モッツァレラチーズなどが散りばめられたサラダ、大皿にはバターの香りを効かせたスクランブルエッグとウインナーが二本、そしてほうれん草、ベーコン、コーンを和えたソテーまである。あまりのクオリティの高さと、お世辞抜きにおいしそうな品々に見るだけで幸せな気持ちになる。

 

「簡単なものばかりだけど味は保証するよ、こう見えて結構料理好きなのよ。どうぞ召し上がれ」

 

 そう言って最後に箸とフォークを持ってソファに座り、私の目を見てニコっと笑う彼女。その顔は暗転現象と、そのトラウマを挫けずに断ち切ろうと踏ん張っているような力強い姿に見えた。そんな逞しく温かい微笑みは、美しい以外の何物でも無かった。

 

「深月お姉さん特製の朝ごはん。さあ、冷めないうちに食べようか」

 

「うん、朝早くから支度してくれて本当にありがとう。遠慮なくいただきます」

 

 両手を合わせ有り難くいただく。彼女が作ってくれたものはどれも見た目だけでは無く、本当に美味しくて手が止まらない程。何よりも彼女はまだまだ自分自身が一番辛いはずなのに、こんな私を想い私と食事をする為に自ら買い出しまで行き朝早くから料理を作ってくれた。言葉では言い表せない感謝の気持ちと、改めて自分自身ももっと強く暗転症候群に立ち向かわなければいけないと心から思った。

 そして二人は笑いながら、話しながら、ゆっくりと食べ進める。私は美味しさのあまりあっという間に完食する。少しでも食べれたらいいと思っていた彼女もしっかりと完食していた。少し心配してしまった私は「深月ちゃん大丈夫?無理して食べてない?」と、つい問いかけてしまう。しかし彼女は「ううん、鷹斗と食べるごはんってこんなに美味しいんだね。頑張って作ってよかった。ねえ…この前の電話で一緒に食べようって言ってくれたの、すごい嬉しかったよ。本当にありがとね」そう言って微笑んでくれた。互いを想いやる心だけが成せる優しく温かい空間の中、これから先こんな時間が過ごせるならどれ程幸せだろう…そんな気持ちと同時に、もっと心から寄り添いたい。そんな優しさかエゴなのか自分でも解らない気持ちになり、やはり気になっている所に触れてしまう。

 

「暗転現象が起きてしまったきっかけとかって…心当たりはあるの?思い出させる様な事聞いてごめん」

 

 やはりまだ、今の段階では聞かなければよかったかもしれないと一瞬にして脳全体に後悔が押し寄せる。しかし彼女は嫌な顔をせず真剣に答えてくれた。

 

「この前両親の事話したでしょ?あの後ね、父の面会と母のお見舞いに行ったの。行ったんだけど…二人とももう完全に心が壊れちゃったみたいでさ、父はあたしに『もう来なくていい、父親と思わなくていい、だからもう二度と顔を見せるな』だって。母に関しては病室に入ってきたあたしの顔を見るなりベッドの上から身の回りにあるもの全部投げつけてきて『私の人生を壊したのは父だけでなく家族皆、あんたの顔も見たく無いから今すぐ出ていけ』だってさ…。騒ぎを聞いて駆けつけた看護師さんは精神状態が良くないから気にしないでって慰めてくれたけどね、もうさすがに疲れちゃったよ。頭が空っぽになった。あたしなりに二人が元の姿に戻れるように支えようと頑張っていたつもりなんだけどね…同じ日に両親二人同時にそんな事言うかね…笑っちゃうわほんと。あたしだって親が二人とも遠くて頼る人も居ない中で独り踏ん張ってきたんだよ。怒りよりも虚しい気持ちになったその夜、家に帰って気が抜けたんだろうね、気が付いたら暗転現象が起こっていたの」

 

 あまりにも苦しく絶望的な仕打ち、話を聞いているだけの私ですら怒りと悲しみに震える程。彼女にかけてあげられる言葉を必死に探してみても何が真っ当かわからずにいた。

 

「嫌な事思い出させてごめんなさい。正直どんな言葉をかければいいのか、どんな言葉が適切なのかすらわからなくて、気の利いた事も言えなくてごめん。ただ、これから深月ちゃんの痛み苦しみを僕に共有させて欲しい!どんな辛い事があっても、暗転現象が何度起きても。全く頼りにならないかも知れないけど、その痛みを僕に分けて欲しい…」

 

 これが今の自分が言える精一杯の言葉だった。

 

「うん、本当にありがとう。素直にその有り難い気持ちに応えさせてもらうね。今回久しぶりに起きてしまった暗転現象で、あたしにとって鷹斗の存在がどれ程大きいかを思い知らされたよ。鷹斗が居なかったら今もまだ部屋に閉じ籠っていたと思う…あたし達まだ出会って間もないのに、すごいね、同志って」

 

 どこまでも直向きな彼女はそう言って私に微笑んだ。

 

「そうだね、すごいよ同志って。僕も此処へ来て、深月ちゃんと出会って変わる事が出来た。もう僕達は独りぼっちなんかじゃないね。また違和感や暗転現象が起きてしまったら一緒にごはんを食べようね。辛い事を話してくれてありがとう、朝食も作ってくれてありがとう、ごちそうさまでした。疲れたでしょ?食器は僕が洗うから深月ちゃんは座ってゆっくりしててね」

 

 彼女をソファに座らせ、私は食べ終えた食器をシンクへ運び皿洗いをする。すると、二人が食べ終えた時を見計らったかのように「ただいま〜二人ともごはん食べれた?コンビニでシュークリーム買ってきたから一緒に食べよう」そう言って先生が戻ってきた。

 その後三人でシュークリームを食べ、彼女に無理をさせないように昼過ぎまでゆっくりと話をした。

 その日の帰り道、ふと今になって思う。この様に無理せず食事をして、心許せる人と話をする、暗転現象が起きれば落ち着くまで気長に待ち、いつも通りの空間に居させる事によって症状を和らげていく。それが北條診療内科にとって、先生にとって、暗転症候群の一番の治療法としているのだろうと。



遥か彼方

歪む空に消えていた

五月雨と降り注ぐ慈悲は

季節の所為でまた踵を返すのか

激しい心の咆哮

悲しい心の切望

膝をつき躙り寄る暗転現象

俯かなければ見ずに済むのか?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