① ◇絶望◇
ただ穏やかに、ただ和やかに
夢を夢見て優しくありたかった
栄光も挫折も心を彩り
不鮮明でも明日を待ち侘びたかった
気付けば曇天
仄暗い闇が手招く
泥濘の世界 私は私が嫌い 大嫌い
◇絶望◇
「幡西さん?幡西さん・・・?」
「・・・?」
誰かに呼ばれて気が付いた。目を開くと、真っ白な服を着た自分よりも若い女性が心配そうにこちらを伺っている。自分は眠っていたのか?瞼はとても重く、明るい蛍光灯に目が眩みそうだ。
「お目覚めになられましたか、よかった。今先生お呼びしてきますね」
白衣姿の優しそうな女性は看護師か。どうやら此処は病院らしい…。一体私の身に何が起こったのか?どうなっているのか?何故か何かがおかしい。
何が何だか、たった今目覚めるまでどれ程の時が経ったのかもわからない。いいや・・・目覚める?違う、眠っていた感覚ではない。自分の心の声も意識も感覚も感情も、それらは確実にあった。それなのに声をかけられ目を開く寸前まで周囲を認知出来ずにいた。なんと言えばよいか、目の前が薄黒い気味の悪いフィルターで覆われているかの様。つい先程看護士に言われた「お目覚めになられましたか」その言葉がどうしても引っかかっている。気を失い運ばれ、眠ったままだったと思われているのだろう。この得体の知れない感覚、症状は何だろうか…突如舞台が暗転したみたいだった。
「夢とは語るものでなく叶えるもの」
いつかの誰かの言葉は、私の心に強く、そして大きく根を張り抜けなくなった。末梢神経の病により手先の力が上手く使えなくなり、リハビリも虚しく後遺症として利き手の人差し指だけ力が全く入らず伸びなくなってしまった。私の心は次第に潰れてしまい幼い頃から抱いていた画家の夢を諦めた。その日から今の今まで苦汁に溺れている様だ。自分の胸の奥深くまで浸透していく闇の霧、それは夢や未来までもを朦朧とさせている。虚無と共に途方に暮れる日々、草臥れの街に独りの私はあまりにも小さく儚く、なんと惨めなものだろうか。窓の外では残酷な太陽が、こんな馬鹿馬鹿しく世知辛い世の中を溶かすかの様に気高く、そして果てしなく人間世界を見下ろしている。明日を待てば待つ程膝を抱え、悲観的な感情しか抱けない今日という日。訳はわからずとも私は気付かぬ間に病院に運ばれ緊急で入院をしたのだろうと予想は容易くできた。
ベッドの側に一枚のパンフレット、ここは伊無瀬病院という所らしい。小さな個室、独りきり殺風景な空間で、小さいテレビと花瓶に刺さる一輪の花が飾られているだけの狭く寂しい病室。そこに今、確実に私は存在している。訳も分からず虚無感と言葉にし辛い違和感を紛らわそうと側に置いてあるリモコンを手に取りテレビの画面を付けた。流れるニュースの内容はこうだ。
先日から報道で観ていたとある不可解な事件、それは京都の離れにある寂れた小さな駅の多目的トイレにて外傷無しの女の死体が発見されたというものだ。駅の防犯カメラを辿りその事件の犯人と特定された人物の人となり、そして供述等を映すものだった。テレビが続ける、犯人の露崎裕壱は明らかに我を失っており何とも理解し難い供述をしているらしい。「私は何もしていない。私はあの女が許せないだけだった。あの女の正体を知った途端に兎に角目の前が真っ黒になっのだ。声も匂いも分かっていたのに視界だけが何故か真っ黒く染まって見えなかったのだ。私は何もしていない、視界が真っ黒の状態でどう人を殺めようと言うのだ。そもそもあの女が私の家族を、私の財産を、心の全てを奪った。きっとその罰が当たったのだ、当然の報いだよ。永遠に許さないと思っていたから心が晴れた気分だよ、だが決して犯人は私ではない」と。
現段階、露崎裕壱の記憶として残っているものは視界が真っ黒だった事、そして死体で発見された女が露崎裕壱と何かしらの関係、因縁があったという事のみ。それ以前に何故その駅に居たのか、何処から来たのかすら思い出せないという。少しの間気を失っており、今は暗転した視界は解けているらしく、得体の知れない感覚に陥っていたみたいだ。私はこの供述を耳にした途端脳天に稲妻が走った。何故ならば今まさに我が身に起こっている現象と、テレビが伝える犯人〝露崎裕壱〟の怒りに任せた高圧的で誰にも信用されないであろう奇妙な発言が丸っ切り同じだからだ。
