本と2枚のチケット
その後ほどなくして、ちょうどいい感じの本があったので、僕は調べるテーマを決めた。
君津も同じだった。
僕らはすぐにそれらの本を借りてしまって、帰ってもよかったが、せっかく居心地のいい図書館なので、しばらくそこにいた。
図書館の二階には自由に話してもいいスペースがある。もちろん持ってきた本を読んでもいい。
僕らはまた席が空くのを見計らって、そのブースへ入った。
「あれ、その本は?調べるの医薬品業界じゃないよな?」
「まさか、医薬品とか難しすぎてわからないし。たぶん」
僕はは手をひらひらさせて否定した。
「…でも、ユーリ・ファーマシーって医薬品の会社だろ?またどうして…」
「ん?知ってんの?」
「え、むしろ知らないのか?全然有名な会社だぞ?世界的に」
え?そうなの?もしかして、僕が知らないのがおかしいっていう話なのか?
「たぶんテレビでCMとかやってるはずだし、いや、たぶんブランド名でCMしているからわからないのかもしんないけどよ」
そのあと君津が云ったシャンプー、洗剤、そして風邪薬は、確かに聞き覚えのあるものだった。
「ああ、それなら知ってる」
「だろ?でも、どうしてまたそんな会社の話なんて知りたいんだ?」
「いや、別に知りたいって言うほどのものじゃないんだけど、ちょっと気になって」
「ふーん。確か、結構歴史のある会社だよな」
「ずいぶん詳しいな…」
「いやいや、本当に大きな会社だから。確か数百年の歴史があるとか、そんなんじゃなかったかな」
「数百年??」
「そう。化学がまだまだ発展途上だった頃の店がルーツになってるって話でさ、詳しいって云うんなら、たぶんその話が記憶に残ってるんだな」
「そうなんだ…」
数百年も会社が存続するなんてことがあるものなんだな…。
「元々は個人商店だったって話だぜ。すげーよな。起業だよ。起業」
確か、この話はこの辺りで終了したような気がする。
この時点ではあまり深く考えていなくて。本当にただなんとなく気になったにすぎなかった。
いや、少なくとも自分ではそう思っている。 でも、僕は本を借りた。
普段の僕の性格で、普段の僕の頭で、普段の僕の指向で、思考で、ちょっと気になったとか、興味がわいたからとか云って、こんな頭が固まりそうな本を借りることなんてあるのだろうか?
そういう意味では、投げやりな云い方ではあるけれど、やっぱりこの本を借りたのは、何かしらの運命みたいなものだったのかもしれない。
とにかく、僕はこの堅そうな本を借りて、家で暇なときにでも読んでみることにした。
図書館から僕らの家へは電車を使う。
ショッピングモールの間から駅に入り、電車を待つ。
「そいえば、一昨日この駅、人身事故があったんだって」
「マジで?怖っ。やっぱり自殺?」
君津は露骨に顔をしかめる。
「ん。まあ多分ね。そう云うのってはっきり云わないからさ」
もちろん、今のホームはその時の面影なんて全くなくて。何事もなく、(まだ来ていないからわからないけど)数分に一回の割合で電車が無機質にやってくる。
「自殺かぁ…嫌な話だけど、電車の人身事故って、いちばん身近に自殺に関係するところだよな」
「僕の知り合いに現場見たって云う人いるよ。男だし、精神的にしっかりしてる人だから、その日の食事がのどを通らなかったくらいで済んだみたいだけど」
「それはさすがにレアだけどな…。自分の電車が事故で止まったことくらいはあるよな」
まだ夕方と呼ぶには早いホーム。人はまばらで。そのまばらな人たちもみんな、時間に追われていない、どこかうつろで、止まっている人たちが多いような気がした。
実際は主婦って云ったって、学生って云ったって、例えおばあちゃんだって、何かしら忙しいと呼ぶに足るタスクを持っているのかもしれないのだけれど。
それでも、朝の喧騒と比べるとなると、あからさまにそのホームはゆったりと、ねっとりと時間が流れているように感じられた。
「自殺か…オレだってこんなだし、希望に満ちた未来ある若者からは程遠い位置にあるけど、それでも自殺しようとか、もう死にたいとか、そうは思わねえよなあ…」
ま、確かにこの体と心は不本意だけどさ…。そう付け加えた。
「僕も自分が死のうとは思わないけど…もちろんさ。でも、なんだろ。ここで自殺が起きやすいのはすごく分る気がする」
「へえ?」
「だって、『黄色い線の内側』に立っていたってさ。タイミングさえ合っちゃえば。たった二歩だよ。二歩。二歩だけ歩みを進めれば、人生を強制終了させることができるんだ。こんなに気軽で『魔がさし』てしまいそうな場面って、なかなかないような気がする」
「また、怖いこと云うな」
「まあ、そうだけど。でも、そうだろ?」
「…まあな」
時々不気味になるのは、きっと僕がどこかしら同感してしまう、共感してしまうところがあるからなんだと思う。命を強制終了させる人の。
そりゃあ、死にたくはないし。絶望もしていない。
でも、人生を謳歌するに足る希望も理想もない。
でも、とにかく、僕は時々不気味に思ってしまうんだ。
どうして、たった数時間で、こうも、痕跡をなくしてしまうんだろう。人がいた痕跡と。人が消えた痕跡と。
それは、この空間が機能する上で。この世界が流れるうえで。当然でしかなく、それが正しいことではあるのだろうけれど。それでも。
やっぱり、その復旧が早く、手際が良ければよいほど。
人はそっけなくて。無機物で。
彼が持っていた絶望は空っぽで。簡単に消えて。消せて。
彼は簡単に…無くなってしまって。
そんな風に感じてしまうのだった。
「きっと僕が抱えている悩みとか、わだかまりみたいなものだって…」
「ん?どうした?」
君津が怪訝な顔で僕を見ていた。いつの間にか僕は考えていたことを口に出してしまっていたようだ。
「…ああ、いやなんでもないよ。あ、電車が来たみたいだ」
来た電車は準急だったか。快速だったか?
