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② ◇転機◇

 翌日、陽が昇る前に早々と目が覚めてしまった。

 改めて沸々と湧き上がる伊無瀬病院に対しての怒り、そして私の心を引き寄せた北條心療内科の紙切れに書かれた短文、その二つが大きな混沌を産み様々な事を考えすぎた所為か結局ほとんど眠る事が出来なかった。

 眠い筈なのに、すでに頭の中は北條心療内科の事でいっぱいになっていた。昨晩持ち帰った紙切れを手に取るが、診療時間も休診日も書かれておらずなんと不親切な手紙なのだろう首を傾げながらも、陽が昇り朝を迎えると、朝食も口にせずササっと支度をして朝九時頃に家を出た。

 地図を確認すると、幸い私の住んでいる所から徒歩で十分程度の場所らしい。心なしか足が軽くなった様な感覚に胸が躍り、謎の現象の手掛かりが見つかるかも知れないという一筋の希望を持ってみる。すると、どんな時でも悲観的だった自分には珍しく、少し前向きな気持ちになっていた。

 地図が記す場所に到着すると、そこには幅の狭い小さな雑居ビルが建っていた。四階建ての最上階が北條心療内科らしい。一、二、三階には店など何も入っておらずテナント募集の張り紙が凡ゆる所に貼られている。雑居ビル自体は見るからに古く、外観は劣化により亀裂が入っている箇所も多く見受けられる。


「大丈夫かな・・・」


 不安な気持ちになってしまう程の錆びれた佇まいについ本音が溢れてしまう。しかしここまで来ればもう扉を開くだけだ、いつもより軽い足取りで四階へと向かってみた。

 廊下の天井付近には蜘蛛の巣が張り巡り、足下には剥がれた塗装やコンクリートの欠片が散らばっている。肝試しでもしているような感覚と共に辺りを見渡しながら四階に辿り着き扉の前に立ったのだが、分かり易い目印は無く〝北條心療内科〟と殴り書きされた、これまた小さな紙切れが貼られているだけの不親切な入り口に少しだけ躊躇してしまう自分がいた。

 呼び鈴らしきものが見当たらなかったので恐る恐るコンコンコン、と三回ノックをしたが反応はない。もう一度、次は先程より強い力でコンコンコン、とノックをしたらその瞬間、中から気怠るそうな声で返事が聞こえてきた。

「はいはい、聞こえてますよお、そんな何回も叩いたら穴開いてしまうでね」

 扉が開き中から出てきたのは、髪はボサボサで寝癖が目立ち、おそらく寝衣であろう上下服の上から白衣を羽織った細身の中年男性だった。その男性は左手で眼鏡を上げ、右手で目を擦り、何度も瞬きをしながらこちらを物珍しそうに伺っていた。


「ええっと・・・受診ですか?いやあ珍しいですね、少し行った所に大きくて綺麗な病院があるのにこんな藪医者みたいな所を選ぶだなんて」


 医者が患者を目の前にして他人事の様に笑いながら言うことか・・・と、心の中で苦笑いをしてしまったが、もう此処に頼る他無い所まで追い込まれていた私は軽く自己紹介をする。


「はい、先日ポストに入っていた紙を見て来ました。幡西鷹斗と申します。あの、僕は至って真剣に悩んでいてます。もう当てもありません。それで此処なら何か分かるかも知れないと思いまして・・・」


 思いのほか私が真剣な眼差しだったのか、男性は軽く咳払いをして中の診察室まで手招きをした。どこか胡散臭いというか、映画やドラマで観た事のある闇医者感というか何というか、此処は本当に真面な病院なのだろうか・・・そんな事を考えながら診察室の椅子に座った。

 この胡散臭い白衣の中年男性は北條金吉と名乗り、こんな分かりづらい小さな雑居ビルでの開業の訳を「どうも大きな組織や社会が好きになれなくてね、ひっそりとこじんまりと一人で医者をしているのですわ」と、柔らかい表情で説明してくれた。伊無瀬病院の時とは明らかな違いを感じ、私は何故か、ほんの少しのやり取りだけで落ち着いて居られるのが不思議だった。