さらに脳天に稲妻が走り続ける。
そうだ…思い出した。私は説明するのも気が滅入る様な自身の生い立ちに泣き、そしてその苦境に負けずに初めて抱いた夢すらも病で失い絶望していた。そこへ追い討ちをかける様な事が起こり、いつかの夜に膝から崩れ落ちたのだった。そう、それは私の幼馴染〝健太〟という男によって。それはまさに驚天動地だった。
健太は夢を諦め絶望していた私の全てを受け止め、痛み悲しみを分かち合ってくれている大きな存在だった。だがその唯一心を許していた健太による完全なる裏切りを知ってしまったのだ。彼は私が末梢神経の病で力を失い絶望している時も寄り添い続けてくれた。これからの人生の事も一緒に考え、リハビリも親身に支えてくれてた。生活の為だと、就職活動にも力添えしてくれて、立ち直るきっかけを作ってくれた。完全に心を許し、私にとって健太はたった一つの憩いの空間だったのだ。病から月日が経ち、心はまだ不安定ながらも仕事をし、なんとか生活ができるまでになった。徐々に立ち直っていこうとしているそんなある日、仕事帰りに寄ったコンビニで偶然知人と会った。私はそこまでの仲ではないが、健太とは友人であり話にもよく出ていた近藤という男だった。
「あれ?久しぶりじゃん幡西だよね?聞いてるよ、健太におんぶに抱っこなんでしょ?堕落してしまって画家になる夢も諦めちゃって、落ち込んでたんでしょ?かいかぶりすぎたなって健太と話してたんだよ。まぁそう落ち込むなって、元々無理だったんだよ画家なんてさ。健太も〝俺がいないと幡西は何にも出来なくなってる〟って言ってたけど、面倒見てくれる友達が居てお前は幸せだよな」
奴が私に会うなり急に浴びせてきた言葉の数々に身体が凍りついた。なんとも惨い、夥しい程の穢い言葉達。信頼していた人間の裏の言葉達。怒りと恐怖に震えた私は固まったまま少しの間声を出す事が出来なくなった。
「・・・急いでるから」
なんとか振り絞り出した一言を置いて私はその場から逃げたのだった。もう誰にも関わらず死ねばいい・・・其奴らの掌返す様な嘲笑と心無い言葉に絶望し、その後焦燥したまま夜道を狼狽えていると「期待外れ」「堕落堕落」「かいかぶりすぎたな」あまりの絶望感で奴の言葉が繰り返し耳元で囁かれている感覚に陥り、そんな心無い言葉は私の心臓を抉り散らかし蹂躙した。気付いたら立ち止まり膝から崩れ落ちた。そのまま涙は頬を流れ、呻きながら額を地に叩きつけたのだ。蠢く様に二度、三度、四度と額を地に叩きつけた後ふと顔を上げた時、視界に異常があると認識した。薄暗い霧が辺りを覆う様な、将又薄黒いカーテンが落ちてきて徐々に舞台が暗転していく様な。そのまま次第に周囲を認知出来かねる程目の前が黒に染まっていった。そのまま気を失ったのだろうか?その後、死体かもわからぬこんな私を哀れみ気付いた何者かが病院へ送る手配をしてくれたのだろう。
手のひらを返す
嘲り笑う
残滓で満ちる脳と
土足で掻き乱され穿鑿された心臓
これは不可抗力か
怨嗟の嘆きが産む果てしない憎悪
いつかの微笑みは涙と闇に死ぬ。
妬み嫉み、裏切りの連鎖
不幸の蜜に人は群がり骨の髄まで吸い尽くす
優しさの残像は左右に擦れ歪み消えてゆく
生きているだけで耳に入る夥しい言葉達
いつどんな時も人は人の不幸が美味しいらしい
周りの人間、友ですら。
