救出
冴島は階段室から出る前に乙位階の探知魔術を使い15階全体の状況を確認した。このフロアは下の14階と同じ配置になっていた。手前側通路を挟むように部屋がいくつも配置されていた。この中のどこかに神前愛梨がいる。ゾンビ達には今まで以上に用心しなくてはならない。
俯瞰図のように頭の中に浮かぶ15階の部屋の配置と、部屋の前に集まっているゾンビ達、そして部屋に閉じこもっていると思しき生者達の位置を冴島は把握した。部屋に閉じこもっている生者は2名だけだった。その部屋は正面通路の左側奥の部屋で、部屋の前にはゾンビ達が群れている。
冴島は迷彩機能はオフのまま、防壁も展開しない状態で大きな音を立てて非常扉を開けて15階の通路に現れた。その音を聞きつけてゾンビ達がドアの前からこちらに全速力で駆けてくる。尾上は冴島の後ろにいて迫ってくるゾンビ達の姿を見て引き攣るような悲鳴を上げた。
先ほどと同じように二つの風の甲位階の魔術を励起する。
・・・さっきの魔術は威力が強すぎたな。斬撃の方が被害が少ないだろう・・・
先ほどとは異なり細い隙間を風が吹き抜けるような高い風音がした。目に見えない風による気圧変化でカマイタチが発生し、通路の左右の壁に2本の裂け目が前方に向かって走っていく。手前のドアが真っ二つになり壁に切れ目が入っていった。
術の範囲を狭くなるように制御すると壁面に裂け目がつかなくなった。通路ギリギリの幅で目に見えない斬撃の魔術が遠ざかっていき、ゾンビ達のところに届くとゾンビ達の首近辺と胴体が真っ二つに切断された。尾上は一瞬にしてゾンビ達が真っ二つになったのを見て呆然としていた。
冴島は小銃を構えると、左側の通路を早足で突き進んでいった。尾上はその後ろを少し離れてついていく。
ドア横のボードに名前が印刷された紙が挟まれている。先ほどの術でボードは中程から切断され紙はくしゃくしゃになっていた。かろうじて安藤正雄という名前が読める部屋の前に来た。
「その部屋だと思います」
背後から尾上が冴島に声をかける。
冴島はドアをノックした。
「湊大地です。この近辺のゾンビ達は倒しました。開けて大丈夫です」
ドアの奥で重いものを動かす音がした後に鍵を外す音がして数センチほどドアが開いた。ドアの隙間からテレビの情報番組で何度も見たことのある神前愛梨の顔の半分が不安そうな表情でこちらを見ていた。
「こちら側の通路のゾンビは倒してるから安心してください。怪我はしてないですか?」
冴島の後ろに尾上が立っているのに気づき開けて大丈夫だろうと判断したのか神前愛梨はドアをさらに開いた。
真っ青な顔色をしているが神前愛梨は無事なようだった。闘う術を持たない女性が助かる確率は凄まじく低い。冴島は愛梨の異変を察知してすぐに部屋に閉じこもった判断力と幸運に救われた思いだった。
「はい、私は大丈夫です。でもイブさんが...」
部屋の中を振り返る愛梨の視線の先には右手首近辺に血で染まったタオルを巻き付けている女性がいた。愛梨より少し年上に見える細身の女性で、冴島が病室で見ていたニュースによく出てくる報道系の女性アナウンサーだった。
「ひどい怪我をしてるじゃないか」
冴島の背後から部屋の中を覗き込んだ尾上が大きな声を上げた。
「静かに。このフロアのゾンビは全部倒していないから音はなるべく立てないようにしてください」
しまったという顔をした尾上は手のひらを口に当てた。
「中に入っても良いですか?」
冴島は周囲を伺うと低く感情を抑えた声で愛梨に尋ねる。
「はい、大丈夫です」
先に尾上を部屋の中に入れると、冴島は小銃を廊下側に向けて背中からドアの隙間をくぐり抜けてドアをゆっくり閉めた。ドアの裏側にはバリケード代わりに移動したと思われる控え室に備え付けの空のロッカーが置いてあった。なんの役にも立ちそうになかったがドアの鍵を閉めてから、そのロッカーをドアに押し付けるように配置した。
「傷を見せてください」
冴島はイブと呼ばれた女性に近づいた。控え室の椅子に腰掛け血の気の引いたような青白い顔をしていたがニュースで見ていた以上の美人の女性だった。首からかけている社員証には沢田伊吹と書かれていた。
「沢田君、その怪我は?」
尾上が沢田伊吹に話かける。
