ゲームコントローラーとアイスクリーム
それでも、目を覚ますと、景色は僕の部屋だった。
…あれ。
僕は初めて夢を見た?確かに見た…ような気がした。
目がやたらと濡れていた。
きっと今にも泣き出しそうな目をしているんじゃないか?
今日は曇りのようで、窓から日はさしていない。
そう云えば、夢の内容は何だっただろう?
あまりよく覚えていない。
今までと違って、自分が何らかの景色の中にいたような、漠然とした感覚はある。でも、詳細な、鮮明な記憶は全く。
でも、ユーリと云う女の子については、確かに夢の中で重要な人だった気がした。
…かわいい女の子だったな。多分。
ああ、今日は土曜日か。
目の前のカレンダーを見て唐突にきづいた。
どうりで、誰も起きている気配がない。
僕は一人部屋を出て、台所へ行く。
やはり、僕以外の家族はまだ寝ているようだ。
僕はお湯をわかし、棚からティーカップと、アールグレイのパックをとりだし、準備した。
パンが一欠片もなかったし、冷蔵庫に至っては殆どの食材がなかった。
近く広い道の側に24時間のスーパーマーケットが出来てからと云うもの、冷蔵庫に物が揃う事が少なくなったように思う。
なぜなら、今の僕のように、なくなったら買いに行けばいいって思うからだ。
冬の入り口と云っても、外はまだ紅葉もしていないし、太陽は暖かい。
地球温暖化のせいかなんだか知らないけれど、僕が高校に行き始めてからの東京は異常に暖かく感じる。
毎年、この時期なんか、冬をスキップして秋からまた春になっちゃうんじゃないか、なんて思いもする。
広い道に出ても、土曜日の朝なんて、出歩く人はそう多くなかった。
地下鉄の駅に行けばもっともっと沢山いるかも知れないけれど、地下鉄に乗る用事はない。
僕は諦めてスーパーマーケットに入る。
そこもやっぱり、スーパーマーケットの豊富な品揃えが滑稽に思えるほど、客はまばらにしかいなかった。
時々不安に思う。
こんなにお客さんが少ないのに、果たしてここにあるものは全て売れるのだろうか?
もし売れないならば、あの色とりどりの野菜や果物はどうなっちゃうんだろう?
捨てられるんだよね。きっと…。
だから、スーパーマーケットは嫌いだ。
僕はそそくさと朝のパンと昼の材料になりそうなものを適当に買って、レジに並んだ。
スーパーマーケットに並ぶパンは、野菜は。
捨てられるか食べられるか。運命は2つだけ。
僕には運命と呼べるほど可能性と期待性の高い将来はない。
わかっているのは。
遠い未来に朽ちていく事。
それだけ。
僕は朝とも昼とも云えないような食事をして支度をしたあと、君津の家へ遊びにいった。
彼女の家にいくと、大抵いつもゲームをしてしまう。
今日もその流れは変わる事がなかった。
「怖い夢は見れたか?」
僕がそのコース一番の難所を曲がったら。君津が尋ねた。
「さあね。怖いかどうかはわからないけど、何か夢は見たみたい」
「中味は覚えてないのか?」
「うん。殆ど」
ただ、ここよりずっと寒くて、空っぽだったような。
「…なんか感覚だけに残ってて、情景は覚えてないって感じ」
君津の車はコーナーで些か外側のフェンスにぶつかった。
「でも、怖い夢ではなかった…そんな気がするんだけど」
「そうか。良かったじゃん」
それから暫く僕らは画面に集中した。
「そう云えば、君津って学部どうするの?」
「んー、まあ理科と数学は嫌いだから、文系だよな」
学内進学は、多少の要件の違いこそあれ、医学部を除けば、全ての学部から志望学部を選ぶことができる。
「経済学部とか?」
「んーあれも数学いりそうだし…教育とか?」
「先生になりたいの?」
「全く…どっちかってーと子供苦手…」
「ダメじゃん」
君津はあまり学部を考えていないようだった。
「でも、実際大学で学んだ内容を生かす仕事なんて殆どないだろ?教育行ったって、先生になる人って寧ろ少数派らしいぜ?」
「…そうなんだ」
「結局大学とか就活しやすいようにする為に行くだけなんじゃないか?」
「…そうかな…」
「でも、僕らが普通に就職なんてできるのかな?」
「…まあ、どうなんだろうな?その時になんないとわからん」
君津は首を傾げて云う。
「いかに普通でいるかを競うのが就職活動じゃない。だから僕ら、やっぱり苦労しそうだよね」
「まあな…」
車は僕の方が一瞬早くテープを切った。
「…だから、就職のこと考えて大学行く気にはならないんだよ」
「まあな…」
これから僕らはどこへ行く?
みんな普通でない人間の中で、とりわけ普通になれない僕らが。
それとも普通になる方法がどこかにあるんだろうか?