「ほんで、どうされましたか?」


 北條先生に問いかけられ、ゆっくり一つ一つ、自分の身に起きている謎の現象の説明を始める事が出来た。北條先生は私の話を遮る事無く、しっかり耳を傾けて頷きながら話を聞き続けてくれた。

 そして、私が話を終えた事を確認した先生はすぐに背筋を伸ばし、一度咳払いをしてから私の目をしっかりと見つめて答えた。

 

暗転症候群(ブラックアウトシンドローム)やね」

 

暗転(ブラックアウト)・・・症候群(シンドローム)?」


 今まで生きてきた中で全く聞いた事が無く、そして鳥肌が立つようなその奇妙な病名を伝えられた私は、さすがに動揺を隠す事が出来なかった。

 そんな、動揺し混乱している私にはお構いなしにと、北條先生は話を続けた。


「そう、暗転症候群。人との関わりにおいて何度も裏切られたり、大切な人を失ったり、悲しみ、苦しみに暮れたり、人に対して何も期待する事が出来なくなったり、それらによって絶望感が最高潮に達した時に突如としてその症状は現れ、現実をシャットダウンしようとする暗転現象の事やね。お前さんが視界を黒に奪われた時、自身の声も、意識も、感覚も、他人の声も、匂いから何から他の全ての感覚は失われなかったんやないかな?」


 瞬時にその時の私の感覚すらもサっと当てた先生に、私は目を大きく見開き食い気味に答えた。


「そうなんです。初めは薄暗くなってきて違和感がある程度だったのですが、視界は次第に砂嵐の様にザラザラとなって、黒くなって、視界はぼやけてそのまま気づいたら・・・」


 誰かに聞いて欲しかった事、思っている事を説明出来た安堵なのか、先生が奇妙な現象を最後まで笑わず真剣に聞いてくれた安堵なのか、急にほっとしてしまったと同時にその時の情景を思い出し言葉が詰まり俯いてしまった。

 その様子を見た北條先生は少しため息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「この暗転現象が起こったのは初めてかな?過去に何回も起こっとるのかな?何か思い当たる出来事やきっかけがあったのかな?」


 私は思い出せるだけ直近の現象とその前後の感覚を全て説明すると、先生は私の目をしっかりと見つめる。


「繰り返しこの現象が起きていくうちに癖になってしまって、しまいには現実そのものをシャットダウンしようとするのよね。つまり暗転現象が定期的に起こるのではなく、常に起こっている状態になりかねない。そして複数回その現象が起きていく毎に暗転から視界が綺麗に戻るまでの時間がどんどんと長くなっていく、それを繰り返すうちに最終的に戻る事が出来なくなる。というわけですわ」


 一通りの説明を聞き終えた私は、思っていた以上の深刻な状況に何の言葉も出ず呆然と抜け殻の様に固まってしまった。自然と涙は頬を流れ〝私が何をしたというのだ〟〝私の人生とは一体何なんだ・・・〟そう、絶望した。

 少しの沈黙が何時間にも感じてしまう程冷え切った空虚な空間に自身の鼓動が全身に響き渡る。どんな治療をすれば暗転症候群に打ち勝つ事が出来るのか、まずは何から始めるべきなのか、そもそも治癒出来るものなのか、聞かなければいけない事は沢山あるはず・・・それなのに私は暗転症候群とやらに対する恐怖に完全に負けてしまい何も聞き返す事が出来なかった。

 先生は席を立ち、そんな私を慰めるかの様に私の背中をポンポンと軽く叩きながら「まだ大丈夫や。手遅れになる前に来てくれてありがとうやね。少しずつこの暗転症候群と向き合っていきましょう。私とね」そう言って微笑んでくれた。


 

此処へ来て本当に良かったのか?

ほんの少し前進する事が出来たのか?

悪夢の様な奈落の底

見上げた先にまだまだ遠く小さく

儚い光が見えているのか?

朧。何もかも信用するにはまだまだ早すぎるのか?


