2 世界の果てと少年
デール大陸の北部に位置するヴァンデール公国の北の雪積もる地に、「世界の果て」と呼ばれる底の見えない大きな地面の裂け目がある。公国の東西にある山脈の間に広がるそれは、千年以上前から好奇心に駆られた人々を飲み込み続けてきた。地面の裂け目の向こうには峻険な山が見え、その裂け目の幅は数十メートルある。裂け目付近の地面は脆く簡単に崩落する為、北へと橋をかけることが出来ず、更に東西の山脈もまた峻険で、そちらから北の山へ越える事も極めて困難だった。故に、極寒の地であるそこは世界の果てと呼ばれた。
また、世界の果ては精霊の生まれる所とされている。入ってみると、僅か10メートル程降りただけで不自然な暗闇に包まれ、左右どころか上下の感覚すら失ってしまう。灯りを持ち込んでいても深すぎる闇に自身の伸ばした指先さえも見えないという。脆い崖と不自然な暗闇のせいで、その裂け目の底に挑んで戻ってきた者は、一人もいない。その不可思議な闇の中から時折濃厚な目に見えない気配が上がってきて何処かへと消えていく。目に見えない濃厚な気配は精霊と呼ばれ、その精霊が現れる為に精霊の生まれる所と言われていた。
その世界の果ての傍らに一人の少年が倒れていた事は、まだ公国の辺境警備と報告を受けた公都の軍部にしか知られていない。
国軍の辺境警備に着き四年目、隊長となって一年のイリヤス・ノームは、部下からの報告に深い溜息をついた。世界の果ては大陸最北にある公国の更に最北。標高が高く雪の深いそんな場所で行き倒れているには、その黒髪の少年の服装はあまりにも軽装だった。首巻きや手袋こそ付けてはいたが、上質そうな黒の上下服は極寒のこの地で着るには薄く、羽織っている灰色の外套も重みがなく、派手な装飾は無いものの、いかにも外の世界を知らない貴族か金持ちの御曹司といった風体だった。年の頃もせいぜい十二~三。とても世界の果てに無謀に挑む冒険屋には見えない。
恐らく誘拐され、犯人達は移動中に裂け目に滑落し、運良く少年だけが残ったのだろうと推察された。岩が多く見通しの良くないこの地は、たまさか難民等が行き倒れる場所でもあったが、犯罪者が国境を越えようとするのも、安全な国境門では無くこういった場所だ。国境門をくぐろうとすれば、犯罪者は忽ち捕まってしまうのだから。
ヴァンデール公国や大陸中央のロワイデール王国の国民には黒髪は殆どいない。大陸南部のバルミア王国の民が黒髪黒目だが、彼らの肌は褐色だ。少年のように雪のように白い肌では無い。また、整った服装からは難民とも思えない。見た目には特に怪我などは見当たらないが、未だ目覚めぬ少年が起きるのを待って本人に聞くしかないだろう。
「他国の貴族絡みだと面倒だな」
イリヤス隊長の言葉に、朝食を摂っていた周りの隊員達は緊張したのかビクリとした。
辺境警備の砦に居る者は隊長のイリヤスで準騎士。爵位のあるものがこの地に配属されることはほぼ無い。足場の悪い世界の果てを利用して国を渡ろうとする者は滅多に居らず、主な任務は世界の果てに挑もうとする愚か者の捕縛とくらいで、公国の北部ほぼ全域を警備するにも関わらず、峻険な山に挟まれているため警戒は最小限でよいと、隊長副隊長を含め僅か九人しか配属されていない。当然、この地において貴族と関わることなどこれまで無かった。この少年が貴族だとしたら、面倒な手続きが多く発生するだろう。
現在副隊長が介抱と監視をしている少年の居る部屋の方へ、全員の意識が集中していた。
早朝に発見された少年が目覚めたと報告が入って起こされたのは、イリヤス隊長が夜勤交代で目覚める予定時刻よりも前だった。
辺境警備の為の砦は少ない燃料で過ごす為に中心に食堂と厨房があり、隊員の居室は全てその周囲を囲むようにある。隊長の部屋も厨房の竈にほど近い場所にあった。
この砦には厨房を挟んで三つずつ居室があり、少年が寝かされていたのは厨房を挟んで隊長の部屋の反対側、副隊長の部屋の横の予備の部屋だった。
部屋の扉を開けると副隊長のバリーが振り返る。目が合うと、口を開かずに視線のみで頷いた。まだ訊問をしていない合図だ。その時、黒髪の少年が起き上がって話しかけてきた。