「じゃあ何かに興味を持ってみれば?」
「大学の学部で?」
「まあそれでもいいし、そうじゃなくても、さ。なにかこの先生きる切欠をみつけりゃあいいじゃん」
「切欠ね…」
なんにもないな…。
「…なんか僕は、このまま、コップの水が蒸発するように、少しずつ消えていくように生きていくきがする…」
「…おいおい。ニート一直線なこと云うなよ」
いつの間にか僕らはコントローラを床に置いて話していた。
「…誰か水をくれないかな~」
「…何云ってんだか。おまえちゃんと大学進学はしろよ?何にしても」
君津は心配そうに僕に云う。
「そりゃあするって、大丈夫」
「学部は?」
「もちろん経済学部だよ」
「もちろん?」
「やる気のない学生は経済学部だろ」
「そうなのか?」
いや、わからないけど。あと本当の経済学部生には明らかに失礼な話だけど。
経済学部生の皆さん、ごめんなさい。
その日も僕は手を胸の上に重ねて眠る。確かにあれは悪夢じゃなかった気がするし、もっと鮮明な感覚が欲しいと感じている気もする。
殆ど何も覚えていないのに、そんな感覚になる自分は何か変な気がするけど、どちらかと云えば僕はあの夢をもう一度見たい気がしていた。
その日もいくつかの余計な、徒然なことを考えた後、僕は眠りに落ちたようだった。
もし、明日で命が終わってしまうとしたらどうするか?
今日一日何をするか。
人生最後の日を誰と過ごすか?
そんな話を誰かとしたことがあった気がする。
必ず愛する人とずっと一緒にいようとか、おいしいものを目一杯食べようとか、どこか美しい景色を見れる場所へ行こうとか。
或いは逆に、どこか一人になる場所で、これ窓の人生のこと、楽しかった事とか、大変だったこと、悲しかったこと、感動したこと、そんなことを振り返りながら消えていこうとか。
色々な事を話した気がする。でも…。
それはいったい誰と、いつ?
この世界では多くの人は、近々死ぬことを覚悟して、或いはあきらめて生きているんだと思う。少なくとも僕はそうだ。
確かに研究のおかげで、『Deadline』を乗り越えれば、しばらく命は長らえられる可能性は高いけれど、それだって100パーセントではない。時々…といっても世界的には結構な数の人が毎日その命を終えている。
それなのに、果たして僕は誰かと、もし今日が最後の命だったとしたらなんて話はするだろうか?
それにしても、死に行くことがこんなに自然に受け入れられるような気がするのは、きっとこの病気、死ぬときに苦痛がないことが分かっているからなんだろう。
それは聖籠病の大きな特徴。患者はまさに眠るように、永遠の旅に出るのである。
「聖なるかごに乗って、天国へ旅立つ」まだ、この病気が一民族の病にすぎなかった頃は、そんな風に言い伝えられていたので、聖籠病、と名付けられているのだ。
そして、僕もまた、この病気にかかっている。先に申し上げた通り。
常に聖者は、僕をかごに乗せるか乗せないか選択しながら、時間は溶けている。
目の前にあるアイスクリームという食べ物を見ながら、僕はそんなことを考えていた。
「時々、ひどく黙っちゃうのね」
ユーリが声をかける。
「いいえ、結構頻繁に、かもしれないけれど」
そう言葉を続ける。
「ああ、ごめん。このアイスクリームっていうのがさ、甘くて冷たくてすごく好きなんだけれど、まだ僕にとって『変わった存在』なんだよね。ついついぼーっと見てしまうんだ」
「急いで食べないと、溶けてなくなっちゃうわよ」
笑いながらそう云う。
そう、このアイスクリームも急いで味わってもらわないと、ただのべとべとした液体になっていく。
何の気もなく、音を発する事もなく。ただ自然の流れで、時と熱が、その物体を溶かしていく。
そういう意味では、僕も似たようなものかもしれない。
確かに、表面上は健康だから、僕らはこの病気が突然死をもたらすものだと思っている。
でも、実際は体のどこかで時限爆弾みたいな器官が、少しずつ、劣化していって。たまたまそれが運動期間とか、感覚に表れないだけで。実は僕も、このアイスクリームのように、徐々に死んでいっているのかもしれない…。
そうならば、早く僕も味わってもらわないとな…。
そう思って一人で照れた。
「チョコレート味のアイスクリームができたのって、知ってる?」
「へえ?チョコレート。このミルクっぽい、バニラっぽい味以外でも、アイスクリームって作れるんだ」
「まだ高級品らしいけどね。バニラアイスだって安いわけじゃないもの。でも、バニラアイスがここ数年でこんなに日常で買えるものになったのを考えたら、チョコレートアイスも、いつか食べられるようになるかもしれないわね」
「チョコレート、好きだっけ?」
「大嫌いよ」
彼女はごく自然にそう答えた。
口の中には、溶けたバニラの甘い味が広がっていた。