 

「あの・・・私以外にも暗転症候群で悩み苦しみ、北條先生を頼りに来ている人はいるのですか?そもそもこんな病気今まで一度も聞いた事がありませんでしたし、私なりにですがどれだけ調べても手掛かりすらつかめませんでした。他に同じ症状の患者がいるとも思えないのですが・・・」


「あぁ、それが一人居るのよ。今も通院しとるよ。まあ通院と言っても此処に来て気持ちを和らげる、といったところだけどね。彼女もかなり苦しんでいたみたいでね、自ら命を断つ寸前まで追い込まれていたみたいだった。その子が初めて此処へ来た時も今の君と同じ様な顔やったのを覚えているよ・・・まあとにかく覇気が無い顔色も無い、まるで屍の様な顔よ。それからは何度も此処へ足を運ぶようになってね、今はかなり症状が抑えられているね。だから肩の力抜きんさい、名前は幡西君だったね?君もきっと大丈夫だから。ところで幡西君は何歳かね?」


「そうだったのですか・・・暗転症候群で通院されているその方は女性なのですね。僕は今年で二十九歳になります」


「うんそうやね、二十九歳なら彼女と同年代くらいじゃなかろうか?あぁ、そういえば明日は此処に来ると思うよ。大体毎週水曜日に顔出しに来るからね。そうだ、幡西君がよければ明日もこの時間に来るかい?きっと彼女と会えるはずだよ。もちろん無理に話せとは言わないけど、同じ症状で苦しむ者と接すると幡西君にとって大きな力にもなるんやないかな。所謂、同志っちゅうやつやね。それを感じれば心が少しだけ落ち着くかも知れないし、何か気持ちに変化が出てくるかも知れないからね」

 

 真っ直ぐな優しい笑みで、真っ直ぐな優しい言葉をかけられたのはいつぶりだろうか、気付けば北條診療内科に対する不信感は、陽が当たった雪の様にゆっくりと静かに溶けていった。


「今日は朝から診て頂きありがとうございました」


「礼なんか要らないよ。いつでも来なさいな」


「はい、ありがとうございます。あの、休診日はいつですか?それと何時から何時までやっていますか?あと診察券や保険証の提示もしていないのですが・・・」


 ふと我にかえった私は、病院でおこなう一通りの流れを何一つしていない事に気付いた。


 「ああ大丈夫よ気にしなくて、いつでも何時でも来たい時に来なさいな。僕は此処に住んでいるからね、ノックをしてくれれば扉開けるでね。夜中はやめてよ?此処薄暗くてちょっとビクッとしちゃうからさ。あと保険証も何も必要無いよ、僕はこういった病気の人からは一切お金を取っとらんからね。学校の保健室みたいな感覚で来てくれて構わないよ」


 そう言われた私は財布から出した保険証をそっとまた財布に戻し、何も疑う事無く、翌日同じ時間に伺う旨を伝えてその日は北條診療内科をあとにした。


 翌日の水曜日。桜が散り、ここ最近日増しに暖かさが際立っていたのだが今日はあいにくの雨、気圧の所為か少しの頭痛と気怠さを感じながらも朝九時頃に家を出る。外は相変わらずの草臥れの街、私の様に苦しむ人達の痛みや嘆きが水滴となり世に降り注ぎ、木々や建物、私の傘を濡らす。

 きっと此処からが私の再スタート、それを感じさせる様に歩幅も大きくなり早々と到着、昨日の様にノックをする。


「はいはーい、おはようさん。入っておいで」


 中から北條先生の声が聞こえる。今日はもう起きているみたいだ。中へ入り靴箱に傘を掛け恐る恐る中へ入ると、コーヒーの芳醇な匂いが漂っていた。先生は昨日とは違う居間のソファを指差し「気分はどうかね?さあさ、此処に座りなさい」そう言ってニッコリと笑う。

