湿ったチワワ
**湿ったチワワ①**
そのチワワは、雨の降り止まぬ町の片隅にいた。
体は泥にまみれ、毛は雨に打たれ続けているせいか、ぺたんと貼り付いていた。見れば見るほど哀れで、どこか滑稽だった。しかし、何よりも不気味だったのは、その瞳だ。まるで魂が抜け落ちたかのように、光を宿さず、ただじっとこちらを見つめている。
「どこの犬だ……?」
男は傘を傾け、チワワに近づいた。その足元の水たまりには、空の暗雲と雨粒の輪が波紋となって広がっていた。
近づけば近づくほど、奇妙な違和感が胸を満たしていく。
犬は動かない。震えている様子もない。ただ、こちらを見ている。
いや――“見つめている”と言った方が正しい。
まるで何かを訴えるような、しかし何も言わない沈黙。雨音とともに流れ込んでくるのは、静かな嫌悪感と薄暗い恐怖だ。
「……おい、大丈夫か?」
男は傘をチワワの上に差し出し、しゃがみ込んだ。視線が交わる瞬間、胸がぐっと詰まる。
近くで見るとその瞳は、ただの無表情ではないことに気づいた。
チワワの目は、ひどく濡れていた。ただ雨に濡れたのではない。目そのものが濡れているのだ。水滴が瞳の中に溢れているように見える。
「お前、どうしたんだ……」
触れようとした男の指先を、冷たい何かが走り抜けた。風か?それとも――
その瞬間、チワワが動いた。
カクン、と首が揺れ、まるで人間のようにうなだれる。そして、男の耳元で微かに聞こえた。
「雨が止まない……」
声?いや、幻聴か?こんなチワワが言葉を発するわけがない。しかし、確かにそれは“聞こえた”のだ。
「誰だ……?お前が――?」
チワワは答えない。濡れた目でじっと男を見上げるだけだった。しかし、その無言の視線には、明確な意図が宿っているように感じられた。
男は傘を差し続けながらも、どこかに追い詰められていくような感覚に囚われる。
雨脚は弱まるどころか、ますます強くなり、水たまりは膝まで浸かるほどに広がり始めていた。
――どんどん増えていく。
「まさか……お前が……?」
チワワは雨を呼ぶ存在なのか?荒唐無稽な考えが脳裏をよぎるが、どうしても否定できなかった。
そして、次の瞬間、彼は気づいてしまった。
雨の中に浮かぶ“人影”が、少しずつ、こちらに近づいてきていることに。
その影は、ぼんやりとしたシルエットだったが、足元は確かに水の上を歩いている。
「なんだ……あれ……?」
男が声を震わせると、チワワの体から滴る水が、突然止まった。
「……おい……どういうことだ?」
影は、もうすぐそこに迫っていた。雨音の中、確かにその気配は異常に冷たく、異質だった。
そして――気がつくと、チワワはいなくなっていた。
男は傘を差しながらその場に立ち尽くす。雨は止まない。影は近づく。
そして、それ以降の記憶はない。
雨の日、あの町の片隅に、一匹の濡れたチワワがまた現れた。濡れた瞳で、誰かをじっと見つめながら――。
**湿ったチワワ②**
それは噂だった。
「雨の日に現れる湿ったチワワには近づくな」
――町の人々はそう囁き合っていた。
だが、噂の範囲を越えて、それが「何か」だとはっきり言い切れる者はいなかった。ただ、「湿ったチワワ」を見た者の大半が数日以内に行方不明になったり、戻ってきても誰とも口をきかなくなったりする、という事実があるだけだった。
「あいつ、見たらしいぜ」
ある晩、町の古い居酒屋で、一人の若い男が友人に向かって言った。友人は酔いの勢いで軽く眉を上げる。
「誰がだよ?」
「拓也だよ。昨日、駅の近くの空き地で雨宿りしてたら、あの湿ったチワワを見たってさ」
「嘘だろ、そんなの」
「いや、本当らしいんだよ。でも拓也、今日学校来なかったんだよな……」
会話が途切れる。カウンターで手を止めていた店主がちらりと二人を見た。その目は何か言いたげだが、口は固く閉じている。
「なあ、噂じゃあのチワワ、なんか――」
男が続きを言いかけたその瞬間、扉が勢いよく開いた。冷たい雨風が吹き込み、店内の空気がざわりと変わる。
「誰か……助けてくれ!」
そこに立っていたのは拓也だった。だが、様子がおかしい。顔色は真っ青で、体はずぶ濡れ。濡れた髪から滴る水滴が床に広がり、足元に小さな水たまりを作っていた。
「おい、どうしたんだよ!」
友人が慌てて駆け寄ろうとするが、拓也は手を振って制した。その震える声が店内に響く。
「……あれは、人間じゃない……!」
友人も店主も息を飲む。
「……何を言ってるんだよ、拓也?」