「私を助けようとしてゾンビに手首を噛まれたんです...」
愛梨が悲しそうな顔をして怪我をした経緯を説明した。
「それじゃあ沢田君も...」
「私、ゾンビなんかになりたくないです」
目に涙を浮かべ沢田伊吹は泣きじゃくっていた。
冴島は血染めのタオルを手首から剥がした。小指側の掌に咬み傷があり血が止まらずに溢れていた。
「噛まれてどのぐらい経ってますか?」
愛梨が、
「30分ぐらいです...」
と答えた。
「それならまだ大丈夫だ」
ゾンビに噛まれることで体内に侵入する惨跛の展開された術は身体の中を移動するスピードは実は遅く設定されている。じわじわと迫り来る死の恐怖で怯えさせるための演出のようなものだった。
・・・30分ぐらいならまだ肘に到達していないだろう・・・
「沢田さん、聞いてください。痛くないようにしますけど精神的な衝撃が大きいと思うので私が良いというまで目を閉じて絶対に動かないでください。音にも反応しないでください、できますか?」
「あの...私、助かるんですか?」
冴島は沢田伊吹の問いに頷く。
「俺のいう通りにしてくれれば大丈夫です。ですが言ったとおり、直視に耐えられないでしょうから目を閉じて動かないでください」
冴島は沢田伊吹の怪我をしている右手を真っ直ぐに伸ばすと、左手で伊吹の手首の上の方を軽く掴んだ。
沢田伊吹は唇を噛むようにして目を閉じる。
右手の小銃を床に置くと、冴島は左腰の龍髭刀を右手で引き抜いた。伊吹の上腕の半分ぐらいの位置に狙いを定める。
痛覚を遮断する魔法と治癒魔法を同時に励起させると、法力を眉間の龍脈孔から練り上げながら紙撚りのように細くして、励起させた法術の術式を法力で描いていく。痛覚を遮断する魔法を伊吹の右肩から右手の指先まで行き渡るように制御しつつ、狙いを定めた龍髭刀をゆっくり振り下ろす。
痛覚を遮断する魔法は散々練習してきていた。瞬時に法力を練り上げて対象の場所の痛覚を遮断できなければ凄まじい痛みで戦えなくなってしまうからである。
加多弥と夜叉との訓練で自身に何度も使ったからであるのは言うまでもなかった。
淡い薄黄色い光に包まれた伊吹の上腕になんの抵抗もなく龍髭刀が食い込み腕が簡単に切断された。
上腕の切断面から大量の血が噴き出したが床に落ちるどころか空中で静止し切断面に戻っていく。そして切断されたはずの腕が切断面から生えるように腕が伸びていくと、20秒程度の時間で沢田伊吹の切断された右腕は指先まで新品の腕に置き換わっていた。戦闘中ではないため瞬時に欠損した腕を修復する必要がなかったとはいえ、瞬時に腕が生えたように見えた愛梨と尾上は、映画のワンシーンを見せられているかのような、その光景を見て声すら出せずに呆然とその光景を見つめていた。
「もう目を開けて良いですよ」
冴島に言われ、沢田伊吹は目をゆっくり開けた。服の袖がなくなっているものの、ゾンビに噛まれた傷どころか血さえついていない右手が彼女の目に入ってきた。
「えっ...嘘...どうやったらこんなこと...」
驚きを隠せない伊吹が冴島の方を振り向くと切断された腕を掴んでいる冴島の姿が目に入ってきた。
「きゃーっ!」
伊吹の大きな叫び声が部屋の中に響いた。その声に呼応するかのように、この部屋が接している廊下の向こう側の通路の方からゾンビ達が音の発生源に向かって押し寄せてくる音がドアの向こうから聞こえてきた。
「声を出さないようにと言うの忘れてました」
冴島はそう言うと龍髭刀を鞘に収め、床に置いた小銃を取り上げて左手で持っていた切断された腕を放すと、両手で銃を構えながらドア方向に正対した。床に落ちた腕が重い肉を落としたような音を発したのと同じぐらいのタイミングで小銃から実体弾が何十発も発射された。引き金を引く前に乙位階の探知魔術でドアの向こう側のゾンビ達の配置を確認していた冴島にはゾンビ達の頭部をドア越しに打ち抜くのは造作もないことだった。その代わり、穴を穿たれたロッカーとドアは最早使い物にならない有様だった。
引き金を引く指を離すと、辺りは静寂に包まれた。控え室側にはゾンビは一体もいなくなったが、向こう側の廊下に面しているオフィスルームのドアの向こう側にはゾンビが何十体も蠢いている。ゾンビ達はそのドアを開けられないようで、こちらにくる気配はなかった。