「□、□□、□□□□□□□」
聞いた事のない言葉だ。黒髪の少年は瞳こそ黒ではなかったが、イリヤス隊長にはどことなく品位があるように感じた。どこの国の言葉か分からんが誘拐の可能性が高いなと思いながら、表情は変えずに話しかける。
「すまん。君の言葉がわからんのだが、デール語は話せんかな?」
「で、でーる…?あ、貴方の話してる言葉は分かります」
少年から返ってきたのは綺麗な発音のデール語だった。デール語は主にヴァンデール公国とロワイデール王国とで母国語として使われている言葉で、このデール大陸の最も広範囲で使われている共通語とも言える言葉だ。取り敢えずは言葉が通じるようでホッとした。もしも貴族の子息だった場合に後から何か言われるかもしれないが、敬語に慣れていないイリヤス隊長は、そのままの口調で言葉を重ねることにした。
「そうか。良かった。ああ、そのままベッドに入ったままでいい。私はここの警備隊長のイリヤス・ノームだ。イリヤスと呼んでくれていい。君の名前は?」
少年は首を傾げてから口を開いた。
「青井洋輔です。」
「…アィ、ヨーシュ……?」
少年の名乗りが聞き取れなかった。
「……ヨースケで構いません」
困ったように眉尻を下げて、少年が言った。やはり聞き取りにくい名前だ。外国人の名前は難しいなと思いながら、イリヤス隊長は聞き取りに入ることにした。
「では、ヨーシュア。ここが何処だか分かるかね?」
ヨーシュア少年は何度か口を開いたり閉じたりしてから恥ずかしそうにはにかみながら答えた。
「あの……ここ、病院じゃないですよね」
どうやら状況を把握出来ていないようだ。イリヤス隊長は努めて優しく微笑んでみせた。
「ああ。ここは辺境の砦だから、近くに病院はない。幸い君には特に外傷などもないようだったから、ここで介抱させて貰った」
「砦って……」
ヨーシュア少年が考え込む。やはり、何故自分が砦に居るのか分からないのだろう。イリヤス隊長は彼の現状を教えてやることにした。
「ここはヴァンデール公国の最北にある砦だ。君は今日の明け方に『世界の果て』の傍で倒れて居たのをうちの隊員が見つけたんだ」
「……世界の果て?」
眉を顰めるヨーシュア少年に、イリヤス隊長は頷いた。
「ああ。君は外国人だよね?公国の最北は『世界の果て』だ。聞いたことは無いかね?」
ヨーシュア少年が首を横に振る。
「はい、初めて聞きました。俺、いえ、僕は行き倒れていたってことですか?」
イリヤス隊長は首を縦に振り、部屋の隅から古ぼけた木の丸椅子を持ってきてバリー副隊長の横に座った。バリー副隊長はイリヤス隊長が話すのに任せ、黙っている。
「この付近は東西共に国境が近いからね。君は何らかの犯罪に巻き込まれたのではないかと考えているのだが、何か覚えていないかね」
イリヤス隊長は、また微笑んでみせた。隣で、バリー副隊長が一瞬ビクリとして席を立つ。物言いたげな目をしながら背後へ移動した。空いた席にイリヤス隊長は座り直した。
「車に跳ねられて……その後、ずっと夢の中で暗闇に居たと思うんですけど、気がついたらここに居ました」
ふむ。やはり誘拐か。
イリヤス隊長はそう結論付けた。馬車に跳ねられて気を失っている間に拐かされたのだろう。もしかしたら、跳ねられた事故すら仕組まれたものかも知れんな。そう考えながらヨーシュア少年の顔を観察する。見慣れない容姿に他国の王族か上位の貴族かもしれないと思い至り、ゾクリとした。
真っ黒な髪と透き通るような琥珀色の瞳、色白で恐らく荒事のひとつも知らなそうな綺麗な手。そして変わった意匠のブレスレットに上質な素材と仕立ての衣類。何より丁寧で上品な物腰がヨーシュア少年の高貴さを際立たせていた。
砦に運び込んだ際に上着と靴を脱がせ、首巻きと手袋を外してからベッドへ寝かせたが、左手のブレスレットは手首に密着しており外せなかった。もしかしたら王族の証の装飾品なのかもしれない。
もしも王族の誘拐だとしたら辺境警備のような下っ端の領分では無い。血の気が引いたイリヤス隊長は、一刻も早く今朝飛ばした隼便の返事と自分たちに代わる対応者の到着を心の底から願った。