「チワワじゃない……あれは……!」
拓也が必死に言葉を紡ごうとするたび、どこか遠くから雨音が強くなる。ざあざあ、と店の屋根を叩く雨音は、不自然に耳に残り、誰もが背筋を凍らせた。
「見たんだ……空き地で、雨の中に立ってたんだ。俺はただ……傘を持ってなかったから、そばに行っただけだった。けど、あいつ……」
拓也の言葉が途切れる。そして、しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「……笑ってたんだよ、俺を見て」
「笑う?犬がか?」
友人が苦笑を浮かべるが、その顔もすぐに固まる。拓也の震える手が何かを訴えるように空を掴み、目は虚ろに彷徨っていた。
「……あいつ、俺を見ながら笑ってた。普通の犬じゃない……あの濡れた目、あの視線……気づいたときには周りの景色が全部、雨の中に溶けて……」
「拓也!おい、しっかりしろ!」
友人が声を荒らげて肩を掴むが、次の瞬間、店内の空気が一変した。
――音が消えたのだ。
いや、正確には雨音だけが残り、他のすべての音が消えていた。友人の声も、拓也の震えも、店主の息遣いも、まるで遠ざかるように薄れていく。
「おい……なんだ、これ……」
友人が恐る恐る声を出すが、雨音にかき消されるように響かない。そして、その時だった。
扉の向こうに、ぽつんと「それ」が立っていた。
――湿ったチワワ。
毛がぺったりと貼り付いた、小さな犬。目には雨水のような光が宿り、その瞳でじっと店内を見つめている。
拓也が息を呑むように震える声で呟いた。
「……来た……」
チワワは一歩、また一歩と店内へ足を踏み入れる。その小さな足音は、雨音の中に不気味に響いた。
誰も動けない。ただ、湿ったチワワが店の中心にたどり着くのを見守ることしかできない。
そして、次の瞬間――店内にあった灯りがすべて消えた。
**湿ったチワワ③**
店の灯りが消えた瞬間、室内は真っ暗になった。雨音だけが異様に響き渡り、まるでその音がこの空間すべてを支配しているかのようだった。
「おい、誰か……いるのか?」
友人の声が震えていた。だが、その声も雨音に飲み込まれ、誰の耳にも届かない。拓也も動けない。ただじっと、その暗闇の中で足音を感じていた。
――トッ……トッ……トッ……
小さな足音が、濡れた床を踏みしめる音だけが聞こえる。湿ったチワワは確かにこの場にいる。そして、それが何をするつもりなのか、誰にも分からない。ただ恐怖だけが、濃密な霧のように空間を覆っていた。
「やめろ……来るな……」
拓也の声が、暗闇の中で虚しく響く。
その瞬間、ふっと視界が開けた。いや、正確には、一点だけが光に照らされるように明るくなった。拓也の足元だ。彼の周囲に小さな水たまりが広がり、その中に湿ったチワワが座り込んでいた。
「……なんなんだよ……お前は……」
拓也は震える声でそう呟いたが、チワワは動かない。ただ、濡れた目でじっと彼を見上げている。
――やめろ。
声がした。誰のものでもない、頭の中に直接響くような声だ。
「……誰だ?今喋ったのは……」
拓也は辺りを見回すが、店内は暗闇に包まれたままだ。友人の姿も、店主の影も見えない。ただ、雨音がやけに近く、そして重く響く。
――戻れ。ここに来るな。
声は再び響く。その声は冷たく、そしてどこか湿っているように感じられた。
「ここって……どこだよ!お前は一体……!」
拓也が叫ぶと同時に、チワワが立ち上がった。小さな体から、まるで雨そのものが滴り落ちるように水がこぼれ落ちる。そして、その水滴が地面に触れるたび、何かが浮かび上がる――人影だ。
「……何だ、これ……」
次々と現れる人影は、形がぼやけ、輪郭が定まらない。しかし、その中には見覚えのある顔も混じっていることに拓也は気づいた。
「あれ……吉田先生……?それに……母さん?」
影の一つが、ゆっくりと拓也の方へ向かってきた。
――彼らは戻れなかった。お前も戻れなくなる。
声が再び頭の中に響き、拓也の体は硬直した。湿ったチワワは、その足元で静かに立ち尽くしている。まるで影たちの案内役であるかのように。
「戻れ……って、どこにだよ!?」
叫んだ瞬間、店内に稲妻が走った。その光が暗闇を一瞬だけ照らし出す。
その時、拓也は見た。自分の周囲を取り囲む無数の影。それらはまるで、彼を引きずり込もうと手を伸ばしているかのようだった。そして、その中心で、湿ったチワワがじっと彼を見つめている。
「……嫌だ、行きたくない……助けてくれ!」