冴島は惨憺たる状況のドアを見て、
「まともなドアのある控室に移動しましょう」
そう言って、ボロボロになったロッカーを片手で引き倒し、ボロボロのドアを蹴破った。
廊下に出ると動かなくなったゾンビ達が折り重なるように周囲に大量に転がっていた。まさに死屍累々という有様であった。
突然動きだして噛まれたりしないように他の3人に魔術防壁をかけることは忘れなかった。
斜向かいのドアが壊れていない控室に4人で入ると鍵を閉めて一息つくと、各々が椅子やソファーに腰掛けた。愛梨が自分のことを見つめていることに冴島は気がついた。
「これで少し落ち着けたかな?」
冴島は怖くならないように優しく愛梨に語りかけた。小柄で小動物のような可愛らしい感じの愛梨の大きく黒目がちの目が冴島の...いや、湊大地の目を見つめ続けていた。
「あの...まずは助けていただいたことのお礼をさせてください。ありがとうございます。イブさんもゾンビにならなくて済んだみたいですし...」
その言葉を聞くとふと思い出したように、沢田伊吹が冴島に向かって頭を下げた。
「さっきはありがとうございます。すぐにお礼を言わなくてはいけなかったのに。それと、驚いて大きな声を出してしまってすみませんでした...」
「あの状況では驚いて当然です。気にしないでください。そんなことより右手の具合はどうですか?」
「全く違和感ありません...あの、これはどういう...」
どのように質問したら良いのかわからないといった複雑な顔をしている沢田伊吹を見ていると、自分が湊大地と入れ替わったり魔術や魔法を初めて見た時の自分もこんな感じだったのだろうと思い、失笑しそうになった。
・・・さて、なんと説明したら良いのか。だが、嘘で誤魔化すことは難しいだろうな・・・
「信じるかどうかはわからないですけど、あなたの腕は魔法で修復しました。あ、皆さんがゾンビにならないようにする魔術をかけておきましょう」
冴島は惨跛の術を予防し、既に脳内で待機している魔術を解除する魔術式を脳の記憶域から思い出すような感覚で引っ張り出すと、ごく少量の法力を流し込んだ。愛梨、伊吹、尾上の3人を青白い光が取り巻き光に包まれると光は消失した。
「これでゾンビに噛まれてもゾンビにはならなくなりました。それからゾンビに関係なく死んだとしてもゾンビとして復活しません」
「あなたは、何者なんですか? 魔法を使えて、しかも銃を持っているし...国防軍の方ではないんですか?」
青白い光に包まれた自分の身体をさするようにして異常がないか確かめながら、尾上が冴島に質問した。
「俺は湊大地です。以前、軍には所属していましたけど今は違います。神前愛梨さんを助けて欲しいと言われたから来ただけです」
愛梨は不思議そうな顔をした。
「あの...どうして私なんでしょうか? さっき電話で話した時に聞いた冴島さんという人を私は知らないんですけど...」
「俺も詳細は知らないです。でもすごくお世話になった人だから恩返しのためにあなたを救いに来ただけなんです」
「でも、こんな危ないところに来て助けてくれるなんて普通じゃないですよね」
・・・本当のことを言うことはできない。なんて言うか考えてこなかったのは失敗だったな・・・
冴島は、もう一つの目的をふと思い出した。
「正直に言うとついでだったんです。このビルの上にあるヘリポートに用事があったんです」
確かにヘリポートにも用事があった。惨跛の術が打ち込まれたであろう場所である。
冴島のその発言に尾上が飛びついた。
「そうか、国防軍が救助に来てくれるかもしれないですよね。ヘリポートで待っていれば...」
尾上はヘリポートで待っていれば国防軍がヘリで助けに来てくれると思っているのだろう。
惨跛の術の詳細を知る冴島からすると、国防軍とはいえ無事とは思えなかった。自衛隊の時よりも銃器や弾薬の備蓄量はかなり多くなっている。だが、それで惨跛の術から軍組織を守ることができるとは思えない。さらに言うと、国民を守る使命を全うできるとは到底思えなかった。
この3人の命は冴島の次の行動にかかっていた。だが、愛梨以外を救う義理は冴島にはないし、そのつもりもなかった。