 こんな温かい匂い、独りではない朝を感じるのはいつぶりだろうか・・・ホっとした気持ちでソファに腰掛ける。


「幡西君コーヒー飲むやろ?ミルクと砂糖は?」


「ありがとうございます。ブラックでお願いします」


 先生は私の目の前に煎れたてのコーヒーを置き、私の向かいに座る。


「ジトジトと嫌な天気やねえ早く雨止まないかね、そういや幡西君は何処に住んでいるの?」


「家は此処から歩いて十分くらいですね」


 コーヒーを飲みながら世間話をしていると、急に入り口の方から大きなノックが何回も鳴る。

 ドンドンドン・・ドンドンドンドン・・・私と先生は目を合わせ呆気に取られる。


「はぁ・・・全く、あの子が来るといつも地震と勘違いするのよ。毎回おっかなくて仕方がないよ」


 そう言って先生は笑いながら入り口へと向かった。愚痴を言いながらもどこか嬉しそうにする先生を見て、何だか穏やかな気持ちになった。

 

「もう!雨とかほんとに嫌い、めちゃくちゃ大嫌い!せっかく早起きしてお手入れした髪も綺麗に保てないし、湿気でベトベトするし・・・天気予報で雨なんて言ってたっけ?先生が雨男だからじゃないの?今日はずっと雨なのかな?もうズボンもびしょびしょに濡れちゃったし最悪なんだけど」


「ハハハハハ、雨降りでも晴れの日でもべっぴんさんには変わりないんやから心配せんでええって。おそらく昼過ぎには止むと思うんやけどね」


 仲の良さそうな会話と共に二つの足音が居間に近づいてきて扉が開く。先生と現れたのはおそらく昨日聞いていた私と同じ暗転症候群で通院している女性だろうか。

 

 目の前に現れたその女性は、すらっと細く長い手足に黒髪のショートカットで毛先だけ茶髪にし、両耳にはいくつものピアス、服は黒色のレザージャケット、黒色のスキニーズボン、靴はブーツ。容姿はとても美しく可愛らしく、格好が相まってカッコいい中にも品が漂っていて〝女性にもモテる女性〟という印象だった。

 

「あれ?先生いつから助手雇ったの?っていうか人が居るなら言ってくれないと!あたし、すごい荒くて口喧しい女だと思われてしまうじゃん」


 初めてお会いする女性は私を見るなりいきなり先生に笑いながら圧をかけている。


「助手なんて雇った覚えはありませんよ。彼は昨日此処へ来てくれた患者さんや。あんたと同じや。あと、荒くて口喧しいのは事実やないの?ハハハハハ・・・」


 女性の饒舌ぶりに笑いながら対抗する先生、そんな光景を見て先生と患者という中にしっかりと信頼関係が築けているように感じ、もしかすると私もあの二人のように冗談を交えて笑える日が来るのかも知れないと、気持ちが少し昂っていた。

 

「幡西君、この子だよ昨日言うていた子。名前は川北深月さん。べっぴんさんやろお?口を閉じていればの話だけど。あ、あと雨降りの日も静かだといいんやけど」


「ちょっと先生〝口を閉じていれば〟はかなり余計だと思いますけど?」

 

 二人は掛け合いも間も完璧に合っていて、聞いているだけで心地良くて気分が良くなり、嫌な事を忘れられそうだ。私は久しぶりに笑った気がした。

 

「へえ・・・此処に来る人初めて見たよ、はじめまして。君、年はいくつ?あ、ごめんなさい、あたしは川北深月っていいます。よろしくね」


 女性は目を丸くして、珍しそうに不思議そうに私を見つめ、ジャケットのポケットに両手を入れたままペコっとお辞儀をしてくれた。嫌な顔一つせず私に挨拶をしてくれた事に驚いたと同時に、私はサッと立ち上がり挨拶を返した。


「えっと・・・はじめまして幡西鷹斗です。二十九歳です・・・よろしくお願いします」


 久しぶりに知らない人と会話をしている事自体が自分でも信じられずにとてもむず痒く、あたふたしながらお辞儀を返すだけで精一杯だった。


「幡西君、そない緊張しなくても大丈夫だってば、ほらリラックスよ。コーヒーおかわり入れようか?」


 ふわりと優しい先生の声で落ち着きを取り戻す。


「あ、先生あたしもコーヒー欲しいな、砂糖とミルクたっぷりのお子様コーヒーがいい」


 一方で、悲観的な私とは打って変わってずっと笑顔でとても明るくハキハキと声を出す彼女。暗転症候群に苦しんでいるとは思えない程地に足を付け、強く生きている様に見える・・・彼女も私みたいな時期を、辛くて苦しい日々を経て、徐々に病を乗り越えているのかと思うととても頭が上がらない。