まあなんでもいいや。どうせ僕らはすぐに下りてしまうのだから。
車内は確実に移動しているはずなのに、ホーム以上にその空間は止まっている。
あまりにも緩やかで。この電車がターミナルに向かって人よりもずっと速いスピードで向かっていることさえ、弛緩させるような止まった時間。
「電車って、ついつい眠くなっちゃうよね。なんでだろ」
「なんかこの揺れがそういう感じにしてんじゃん?単調すぎて心地いいし。あと最近の電車は、って昔のは知らないけど、電車って静かでスムーズじゃん?」
そう。スムーズ。電車はそれこそ人に邪魔されない限りスムーズに目的地まで着くことができる。
あまりにもスムーズな動だからこその静。それがここにあって。そして僕は眠くなる。
動きがないのは、いまの僕自身と一緒だな。一瞬思った。
僕は進みも戻りもしない。乱れも揺れるもしない。とても静かな個体。自分をそのように認識している。
でも、本当は全然違う。
電車と違って僕は、ターミナルに向かっているということはない。ただ、止まっている。モガク気にすらならないほどに。
スムーズな動なんかじゃなく、ただの止まった個体。
でも、見えるだろう?
外から見ればきっと、スムーズな歩みを進めているようにさ。
だってもう、大学に行くことが決まっちゃってるんだから。
「眠いんなら寝たら?起こしてあげるよ」
…そんな言葉を最後まで聞くか聞かないかのうちに。僕は沈んでいった。
「ねえ、話きいてる?」
ユーリの声にはっとする僕。
あれ、いま妙にぼーっとしていた。なんだったんだ?
気がつくと?いや、もう半時程はここにいるはず。ここはいつものコーヒーショップ。
僕らはまた医者の帰りにここで3時の軽食にしていたんだった。
「ん?ごめん。ついぼーっとしてた。春の風が気持ち良くてさ」
「もう。何それ」
「ごめんごめん。それで?」
「来月のリルダの結婚式の事よ。あの子、今大陸の方にいるでしょ?式もあっちなのよ。相手方が住んでいてね」
「へえ。そうか。じゃあちょっとした旅行になっちゃうね」
「そうなの。船を予約しておかないと」
リルダと云うのは、大陸で高等学院に留学している、ユーリの妹で、僕も何度か会ったことがある。
「ついでだから、大陸の方を旅行しようか。1ヶ月くらいどうだ?どうせ暇だし」
「私もそう提案しようと思っていた所。やっぱり旅行するしかないわよね~」
と云う訳で、僕らはその足で大陸行きの船を予約する。
流石に準備が居るので、出発は再来週にしておいた。
「妹さん、どこにいるんだっけ?」
「えーと、アイナハイゼムよ」
「へえ。すごい所に留学してるんだ」
アイナハイゼム学院都市は、特に理系学問の開拓が著しく盛んな場所で、さまざまな文明の原動力になっている所だ。
「なんか化学って云ってたけど。何?」
「化学。それはまた、新しい学問を研究してるんだ。あれはかつて錬金術とか呼ばれていたやつだろう?すごい話だ」
錬金術は別の物質から金を作る方法を見つけようってやつだ。いろいろな実験をしてね。
「…で、金は作れなかったんだけど、色んな物質に関する研究が進んで、それが化学になったって訳」
「へえ?そうなの?そんなすごそうな研究してるって、知らなかったわ」
「なんだよ。妹の仕事くらい、把握してなきゃ」
「あはは。難しい話は私はてんでダメ。私はただの奥さんだもの」
「まあ、それもそうか。で、船、どこで申し込む?あの辺で良いところって云ったら…」
「保養地があるわね。なんだっけ?エルピス?」
「ああ。そうか。じゃあそこに行こっか。この季節ならそんなに混んでないし、いいだろう」
僕らは窓口に行き、東の大陸行き航路の南路線の切符を買った。
これはエルピスに最も近い港に寄港する船で、そこからなら鉄道でエルピスへ行けて便利なんだ。
「うふふ。旅行って好き。いつもと違うって感じが好き」
ユーリはいつもより上機嫌。いいことだ。
「日常ね…働きもしないで、ずっと二人でいる僕らの暮らし自体、普通の人にはあまり日常っぽくない気もするけど」
ずっと夢の中にいるような。
それくらい幸せで、ふわふわした、不安定な日々。
「夢の中で夢を見たっていいんだから、非常からさらに非常へ逃げるのだって、誰も止められないんじゃない?」
まあ、それもそうか。
「ふふ。船って一泊よね。個室とった?大丈夫?」
「ああ。もちろん。あんまり広いのじゃないけどな」
「狭くていいわ。ベッドがあれば充分。あとは何も要らない」
彼女はきらきらしながら僕に身を寄せてきた。
やっぱりこんなのが日常なわけがないな。
きっとずっと夢なんだ。
僕の人生全部。