轟音とも言えよう破壊の音と共に、ドス黒い砂嵐が心を、視界を、全身を覆う、呼吸音と自身の張り裂けそうな程の鼓動だけが残る。不意に後ろから目を隠され視界を奪われ意味の分からぬ耳鳴りだけが残れば、大抵の人はそれがどれだけ恐ろしい事なのか容易く想像できるであろう。それだけではない、徐々に複数回の絶望した記憶が脳裏にフラッシュバックしていく。夢を絶たれ闇を彷徨った挙句、次第に微笑む事を忘れていき気付けば引き攣る顔を隠せなくなった。人と会話をする度に不器用に笑顔を作る毎日。徐々に引き攣る顔は自分を失くす。無理に笑顔をつくれば心無い人間からの「毎日笑顔でニコニコして悩みなんてないだろう、羨ましいよ」などといった呆れる程の見当違い。私にとってはその心無い会話全てが罵詈雑言であり凶器だった。その言葉の刃は簡単に私の心を貫通させた。ここまで成ればもう廃人も同然。〝人と言葉を交わす〟たったそれだけの事が困難になり終始足下を見つめる毎日。笑顔も消え窶れた顔で俯き生きていれば周りの人間は私を怖がり、私は完全に孤立した。そう、確かそれに気付いた時も視界がぼやけて薄暗く染まっていたのだ。その絶望の中でも幼馴染は寄り添ってくれる存在だと信じきっていた、故に裏切りを知った夜は更なる奈落へと突き落とされたように感じたのだった。人間不信と咽ぶ程の心の痛みは確実に自身の心を殺した。
この現象の原因とは何か、絶望していただけで視界が黒に染まっていたのは錯覚だったのか・・・?報道されている露崎裕壱と自分は間違い無く同じ現象に見舞われている、きっと何か共通するものがあるはずだ・・・。
「幡西さん…幡西さん?気分はどうですか?」
痛々しい過去と現状の全てを思い出していると誰かに呼ばれ、我に返った私は焦ってテレビを消した。
担当の医師らしき初老の男性が私の側に近付き、淡々と説明を始める。
「はじめまして。担当医の平田です。幡西さんは道で気を失われてたみたいで、通りかかったおばさんが救急車を呼んでくれたのですよ、ニ日前にね。親切なお方が通りかかってくれて本当によかったです。具合はいかがですか?」
私は本当に気を失っていたのか?いや、そうではないはずだ、確かに意識はしっかりとあった。この何か得体の知れない症状をなんとか説明しなければ・・・そう思い声を出そうとしたのだが、それを遮る様に主治医は話を続けた。
「精密検査の結果、特に深刻なことも無く、脳も異常はありませんでした。ですが、かなり憔悴しているようなので少しの間入院してもらいます。定期的に診察もしましょう」
「あの・・・先生」
私は一度深呼吸をし、自身に起こっていた意識や感情は残ったまま視界だけが一時的に黒く染まって見えなくなってしまうこの謎の現象を、震えながらも両手を使い全身全霊で説明した。
しかし、主治医である平田先生はあまりにもあっさりと、淡々と、顔色を変える事なく言い返した。
「今現状幡西さんの脳はショック状態、所謂パニックを起こしているのだと思います。まずはしっかりと身体を休めてください。何も気負う事は無いですからね。まずは明日の十時に診察をしますので、それまでに何か気分が優れなくなったらいつでもナースコールを押してくださいね」
あまりにも淡白で素っ気なかった為か、何故か急に不安の波が押し寄せてくる。きっと…いいや、私が必死に説明した現象は確実に信じてもらえていない、間違いなく精神疾患だと思われている…もう此処に居ても意味が無い、此処で診てもらったところで理由は追求出来ない、そして私はまた嘲笑の的に成りかねない、そんな思いが血を逆流するかのように全身に伝い身体中を熱くする。
一週間程か、期待を捨てた私は言われるがまま入院して身体を休めた。診察も検査もしたのだが、その間何度も謎の現象を訴え続けてみてもやはり信じてはもらえず、それどころか話すら真面に聞いてもらえなかった。
その後、私の予想はしっかりと的中。心の病、所謂パニック障害との診断がでた。
もう僅かな望みすら捨ててこの病院から出る日を待った。診察も、退院の手続きも上の空、自身に起こる現象の説明すらも諦め腑に落ちる事なく退院の日を迎えた。
私は元々ずっと独りきりだ。それはこれまでも、そしておそらくこれからもそうなのであろう。病院に運ばれ入院しても見舞いに来てくれるような身内すら居ない。両親は私が十歳の頃に死んでいる。忘れもしない当時十歳だったある日、私達親子が寝静まった真夜中の家に侵入してきた見ず知らずの男に、意味も訳も無く殺されたのだ。刃物を振り翳した無差別殺人事件の被害者という事になる。当時私は異変に気付いた父親に強引にクローゼットの中に押し込まれた。