「深月ちゃん、ちょいと掛けてくれないか。僕はね、幡西君と深月ちゃんを会わせてみたかったのよ」


 それを聞いた彼女はサッとソファに腰掛け、先生は話を続ける。


「というのもね、幡西君も深月ちゃんと同じ暗転症候群に苦しんでいる数少ない一人なのよ」


 それを聞いた彼女は信じられないといったような顔つきに変わり、目が点になったまま言葉を失っている。


「同じ痛みを知る者が近くに居ればお互いプラスになる事も多いと思ってね。幡西君は二週間程前かな、此処ではない病院に運ばれて暫し入院したみたいなんやけど、身に起こっている事を訴えても案の定パニック障害だと言われてしまったらしく暗転現象の事はこれっぽっちも信じてもらえなかったみたいなのよ。深月ちゃん、思い出すね昔を・・・彼は君と全く同じ茨の道を歩いて此処へ辿り着いたんだよ」


 コーヒーのマグカップを両手で持ったまま真剣に話を聞いてくれている彼女。その姿を見るだけで、私の痛みを理解してくれて分かち合ってくれる人がいたのだと、心が少し軽くなった。

「なるほどねえ」そう言ってマグカップを机に置き、私の目を見て彼女は口を開いた。


「幡西君だったね。あたしもね、今でこそこんな風に普通に話せて、笑う事が出来て、怒る事が出来るようになっているけど、此処に来なければ、北條先生と出会っていなければ多分死んでいた・・・いいや、多分じゃないか、間違い無くだね。あたしは此処数ヶ月、幸いにも暗転現象は起こっていないの。だけど人のドス黒い部分を見たり触れたり感じたりすると今でも目の前に霧がかかったように視界が黒色にぼやけてしまう。あたしの家はね、あたしが中学生になる前だったかな、父が人を殺してしまったの・・・もちろん今は牢屋の中で罪を償っている途中。それが原因でお母さんは現実逃避、精神を壊してお酒に溺れて薬に溺れて・・・アルコール中毒と薬物中毒になって施設の中。父が人を殺したのも、人に騙されて騙されて騙され続けて心が壊れちゃったのが原因なんだって。どんな理由であろうと人を殺すなんて、ほんとに馬鹿だよ。馬鹿なんだけどね・・・とても優しい人だったのよ、困っている人を見たらすぐに手を差し伸べて・・・。私は周囲に気を遣える心の優しい人が生き難いこの世の中こそが一番の悪だと思っているわ。父はその人の良さにつけ込まれて悪い人の恰好の餌食になっていったの。それで結局は父が追い詰められて人を殺した。そんな親を見ていくうちに暗転現象が起き始めたってわけ。君がどういった経緯で暗転現象が起き始めたかは知らないけど、自分の事だけは信じてあげないとダメだよ」


 そう言って私を見て微笑んだ。彼女は怒りに震えるように、悲しみに膝を抱えるように、だけど絶望してはならないと自身を奮い立たせるように、ただ只管に、ただ懸命に笑顔を振り絞って生きているのだろう。きっと今もまだ苦しいはずなのに、昔の事など思い出したくないはずなのに、彼女は包み隠さず自身の暗転現象に陥ったきっかけや過去を初対面の私に丁寧に教えてくれるだけでなく、同じ苦しい思いをしている私を叱咤激励までしてくれる。私は自身の弱さと甘さを噛み締めながらも、どんな事があろうと自分を信じてやることを心に誓った。

 そして私も自身の生い立ち、殺人事件によって十歳で両親を亡くした事、そこから幼馴染のおかげでなんとか立ち直れた事、末梢神経の病、それ故の挫折、そこから始まった人間不信、そして最近偶然会った幼馴染の知人による嘲笑と知らされた私の居ない所での幼馴染の裏の言葉、裏切り、暗転現象まで、全てを包み隠さず彼女に打ち明けた。気が付けば昼を過ぎ、窓の外、雨はすっかり止んでいた。