拓也は振り返り、逃げ出そうとする。しかし、足元の水たまりがまるで彼の足を絡め取るように動き、逃げることを許さない。
「やめろ!放せ!」
もがく拓也の体は徐々に沈んでいく。水たまりは深さを増し、まるで底の見えない沼のようになっていた。
その時、再び声が響いた。
――もう遅い。
湿ったチワワが、ふっと目を細める。それは嘲笑のようにも、哀れみのようにも見えた。
「誰か……助けてくれ……!」
拓也の声が闇に消えた瞬間、店内の灯りがぱっと戻った。
友人が慌てて辺りを見回すが、拓也の姿はどこにもない。ただ、床に小さな水たまりが残されているだけだった。そして、その中心に、湿ったチワワがじっと座っていた。
友人が一歩踏み出そうとした瞬間、チワワは突然立ち上がり、店の奥へと消えた。
店内は元の静けさを取り戻し、雨もいつの間にか止んでいた。しかし、友人も、店主も、その日を最後に町から姿を消した。
――雨の日、湿ったチワワには近づくな。
その噂だけが、町に残された。
**湿ったチワワ④**
雨の日が続く町で、湿ったチワワの噂は拡がり続けていた。拓也の失踪から数週間が経った頃、人々は湿ったチワワにまつわる怪異を避けようと、雨の日に外を歩く者はほとんどいなくなっていた。
だが、それでもその存在に触れようとする者がいた。
「くだらねぇ噂だよな。犬なんて怖いわけがないだろ?」
噂を鼻で笑ったのは健吾という男だった。年齢は三十を少し越えたくらい。地元の工場で働く彼は、泥酔した勢いで友人に賭けを持ちかけた。
「俺がそのチワワとやらを見つけてきてやるよ。そんで、噂が全部でたらめだって証明する。犬なんざ怖くねぇ」
友人たちは止めた。だが健吾は、彼らの制止を嘲笑うかのように傘も持たず雨の中に飛び出していった。
雨の音がしとしとと町に降り注ぐ中、健吾はふらつきながら歩いていた。空き地、駅前、路地裏――噂に出てくる場所を次々と巡りながら、湿ったチワワを探す。
「どこにいるんだよ、チワワさんよぉ。怖い犬だってんなら、一発吠えてみろ!」
声が雨にかき消される。だが、その時だった。
――トッ……トッ……トッ……
足音が聞こえた。
小さく、湿った足音が背後から近づいてくる。
「……ん?」
健吾が振り返ると、そこにいたのは濡れたチワワだった。ぺったりと濡れた毛が肌に張り付き、じっとこちらを見上げている。
「お前が噂の湿ったチワワってやつか?なんだよ、ただの犬じゃねぇか」
健吾は笑いながら近づき、チワワの前にしゃがみ込んだ。そして、そっと手を伸ばす。
だが、触れる直前――チワワがゆっくりと首を傾けた。その目が、濡れた黒い瞳が、健吾をじっと見つめる。
「……なんだ、その目……」
健吾の体がすくんだ。突然、雨音が止んだように感じられた。いや、止んだのではない。健吾の耳に届くのが、自分の心臓の鼓動だけになったのだ。
――ドクン……ドクン……
湿ったチワワの瞳の奥に、何かが見える。ぼんやりと揺れる影。それは水面に映る自分自身のようにも見えた。
「おい……なんだこれ……」
健吾はその場に立ち上がろうとしたが、足元の水たまりが彼を縛りつけた。水たまりは健吾の靴からじわじわと広がり、まるで意思を持っているかのように足を呑み込んでいく。
「放せ……なんだこれ、やめろ!」
健吾は叫び声を上げたが、その声も雨音にかき消される。そして、湿ったチワワが動き出した。
小さな足音が水たまりを踏みしめ、健吾の足元に近づいていく。その瞳は相変わらず、濡れた光を宿したままだ。
「来るな……!」
健吾が必死に抵抗する中、突然、視界が暗転した。
それはほんの一瞬だったが、健吾には長い時間に感じられた。暗闇の中で、何かが彼を見つめている。湿ったチワワが微笑むような表情を浮かべたその瞬間――
雨音が戻り、健吾は空き地にひとり、倒れていた。
「……え……?」
目を開けた健吾は、自分が無事であることに安堵した。雨はまだ降り続けているが、あのチワワの姿はどこにも見当たらない。
「なんだ……やっぱりただの噂かよ……」
そう呟いた健吾は、ふらつきながら立ち上がり、家へ向かった。
だが、その夜、健吾は奇妙なことに気づいた。
家の中にいるはずなのに、どこかから聞こえる雨音。部屋の隅に広がる小さな水たまり。そして――
「……誰だ?」
廊下の奥に、湿った足音が響いた。
**湿ったチワワは、一度見たら逃れられない。**
噂は再び町に広がり始めた。
某VTuberのクソマロの『湿ったチワワ』から着想を得た小説です。