『絶対に出てくるな』そう言われたままクローゼットの中で惨劇の夜を過ごした。父は何があっても私を守ろうとしたのだろう。二十年近く経った今でも鮮明に、脳裏にへばり付き忘れる事の無い両親が刺される音、息途絶え倒れる音、犯人の荒く狂った息の音。クローゼット越しの耳だけで感じる惨劇と両親の死。幼い私は恐怖で気を失った。夜が明けてどのくらいの時間が経ったのかも分からず、意識を取り戻した時には、そう・・今回と同じく病院のベッドの上だった。警察、刑事、主治医と、物々しい雰囲気の大人達に囲まれては事情を聞かれ、両親の死を改めて伝えらる。まだ十歳の私には到底抱えきれず、受け止められず、精神に異常をきたしその日から笑顔を失ったのだ。犯人はすぐに逮捕されたものの犯行動機は〝殺せるなら誰でも良かった〟と、血も涙も無い鬼畜の所業。事件後、両親を亡くしトラウマを植え付けられ人間不信に陥った十歳の私を引き取ってくれる親戚など居るはずもなく、結局私はすぐに施設に行く事になる。その施設でも思い出等はなく独り抜け殻の様に毎日を過ごす中、唯一心が動いたのが絵だったのだ。そして人間に対しての不信感は計り知れないものであったが、元々の幼馴染だった健太が施設に遊びに来たり、私が健太の家に遊びに行ったりと、寂しいながらも健太のおかげで不安定な時期を過ごす事が出来た。高校は別々になったが頻繁に会い、末梢神経の病になった時も変わらず側に居てくれた。だがその健太すら、偶然会った近藤によって疑惑の存在になってしまった。もちろん健太本人から直接言われた訳では無いのだが…そして〈意識を失い、気付けば病室のベッドの上〉こんな事が何故二度も起こらなければならないのか。どうせこんな状況が続き更なる闇に突き落とされても、この先もずっと独りなのだろう。
私は退院後すぐに自身に起こる謎の現象について調べる事にした。もちろん頼る人間などおらず、あても無く独りきりで。ただ只管、手探りではあるが出来る事なら何でも試した。図書館へ何度も足を運び何冊もの病気の本を読み漁ってみたり、パソコンで何度も何度も検索をかけてみたり、違う病院へ行ってみたり、眼科へ行って相談してみたり。だが、何一つとして手がかりが見つからず毎晩肩を落とす日々。気付けば何も分からないまま退院から二週間が経過していた。生きていく為だと仕事復帰はしたものの、やはり今まで通り誰とも交わる事なく足下ばかりを見つめて笑えない日々が続き、謎の現象を突き止める気力すらもう残っていなかった。そんなある日の仕事終わり、家に着きポストを覗くと水道代の支払い通知の下に隠れた一枚の小さな紙切れを見つける。
その小さな紙切れには、汚く荒く殴り書きされた様な短文のみが記されていた。
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心は正直です
心が潰れてしまわぬ様
誰にも言えぬ悩み痛み
全て此処で解決します
北條心療内科
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なんとも肌寒くなるような彩りも無い手紙…。
裏を返せばその北條心療内科とやらの住所と簡単な地図が描かれていた。この殴り書きされたお世辞にも綺麗とは言えない紙切れは何故だか自分の心を熱くさせた。
誰にも言えぬ悩み痛み・・・そうだ、確かに意識も感覚も感情もあった。なのに視界だけが薄暗く染まっていき、次第に見えなくなったという私の訴えを遇らい、苦しむ患者をいい加減に扱った挙句簡単にパニック障害と診断したあの伊無瀬病院に対して到底納得はいっておらず、退院後も心のどこかに痞えがあり怒りすら覚えていたのだ。私はすぐさまその紙切れを家に持ち帰り、殴り書きされた短文を何度も何度も読み返した。
その日の夜は、ずっと続いていた肩を落とす溜め息の夜とは違う、久しぶりの前向きになれそうな夜だった。