「まあそういうわけなのよ深月ちゃん、長い時間話を聞いてくれてありがとうね。これから幡西君とよく顔を合わせる事になると思うからよろしくね」

 

 北條先生の言葉に続き私も今一度深々と頭を下げる。

 

「川北さん、初対面なのに優しくしていただき、話も聞いていただき本当にありがとうございます。少し心が軽くなった気がします」


「全然大丈夫だよ。苦しい時はお互い様だからね、あたしは水曜日は毎週此処に来ているから何かあればまた話くらいは聞くよ。あと川北さんってなんだか堅苦しくない?深月でいいよ、あたしと貴方は同志なんだから」

 

 どこまでも優しくしてくれる彼女に少し戸惑いつつも、言われた通り恥ずかしがりながらも彼女の名前を呼んでみた。


「はい、ありがとうございます。深月・・さん?いや深月・・ちゃん?」


「なんかウブというか健気で可愛いねえ貴方。下の名前は鷹斗だっけ?二十九歳ならあたしの二つ年下だね?よし、仕方がないな、これからはこの深月お姉さんがたっぷり可愛がってあげるよ!鷹斗」


 悪戯に、揶揄うように距離を詰められながらも「ありがとうございます。深月・・ちゃん」と、私なりに精一杯の気持ちで応えた。

 その後、先生を交えた三人でああでもない、こうでもないと世間話に花を咲かせて十五時が過ぎた頃、そろそろ帰ろうかという雰囲気になり帰り支度をする。


「先生、深月ちゃん、改めて今日はありがとうございました。こんなに笑う事や誰かと話す事が久しぶりすぎて本当にリフレッシュ出来ましたし、楽しい時間を過ごせました。今日は暗転現象の事も考えずに過ごす事が出来ました。本当に感謝です」


「いいえ、どういたしまして。鷹斗とはこれから長い付き合いになりそうだからね。先生あたしも帰るね、また来た時はコーヒーよろしく!」


「はいはい、いつでも待っているからね、二人共気付けて帰りなさいよ」


 二人で先生に頭を下げて玄関へと向かい、朝使っていた傘に手を伸ばすと何故だか彼女と手が重なった。

 

「あ・・・」「え・・・」


「これってあたしの傘じゃなかったっけ?」


「えっと・・・そうでしたっけ?」


 確かに此処に置いたはずだけど・・・そう思いながらもその紺色の傘を渡して玄関の外に出た。すると外にはもう一本の同じ紺色の傘が壁に立て掛けてあった。


「ああ、ごめんこっちがあたしのだわ!外に置きっぱなしにしてたんだった」


 と、笑いながら先程の傘を私に渡す深月ちゃんと目が合う。


「すごいねビニール傘でもないのに被るなんて」


「ほんとびっくりしました、なんだか僕達仲良くなれそうですね」


 そう言い合って少しだけ間が開いた後、二人は同時にくすくすと笑った。そして階段を降り、すっかり雨が止んだ夕焼け色の外に出る。


「あの・・・今日は本当にありがとうございます。次会う時は今日以上に笑って会える様に、気を強く持って生きます。深月ちゃんも何かあったら言って下さい。僕は話を聞くくらいしか出来ませんが・・・」


「うん、ありがとうね。あたしも、同じ暗転症候群に苦しんでいる人と出会うなんて思っていなかったし居るとも思っていなかったからさ、同志が居てくれると心強くてなんだか嬉しいよね。あたしも次会う時は今日よりもっと元気な姿を見せるからね。鷹斗は今はとにかく無理せず、少しずつゆっくりと、だからね」

「はい、本当にありがとうございます。ではまた」

 

 そう言って二人、別の帰路へと歩いていった。


 

すっかり雨が上がり

壮大な夕空のオレンジ

その鮮やかな夕空に似た小さく優しい色の約束

奈落の底にほんの少し

僅かな、微かな、優しい色の微笑み

寂寞の闇空はもう忘れたいから

あの後ろ姿を見ながら前を向く

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